佐世保鎮守府所属
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ラバウル方面へ航海中の1942年(昭和17年)8月31日、特設航空母艦2隻(春日丸、八幡丸)は、それぞれ軍艦大鷹(タイヨウ)および軍艦雲鷹(ウンヨウ)と改名された。2隻は同日附で正式に航空母艦となった。大鷹は佐世保鎮守府籍に所属。艦容に変化はない。9月2日、ラバウルに到着して航空機輸送任務を終えた。大鷹はラバウルに入泊した唯一の日本空母となった。つづいて第21航空戦隊、第23航空戦隊の戦闘機・艦爆輸送任務に従事する。9月13日にミンダナオ島・ダバオを出発、17日カビエン沖合で航空隊を発艦、22日ダバオ〜25日カビエン沖合で発艦、これで輸送任務を終了し、第7駆逐隊の護衛下でトラック泊地に向かった。一旦、内地帰投の予定となる。なお本艦航海中、大鷹の搭載機は大幅に減らされることになった。 9月28日、大鷹はトラックの南水道南方で米潜水艦の発射した魚雷1本(2本とも)を被雷した。命中箇所は右舷前部。このアメリカの潜水艦はタンバー級潜水艦のトラウト(USS Trout, SS-202) である。トラック泊地では宇垣纏連合艦隊参謀長と第二海上護衛隊の将校が「近来潜水艦に依る被害少くなれるは結構なり」と会談した直後の襲撃と被雷であった。大鷹は羅針儀の故障により、附近を航行していた漣に水路嚮導を依頼する。機関科勤務者を中心に死傷者13名(戦死3、重傷3、軽傷7)を出し、速力16ノット(戦闘詳報では14ノット)で入泊した。第四工作部(明石)が応急修理をおこなった。宇垣連合艦隊参謀長は、横須賀鎮守府に損傷2隻(大鷹、漣)の特急修理を要請した。 10月1日、九六式艦上戦闘機3機、九六式艦上爆撃機5機を収容する。10月4日、駆逐艦2隻(時津風、漣)と共にトラックを出発、13日に哨戒艇46号に護衛され(豊後水道通過時)、14日に呉着。前部ガソリンタンクの損傷により気化燃料が漏れ出し、マリアナ沖海戦における空母大鳳のように爆沈しかねない情況下での航海だったという。呉到着と共に時津風は指揮下を離れた。内地帰投後、大鷹の戦闘機隊は解散した(大鷹飛行長五十嵐周正少佐は呉鎮守府附)。 10月22日、吹雪型駆逐艦響(第一水雷戦隊・第6駆逐隊所属)が大鷹艦長の指揮下に入る。響は第6駆逐隊の僚艦3隻(暁、雷、電)と分離し、大鷹艦長の指揮下で行動することになった。10月24日附で大鷹艦長は、高次貫一大佐から篠田太郎八大佐に交代した(篠田は10月1日まで特設水上機母艦神川丸艦長。後任の神川丸艦長は松田尊睦大佐)。10月28日、大鷹は呉を出発。駆逐艦2隻(響〈第6駆逐隊〉、漣〈第7駆逐隊〉)等に護衛され、横須賀に向かった。大鷹は11月1日に横須賀を出発、6日にトラックへ到着した。以後も航空機輸送任務に従事する。ガダルカナル島の戦いが激化するにつれて航空機の消耗は増える一方であり、大鷹型航空母艦は内地と前線を幾度も往復、航空機輸送任務に奔走した。 1943年(昭和18年)2月上旬から8月中旬まで、空母3隻(大鷹、雲鷹、冲鷹)は横須賀・トラック・フィリピン・スラバヤ方面の陸海軍機輸送任務に従事した。双発夜間戦闘機月光のラバウル進出にも協力している。また海軍機だけでなく、陸軍機の輸送も行った。3月上旬、日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」部隊(飛行第六十八戦隊)のラバウル進出が決定する。三式戦闘機を搭載した空母2隻(大鷹、冲鷹)は重巡鳥海、駆逐艦4隻(漣、響、黒潮、親潮)に護衛されて4月4日に横須賀を出発したが、4月8日夜、アメリカの潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) が空母部隊を発見する。距離800mの大鷹に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した。魚雷命中と誤認したタニーは冲鷹に対し魚雷6本を発射するも同じく早爆に終わった。10日、トラック泊地に到着して任務を終える。だが三式戦部隊はトラックからラバウルへの空輸において、液冷エンジンの故障・航空機による航法誘導の失敗により、不時着機や行方不明機を多数出してしまった。 4月16日、空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻(時雨、有明、響)に護衛されてトラックを出発。21日、横須賀に帰投した。