ロサンゼルスオリンピックへの参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:59 UTC 版)
「劉長春」の記事における「ロサンゼルスオリンピックへの参加」の解説
1932年のロサンゼルスオリンピックについて、当時の中華民国国民政府は参加しない方針であった。日本の傀儡国家で建国間もなかった満州国は、満州国体育協会からオリンピックの組織委員会に対し、5月20日に劉と中距離選手の于希渭(謂)の2名を参加させたいという公文および電報を送った。 この参加構想が満州国政府系の新聞を通じて報じられると、劉は「中国人として、決して傀儡国家である満州国の代表としてオリンピックに出場することはしない」と表明した。その上で中国を代表してロサンゼルスオリンピックに参加する意欲を示した。 しかし、国民政府から派遣費用の拠出を得られず、参加が危ぶまれる事態となった。劉の在学していた東北大学体育系主任の郝更生が、劉および同行する教授の宋君復の遠征費用として1600ドルを友人から集めて、6月24日にようやく参加の申請が行われた。劉は東北大学を卒業後、7月8日に上海からアメリカの客船ウィルソン号で出発した。21日間の航海の後、7月29日にロサンゼルスに到着する。オリンピックはその翌日の7月30日に正式に開幕し、劉は選手1名の「急ごしらえ」の選手団として8番目に入場行進を行った。 7月31日に陸上競技が開始され、劉は100mの予選第2組に出場するが、5人中5位で予選落ちとなった。劉は日記に「ゴールではトップのランナーとは4ヤードの差があり、トップの選手は10秒9であったが自分は大体11秒前後であった。今までの競技会では80mまで他のランナーに追いつかれることはなかったが、今回は60m手前で先行を許した。よい結果を残せなかったのは、アメリカに来るまでの1ヶ月にわたる長旅による疲労と、旅行中の運動不足が原因である」と記した。劉はほかに200mと400mにもエントリーしていたが、疲労のため400mへの出場を断念した。200mでも予選敗退であった。劉は8月21日にアメリカを離れて9月16日に上海に帰着し、上海市民から温かい歓迎を受けた。
※この「ロサンゼルスオリンピックへの参加」の解説は、「劉長春」の解説の一部です。
「ロサンゼルスオリンピックへの参加」を含む「劉長春」の記事については、「劉長春」の概要を参照ください。
- ロサンゼルスオリンピックへの参加のページへのリンク