西の海路への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:33 UTC 版)
「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「西の海路への影響」の解説
1014年、クヌートがイングランドへの再侵攻を準備していた頃、クロンターフの戦い(英語版)では、ダブリンの防壁前の戦地に展開した軍の隊列が戦っていた。レンスターの王モール・モルダ(英語版)と、ダブリン王国のノース系ゲール人の君主シグトライグ(英語版)は、アイルランド上王のブライアン・ボルに対する反乱への支援を要請するために、全てのヴァイキング王国に使者を派遣した。オークニー伯爵(英語版)のシグルド・フロドヴィルソン(英語版)がノース人の全軍の指揮を任された一方、上王はマー伯爵のドムナル(英語版)が率いたスコットランド人からの支援を求めた。レンスターとノース人の同盟軍は撃破され、両軍の司令官だったモールとシグルドは戦死した。ブライアンと彼の息子、孫、ドムナルも同様に殺された。シグトライグは生存したが彼の同盟は破棄され、アイルランドの上王権は再びモール・セックネール(英語版)のイー・ネイール朝(英語版)に戻った。 ダブリンのヴァイキング達にとって、アイリッシュ海海域での自由な時代は短く、北大西洋島嶼部の西海域全体に政治的空白の兆しがあった。その空白を埋めるため向かった彼等の中で突出していたのが、「スカンディナヴィア世界の統率力が西方の植民地に独特の影響力をもたらし、商業動脈の管理が政治的支配に経済的優位性を与えた」クヌートであった。ダブリン王のシグトライグにより鋳造された硬貨には、クヌートの四葉型があり——1017年から25年頃に発行された——散発的に彼の名前が入った銘に置き換えられ、「ダブリンの」または「アイルランド人の」支配者として称されていることから、クヌートの影響の証拠を提供する。更なる根拠は、クヌートの勅許の三つのうちの一つSihtric duxの印字である。 クヌートの宮廷詩人シグヴァト・ソルザルソンは、その詩の中で、高名な王子達がクヌートのもとに自らの首を差し出して和平を買ったことを物語っている。この詩ではオーラヴを過去時制にて触れているが、彼がスティクレスタッドの戦いで死亡したのは1030年であった。それ故、これとノルウェーを統合した後のある時点で、クヌートは1031年に軍隊とアイリッシュ海の海軍と共に、スコットランドに赴き、スコットランドの3人の王、マルカム2世とその後王位に就いたマクベス、Iehmarcの降伏を無血で受け入れた。三名のうちのIehmarcは、ギャロウェイ(英語版)を領地とするイヴァル朝(英語版)の酋長にして、アイリッシュ海の海上王国の支配者であったen:Echmarcach mac Ragnaillとされる。このような次第ではあるが、マルコムはクヌートの支配権をほとんど忠実に守らなかったようで、クヌートの死亡時までにはスコットランドへの影響力は消滅した。
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