住友家の親族・姻戚関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:14 UTC 版)
ここでは、明治に入ってからの住友家とその親族・姻戚関係について述べる。 明治に入って、住友事業は12代目吉左衛門友親と、その子13代目吉左衛門友忠の下で営まれていたが、1890年に友親、友忠が相次いで亡くなり、男系相続者が途絶してしまう悲運に見舞われる。この時、住友家総理人広瀬宰平と大阪本店支配人伊庭貞剛は、友親の妻・登久に14代目吉左衛門を襲名させる一方、友忠の妹・満寿の婿養子として清華家の徳大寺隆麿を迎え、住友家の命脈をつないだ。これが15代目吉左衛門友純で、徳大寺実則、西園寺公望の実弟である。実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に入れ替わった。 (男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通━徳大寺公純━住友友純) 住友友純は、友親の長女・満寿との間に4男1女(3男は早世)をもうけたが、長男の寛一は経営に興味を示さず芸術方面に傾倒したために廃嫡となり、次男の厚が16代目吉左衛門友成として住友家を継いだ。 友成は元東宮職御用掛の西園寺八郎(西園寺公望の女婿・公爵毛利元徳の8男)の次女春子と結婚した。夫妻は2女をもうけ、長女邦子は侯爵佐々木行忠の長男行美(東京大学理学部教授)に嫁いでいる。行忠は1942年に皇典講究所長、國學院大學長にあげられ、さらに国史編修院総裁を経て、1946年に東京大神宮宮司、1951年には伊勢神宮大宮司に就任した国史の大家。なお、行忠の祖父高行は枢密顧問官で明宮(大正天皇)の御教養主任だった。次女博子は、昭和電工元社長・安西正夫の次男直之(三井不動産)に嫁いた。直之の兄孝之(元昭和エンジニアリング社長)は元日清製粉(現日清製粉グループ本社)社長正田英三郎の次女恵美子と結婚した。正田の長女が上皇后美智子であるので、住友家は安西家・正田家を通じて皇室と姻戚関係にある。直之の妹公子を娶ったのが住友銀行相談役堀田庄三の長男健介(住友銀行)であるから、住友家評議員会の前委員長の堀田庄三は住友家の相談役、総理事格から住友家と閨閥でつながった。なお西園寺八郎の三男・西園寺不二男は鮎川義介の長女を娶り、日産コンツェルン傘下の日産興業社長に就いている。元参議院議員の西園寺公一は八郎の長男であり、春子や不二男の長兄にあたる。 住友友成の姉の孝は、旧壬生藩三万石の藩主鳥居忠文子爵三男・忠輝(元住友本社取締役)を婿養子に迎えており住友忠輝と改名した。弟の住友元夫は、やはり旧小浜藩十万四千石の藩主酒井忠克(さかいただたえ)伯爵の七女・寿枝子を娶っている。寿枝子の三姉・香枝子(酒井忠克の三女)は、旧高松藩主の末裔で旧伯爵の松平頼明(まつだいらよりひろ、本郷学園理事)に嫁いでいる。また寿枝子の次姉・小枝子(酒井忠克の次女)は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫・精一郎に嫁ぎ、精一郎・小枝子夫妻の長女・由利子(寿枝子や香枝子の姪にあたる)は地球科学者で理学博士の鎮西清高(京都大学名誉教授、専門は地質学・古生物学)に嫁いでいる。また、鎮西と同じく地球科学者で理学博士の岩崎泰頴(岩崎弥太郎の曾孫で熊本大学名誉教授、専門も鎮西と同じく地質学・古生物学)は岩崎精一郎・小枝子夫妻の長男で、由利子の兄にあたる。 友成の兄の住友寛一は、1896年5月23日生まれ。前述のとおり若くして絵画に傾倒したため廃嫡され、以後画家・美術品収集家として過ごし、岸田劉生とも交流を持った。泉屋博古館所蔵の中国書画のほとんどは寛一のコレクションである。