モンゴル人のロシア支配とは? わかりやすく解説

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モンゴル人のロシア支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:45 UTC 版)

タタールのくびき」の記事における「モンゴル人のロシア支配」の解説

ジョチ・ウルス」も参照 キエフ大公国分裂後分領時代にあってはポロヴェツ人キプチャク族)とルーシ諸公とのあいだは平穏なものとなっており、両者のあいだには婚姻関係結ばれて互いに親族となっていた。ポロヴェツ首長は、モンゴルの襲来予見して正教改宗し、南ルーシ諸公に対して援軍要請した。南ルーシ諸公ポロヴェツ連合軍は、1223年チンギス・カン忠実な家臣で、勇猛さ思慮深さ知られスブタイジェベによって指揮されモンゴル軍先遣隊偵察隊)に対しルーシ領域外のカルカ川まで出征し挑んだ大敗喫した1237年ジョチの子バトゥが再び大軍率いてルーシ攻略、さらにヨーロッパへ大規模侵攻開始した。これに対しルーシ団結整わずこの年12月リャザン公国6日間抵抗ののちに陥落した。公の一族皆殺しにされ、ロシア側の文献資料では、このとき女性や子ども、聖職者にいたるまで凄惨な殺戮があったことを詳細に記している。 また、ウラジーミル・スーズダリ大公国ノヴゴロド公国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などルーシ割拠していた諸国抗戦した完敗した1238年ウラジーミル大公国攻略の際、モンゴル軍途中モスクワ捕虜としたユーリー・フセヴォロドヴィチ(ユーリー2世)の末子ウラジミール黄金門の外に立たせて攻め込んだウラジーミル大公ユーリーは、このときウラジーミル脱出して北方退却したが、彼の末子斬殺され、ウラジーミル残され彼の家族生神女就寝大聖堂ウスペンスキー大聖堂)に立てこもった聖堂とともに焼き殺された。北方脱出したユーリー・フセヴォロドヴィチは、同年中、シチ河畔戦いでモンゴル軍敗れ、そこで戦死している。なお、現在、生神女就寝大聖堂黄金門大聖堂復元されており、焼失免れた大聖堂の扉のみは当時のものであるかくして、泥湿地囲まれ北端ノヴゴロドをのぞく全ルーシ征服された。モンゴルの侵攻によってルーシ多くの町が焼き払われた。都市再建停滞しステップ草原地帯などでは数百年にわたり再建が進まなかった都市もある。1245年モンゴル皇帝グユク謁見するためローマからカラコルム向かったローマ教皇インノケンティウス4世使者プラノ・カルピニ往路途中古都キエフ今や骸骨散乱する廃墟であり、わずか200世帯寒村となってしまったことを記録している。ヴォロネジ再建16世紀至ってのことであり、リャザン再建断念されて55キロメートル離れたペレスラヴリの町に中心移った。 この征西については、ルーシ殺戮により人口約半分失ったとする見解もあれば、コリン・マッケヴェディ(英語版)の推定のように、ルーシ人口モンゴル侵攻前の750万人から700万人減ったとして犠牲者総数を約50万人とする見解もある。 モンゴル人は大征西ののちもルーシの地を去ることはなく、カラコルム本拠とするカアンにしたがう一方、ほぼドナウ川以東広大な地域支配した。そして、ヴォルガ川支流アフトゥバ川河岸黄金陣営オルド)を建て、ここに首都サライ現在のロシア連邦アストラハン州)を築いてキプチャク草原ルーシ対す支配続けた。これが、モンゴル帝国西方管轄するジョチ・ウルスであり、この国をロシアでは「金のオルダ本陣)」と称したところから「金帳汗国」とも表記される首都サライ最盛期には人口60万人達した推定され中世世界で最大級大都市として繁栄したジョチ家ウルスであったジョチ・ウルスは、ラシードゥッディーン編纂の『集史によれば、その東半分バトゥの兄オルダ統括し、4人の弟(ウドゥル、トゥカ・チムール、シュソグクル、シソグクル)をしたがえて弟とともに軍の左翼指揮したのに対しバトゥウルスの西半分と軍右翼統括した。つまり、ハン国ジョチ2人の息子バトゥオルダ)で二分されていたほか、他の兄弟もそのなかに自らのウルス保有していたということであり、その意味ではハン国は諸ウルス連合体としての性格濃かった。そのため、歴代ジョチ・ウルスハンジョチ家家長であったにもかかわらず個々ウルスの長に対しては必ずしも強力な統率力行使できたわけではなかった。 