ロサンゼルスオリンピックまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)
「瀬古利彦」の記事における「ロサンゼルスオリンピックまで」の解説
1976年入学当初、浪人中の不摂生もあって約8kg増量していた。早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、中距離からマラソンへ転向。以後、恩師中村と二人三脚で鍛錬の日々を過ごすことになる。箱根駅伝では1年次から4年連続で「花の2区」を走り、3、4年次で区間新を記録した。 1年生の1977年2月、京都マラソン(旧)で初マラソン。10位となり新人賞を受賞。2年生となった同年12月の福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を果たし、一躍次代のホープと目される。3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす(日本人としての優勝も1970年の宇佐美彰朗以来8年ぶり)。1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、ビル・ロジャース(英語版)(アメリカ合衆国)に次いで2位となる。この時の記録2時間10分12秒は日本学生新記録であった。同年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。 オリンピック開催年の1980年、大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社、オリンピックでの勝利を目指したが、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。 1981年2月の青梅マラソンに参加。仮想ボストンとしてオープン参加。モスクワ五輪銀メダリストのゲラルド・ネイブール(オランダ)に圧勝。このとき記録した1時間29分32秒は、2019年にチェボティビン・エゼキエル(ケニア)に破られるまで、38年間大会記録であった。3月22日にはニュージーランド・クライストチャーチでの記録会で、1レースで25000m(1時間13分55秒8)と30000m(1時間29分18秒8)の世界記録を同時に樹立した。この両記録は2011年にモーゼス・モソップに破られるまで、国際陸上競技連盟(IAAF)が公認するトラック種目として日本人が唯一保持する世界記録だった。その直後、4月のボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾る。この時の優勝記録2時間9分26秒は前年のビル・ロジャースの優勝記録を1秒上回る大会新記録であった。しかし、このあとトラック欧州遠征中に脚を故障、1年以上にわたってマラソンのレースから遠ざかることになる。この間、トレーニングと治療の両立という厳しい選択の中で中村と瀬古は様々な対応を試行し、最終的には鍼灸師による定期的な療養により克服した。中村はこの故障を「神様の与えてくれた試練」と表現した。 1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場。ロドルフォ・ゴメス(メキシコ)や宗猛を相手に40km手前の鮮やかなスパートで競り勝ち、日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒の日本最高記録で世界歴代3位(当時)の好記録で優勝し、名実ともに日本のトップランナーとして復帰を遂げる。この優勝により、瀬古は翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル候補として注目を浴びる。同年12月の福岡国際マラソンでも優勝し、ロサンゼルスオリンピックの代表に選出された。 その当時の瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。これは、中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。また、この2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考レースであったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、ロサンゼルスオリンピックでの金メダルの期待を高めていた。 しかし、迎えた1984年8月12日(日本時間13日)のオリンピック本番では、予定通り先頭集団につけていたものの、35km手前でずるずると後退し始め、優勝したカルロス・ロペスから5分近く遅れた14位という結果に終わる(日本勢最高位は宗猛の4位)。瀬古自身は20kmまでは体が軽くいけると思ったが、25kmぐらいから足にきた感じになり、35kmから40kmで集団のペースが一気に上がりついていけなくなった、と述べている。 本人の著書[信頼性要検証]ではロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。