前年10月より大鷹の指揮下にあった響(第6駆逐隊は4月15日附で内南洋部隊編入)は、4月21日より主力部隊に編入。その後、5月中旬よりキスカ島撤退作戦従事のため北方部隊(第五艦隊)に編入され、別行動となった。 5月、大鷹はフィリピンおよびシンガポールやスラバヤ等、東南アジア方面の輸送作戦に従事。5月29日、大鷹艦長は篠原大佐から、松田尊睦大佐(松田は4月26日まで神川丸艦長)に交代する。7月23日より、トラックへの輸送に3回従事した。8月4日、大鷹は駆逐艦2隻(舞風、大波)と共にトラックを出港。舞風(第4駆逐隊)は4日夕刻に分離したため、護衛艦は夕雲型駆逐艦大波(駆逐艦長吉川潔中佐)1隻となった。8月6日13時、対空訓練のため大鷹は之字運動をやめ速力18ノットで直進していた。この時、アメリカの潜水艦パイク(USS Pike, SS-173) が大鷹に向けて魚雷6本を発射した。右舷に雷跡4本を認めた大鷹は左舷に転舵、すると大鷹の右舷中央部(煙突附近)に魚雷1本が命中したが不発だった。負傷者2名、不発魚雷は水線下5mに窪みを生じさせた。潜望鏡に向けて高角砲と機銃を発砲、後方の大波も制圧に加わったが、パイクは損傷なく離脱して行った。8月9日、2隻(大鷹、大波)は横須賀へ到着した。 8月17日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母〈大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)として呉を出撃し、23日トラックへ進出。一度日本本土へもどったのち、9月7日に空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻(浦風、風雲、五月雨)に護衛されて横須賀を出発。11日に到着した。 9月21日、3隻(大鷹、冲鷹、島風)はトラック泊地を出発。9月24日、艦隊は島風型駆逐艦島風を先頭に、島風-冲鷹-大鷹という速力20ノットの単縦陣で航行していた。悪天候の中、父島の北東200浬北緯28度2分 東経145度59分 / 北緯28.033度 東経145.983度 / 28.033; 145.983で輸送艦隊は敵潜に襲撃される。午前7時前後、暗号解読により待ち伏せていたアメリカの潜水艦カブリラ (USS Cabrilla, SS/AGSS-288)が魚雷6本を発射した。日本側はカブリラに気付いておらず、大鷹が右舷500mに多数の雷跡を認めてから15秒後、すくなくとも魚雷3本が右舷側三ヶ所(艦尾〈起爆〉、前部火薬庫〈不発〉、爆弾庫〈不発〉)に命中した。前部弾薬庫にも1本が命中していたが、不発であった。一方、艦尾附近に命中した魚雷はスクリューと舵取機室を破壊、機械も停止して本艦は航行不能となる。被雷による死傷者は、戦死9名、重軽傷者24名と報告されている。衝撃で海に投げ出された本艦乗組員のうち、2名は大鷹救助艇に、8名は島風に収容された。島風は敵潜撃沈を報告しているがカブリラは沈んでいなかった。対するカブリラも島風の反撃と悪天候により空母2隻(大鷹、冲鷹)にとどめをさすことが出来ず、また連絡を受けたアメリカの潜水艦ジャック (USS Jack, SS-259)も大鷹を狙うが捕捉に失敗した。一方、航行不能になった大鷹は、冲鷹が曳航することになった。午後2時すぎ、2隻(沖鷹、大鷹)は速力11ノット程で横須賀へ向かった。なお駆逐艦漣(第7駆逐隊)も救援に向かったが会合点に艦隊を発見できず、25日13時に相手の位置を尋ねている。また横須賀に停泊していた駆逐艦白露(第27駆逐隊)も25日に大鷹救援のため出動、護衛部隊に加わった。26日16時30分、5隻(大鷹、冲鷹、島風、漣、白露)は横須賀に到着。ドックにて調査したところ大鷹右舷への不発魚雷命中痕跡は五ヶ所にのぼり、さらに左舷にも命中時期不明の不発魚雷命中痕跡がいくつかあったという。 横浜船渠(三菱重工業株式会社横浜造船所)における大鷹の修理は、長期間に及んだ。この時に、飛行甲板を前方へ10m延長(長さ172m)したが、それでも龍鳳(潜水母艦大鯨改造空母)より13mも短く、低速という事もあって改造効果は薄かったとみられる。一方、田村俊夫は乗員からの聞き取り調査を行い、飛行甲板の延長は無かったとしている。11月17日、松田(大鷹艦長)は軽巡洋艦阿賀野艦長へ転任となった。横須賀海軍港務部部長松野俊郎大佐が、大鷹艦長の職務を兼務する。
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