また鎌倉市の景観重要建築物「村上邸」の茶室は、鎌倉にあった寛一邸から移築したものである。皆川宗光の娘との間に4男2女をもうけた。長男の住友務は、元住友ビジネスコンサルティングと住友オーストラリア開発の会長を歴任した。住友務の長男進(日本電気)の妻揺子は東曹産業社長岩瀬徳郎の二女。岩瀬徳郎の父徳三郎は、元東洋曹達工業社長である。岩瀬徳郎の長女は、キッコーマン醤油一族である11代茂木七左衛門の養子賢三郎に嫁いでいる。また、住友務の妹文子は、元ミツワ石鹸社長の三輪善雄に嫁いでいるが、善雄の妹の佐登子は、元キッコーマン醤油10代社長茂木佐平治に嫁いでいるので、当主吉左衛門の兄住友寛一一族は、茂木一族と二重結合の閨閥関係にある。住友務の弟勝は、元関東電工会長の浅野八郎の娘桃枝を娶っている。浅野八郎は浅野財閥二代目総帥浅野総一郎の三男である。二代目総一郎の妻千代子は、自由民権運動の政治家・板垣退助の娘である。 当主の弟の住友元夫は、1912年1月1日生まれ。1936年に京大の物理学科を卒業、1946年に住友金属工業に入る。製鋼所技術部研究課長、技術部長、同所長友成代理兼研究部長、中央技術研究所副所長を経て、1962年11月取締役中央技術研究所長となり、常務を経て、1970年11月専務に就任、1972年11月に相談役、住友精密工業会長となった。住友元夫の長男住友芳夫(住友金属工業)も、阪大大学院基礎工学研究科博士課程修了の工学博士であるが、伯父の当主住友吉左衛門に嫡男がいないため、当主吉左衛門の養嗣子となっている。 このように、住友家は先代と二代続いて、旧華族と密接な閨閥関係を結んでいる。旧華族とのつながりといえば、当主吉左衛門の兄・寛一の子孫のほか、四男融が迎えた妻光子も旧公爵鷹司信輔の娘である。鷹司家は、公卿の中でも最高の家柄である摂家であり、徳大寺家や西園寺家とは、代々深いつながりを持っている。例えば、先々代の住友友純や西園寺公望公爵、そして元侍従長の徳大寺実則公爵などの父親である徳大寺公純は、もともと鷹司家から徳大寺家へ養子入りした人である。さらに、徳大寺実則の長女順子は、鷹司信輔の父である鷹司煕通(陸軍少将、侍従長)へ嫁ぐ、というように、鷹司家と徳大寺家は網の目のような連綿とした濃い血のつながりがある。このように、旧華族、しかも家格が最上位の摂家、清華家の家系と密接な閨閥関係にある住友家の家系であるが、住友家が旧財閥の西の横綱であるとしたらば、東の横綱、三井家との幾重にも重なり会ったつながりがある。 住友友純の妻満寿の妹楢光は、三井十一家の一つ「三井永坂町家」の八代目当主、元三井物産社長三井高泰(守之助)に嫁いでいる。楢光の嫁入りの時は、大阪から東京まで、7台の貨車を借り切って婚礼衣裳を送ったという。しかも三井高泰の長男高篤(元三井物産取締役)は、三井総領家である北家十代の三井八郎右衛門高棟の四女三井礼子を妻にしているので(のち離婚)、住友家と三井家の閨閥のつながりは、単に一族と一族との結合ではなく、本家と総領家が直接に結びついた本格的なものである。三井家との結びつきこればかりではない。先代吉左衛門友純の実兄徳大寺実則公爵の三女蓁子は、三井・室町家の三井高従に嫁いでおり、さらに実則の三男で分家した旧男爵徳大寺則麿の長女鶴子、つまり実則の孫娘が、やはり三井・新町家の三井高寔に嫁いでいるので、住友と三井両本家は、四重、五重の閨閥関係にある。また当主吉左衛門の姉婿忠輝の兄の旧子爵鳥居忠一も三井・南家八代八郎次郎の長女寛子を娶っている。この公卿を中心とした旧華族と、三井総領家である、北家、永坂町家、室町家、南家、新町家と実に三井十一家のうち、総領家を含む三井の五家との閨閥の拡がりがある。
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