西の横綱とは? わかりやすく解説

西の横綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 21:37 UTC 版)

中村政信」の記事における「西の横綱」の解説

中村政信は、低迷一途辿っていた飯塚勢を牽引し現在の最強地区飯塚」の地歩築いたエースである。第19期生としてデビュー同期には片平巧船橋)、岡部聡山陽)、須賀学(浜松)と後のSG覇者名を連ねており、「花の19期生」と謳われた中村政信全国に名が売れ始めた時期オートレース界は「船橋最強時代と言われ船橋オートレース場所属である片平巧島田信廣11期)の2人更には飯塚将光9期)や岩田行雄15期)が全国区席捲していた。 その一方で当時飯塚オートレース場所属勢の凋落著しくSGタイトル1987年3月31日第1回スーパースター王座決定戦崎正が優勝して以来誰も獲れていないという低迷期にあったそんな中にあって中村政信デビューするデビュー当時こそ目立った活躍はなかったが、その才能同期始めロッカー仲間からも一目置かれていた。そこで師匠梅田友幸(5期引退)らが『飯塚から全国通用する選手を』と思い立ち島田信廣の下へ越境弟子入りすることを画策程なくして中村島田信廣弟子となった。そして田代祐一15期伊勢崎オートレース場所属)の弟分として研鑽積み遂に飯塚のA級第1位にまで登り詰めたのである。 そして、1995年飯塚勢としては実に8年ぶりとなるSGタイトルを手にし、「西の横綱」の異名送られのである。 「決し諦めない走り」という評価は、中村選手としての性格端的に象徴する言葉であった。よく「メイチ(=目一杯)で頑張る」という科白を口にしており、その走り残り1周の段階で8番手であったのにもかかわらず写真判定で1着になったこともあるほどだった。師匠である島田の「選手ファン気持ち大事にしろ」という教え通り中村自分信じて車券購入してくれたファンのために、最後まで絶対に諦めない走りをした。 その信念象徴しているのが、第5回全日本選抜オートレース優勝戦である。この時中村政絶好調優勝戦臨んだが、道中先頭争いの中、岩田行雄15期船橋オートレース場所属)に接触され落車してしまった。しかし、走路投げ出され中村は自ら立ち上がり、再び競走車乗ろうとしたのである整備も熱心であったが、人一倍練習こなした。「車に頼らんと、人間頑張らんと…」という彼の言葉は、その人柄を端的に示すものであろう競走車性能満足せず、その性能を更に引き出すべく乗り手自身が自らを磨かなくてはならないということ簡潔に言い表すのである

※この「西の横綱」の解説は、「中村政信」の解説の一部です。
「西の横綱」を含む「中村政信」の記事については、「中村政信」の概要を参照ください。

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