12月の福岡国際で優勝してから抜く時期を作らないで、本練習に入っており、その調子を8月まで続けようとしたこと自体に無理があったようだ。7月の北海道合宿中には中村監督から「癌になった」と打ち明けられ、休ませてほしいと頼むタイミングを失ってしまった。本番2週間前にはストレスから血尿が出てしまい、ドーピング回避のため漢方薬を飲んだが、下痢による脱水症状に悩まされた。 瀬古陣営はロサンゼルスの酷暑対策として、グアムやニュージーランドで合宿を続けていた。瀬古は本番直前の8月9日まで渡米を遅らせ、東京で最終調整を行ったが、むしろ東京よりもロサンゼルスの方が涼しく感じ、「こんなことならもっと早くロスに来ておきゃよかった」と思ったという。なお、中村は女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いのため、瀬古を東京に残して渡米していた。 瀬古は初めて経験する夏マラソンにいつもの経験とリズムがつかめなかったのが最大の敗因と見ている。練習では新しいナイロン製のものを使用していたが、試合直前にアシックスの三村仁司に申し出て「今まで負けたことのない布の靴」(比べて50g以上重い210g)で本番に臨んだという。 結果として1979年の福岡国際以来続いた連勝記録、1977年の福岡国際以来の「日本人でトップ」の記録もここで途切れた。
※この「ロサンゼルスオリンピックまで」の解説は、「瀬古利彦」の解説の一部です。
「ロサンゼルスオリンピックまで」を含む「瀬古利彦」の記事については、「瀬古利彦」の概要を参照ください。
ロサンゼルスオリンピックまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 20:18 UTC 版)
「グレテ・ワイツ」の記事における「ロサンゼルスオリンピックまで」の解説
4連覇が確実と目された1981年のニューヨークシティマラソンでは、足の痛みから初の途中棄権となる。このレースではアリソン・ロー( ニュージーランド)がワイツの記録を上回る2時間25分29秒でゴールし、世界記録更新と伝えられた。しかし、この年のレースは正規の距離より148m短かったことが3年後に判明し、実際にはこの時点でもワイツは世界記録保持者だった。 翌1982年4月のボストンマラソンにエントリーしたが、ここでも途中棄権に終わっている。しかしこの年10月から再びニューヨークシティマラソンで勝ち続け、1986年まで5連勝した。1983年のロンドンマラソンでは、2時間25分29秒の自己ベストを記録する。この記録をめぐっては世界最高記録になるかどうかでちょっとした騒ぎになった。というのは、計時は10分の1秒まで行われており、厳密なタイムは2時間25分28秒7であった。この記録の発表に際し、マラソンなら10分の1秒は「切り上げ」になるところ、当初他の競技の「切り捨て」ルールを誤って適用し「世界最高記録」とされた。直後に誤りが判明し、上記のアリソン・ローと並ぶ「世界タイ記録」に訂正された。しかし、現在ではローの記録が取り消されているため、この時点ではワイツ自身の持つ世界記録の更新だったことになる。だが、いずれにせよ、翌日に開催されたボストンマラソンでジョーン・ベノイト( アメリカ合衆国)が2時間22分43秒という大記録を打ち立て、わずか1日でワイツの記録は更新されたのだった。 とはいえ、ベノイトが記録を更新した後もワイツが女子マラソンの実力世界ナンバーワンという評価は揺らぐことはなかった。ベノイトの記録は、追い風8mという条件で全体としては下り坂の片道コースで樹立されたものであり(さらに、レポーターとして伴走した男子ランナーをペースメーカーに使ったのではないかという憶測を持たれたこともあって)、ワイツを凌ぐと見る関係者は少なかったのである。同年夏、ヘルシンキで開かれた第1回世界陸上競技選手権のマラソンに出場し、実力通り優勝した。この結果は、初めて女子マラソンが正式採用される翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル最有力候補という評価をますます高めた。 そのオリンピック本番では、他の多くの有力選手と同様、高温の環境を懸念して序盤での飛び出しを控えた。ベノイトの飛び出しにも、無謀と判断して付いていかなかったが、その後もベノイトは下がってこなかった。このときワイツは腕時計をはめておらず(計時車の直後を走るからという意図だったのか、単なるミスかは不明)、20kmをすぎてから並走していた同国のイングリッド・クリスチャンセン( ノルウェー)に時間を教えてもらって初めて自らの作戦ミスに気づき、あわてて追いかけるが時すでに遅かった。それでもワイツは2位を守り抜き銀メダルを獲得した。
※この「ロサンゼルスオリンピックまで」の解説は、「グレテ・ワイツ」の解説の一部です。
「ロサンゼルスオリンピックまで」を含む「グレテ・ワイツ」の記事については、「グレテ・ワイツ」の概要を参照ください。
- ロサンゼルスオリンピックまでのページへのリンク