ジョチ・ウルス中央権力機構は、ベクリャリベク(長老エミール)をリーダーとして軍事指揮権対外交渉をもつ系列とヴィジール(宰相)をリーダーとして財政徴税部門管轄する系列とに二分されていたが、征服国家としての性格反映して前者権威の方が高かった。そして、ベクリャリベクの下には方面軍指揮官とでもいうべき4人のウルス・ベクがおり、その下に70人のチョームニク(万戸長)、その下にトゥイシャチニク(千戸長)が配置されていた。いっぽうのヴィジールには、その下に主として徴税担当するダルーガが置かれた(詳細後述)。 1243年バトゥサライノヴゴロド公ヤロスラフヤロスラフ2世)を呼び出しウラジーミル大公位を認めてルーシ諸公長老としての地位あたえたウラジーミル大公位はもともと、ウラジーミル・モノマフの子孫の最年長者に与えられる爵位で、バトゥの征西の頃には名目化して別の実権をともなうものではなかったが、ハン叙任令書(ヤルリイク)を受けて叙任されると、慣例によって自らの領地加えウラジーミルその周辺領地併せロシア諸公間の第一人者であることが認められて、さらにハンとの交渉あたえられた。ヤロスラフは、シチ川死んだウラジーミル大公ユーリー2世の弟であった。兄の位を継承したヤロスラフであったが、1246年第3グユクカアン即位式赴いた先のカラコルムにて死去している。これについては、モンゴルによる毒殺だという記録同時代の史料確認されている。1247年ヤロスラフの子息たちがサライさらにはカラコルム呼び出されたが、3年間は帰国許されなかった。兄のアレクサンドルキエフ全ルーシ大公に、弟のアンドレイウラジーミル大公任じられた。 これ以後300年近くわたってサライハンたちはルーシ諸公臣従させ、ウラジーミル大公国ルーシ諸国首長に「大公」「公」の称号許し貢納義務づけるという関係が続いたハンは、13世紀後半モンケ・テムルのころより「ツァーリ」「ツェザール」(ともに「皇帝」の意)と呼ばれ、公たちの上君臨したノヴゴロド公国ハールィチ公国スモレンスク公国プスコフ公国などルーシ西部諸国もふくめ、ルーシすべての国がモンゴル帝国従ったノヴゴロド公ヤロスラフの子ドイツとの戦争生涯捧げたアレクサンドル・ネフスキーまた、ジョチ・ウルス対し恭順の意を表した。なお、キエフ大公称号得たもののウラジーミル大公位の得られなかったアレクサンドルはこの決定に不満をもち、1252年サライ赴いてこれを訴えウラジーミル大公への勅許状(ヤルリイク)を得た一方アンドレイは、バトゥ反目するカアン家の後援を受けたこのようにジョチ・ウルスハンジョチ家)とカラコルムカアン確執ロシア諸公巻き込んだジョチ・ウルス住民構成は、人種的にみればきわめて多様であった純然たるモンゴル人はむしろきわめて少数であり、住民大半テュルク系ポロヴェツ人キプチャク族)、ヴォルガ・ブルガールバシキール人およびチェルケス人東スラヴ人すなわちルーシ人印欧語系でペルシャ語に近いオセット語話したヤース人フィン・ウゴル系ブルタス族(英語版)などである。ハン国中心をなすキプチャク草原限っていえば、その圧倒的多数者はポロヴェツ人キプチャク族であったモンゴル征服によってポロヴェツ人はその臣民となったが、両者はほぼ同じ場所で遊牧生活送りさかんに婚姻関係結んだため混血進んでたがいに親族となっていった。 自らの存立基盤でもあるステップ地帯にあってはモンゴル人支配層は直接統治採用した。そのため、キプチャク草原における遊牧民社会関係には大きな変化生じたロシア年代記は、モンゴル人侵入以前にはポロヴェツ族諸公の名を数十名も記載しているが、侵入以後には1名も言及していない。モンゴル人ロシア諸侯ハンガリー王あての書状には、ポロヴェツを「奴隷と書き記しており、また、自分たちの氏族部族英雄の像を製作するというポロヴェツ風習13世紀から14世紀にかけて失われたものと考えられる。このことは、旧来のポロヴェツ支配層はその地位失ったことを意味している。また、遊牧民なかにはモンゴル支配層によって強制的に遊牧地を移動させられ事例認められるジョチ・ウルス支配であったモンゴル人たちは、やがて言語的にテュルク語化、宗教的にイスラーム教化していった。15世紀にはジョチ・ウルス解体再編成進みクリミア半島クリミア・ハン国ヴォルガ川中流域カザン・ハン国西シベリアシビル・ハン国などが成立した。これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者土着のテュルク系など多様な民族混交しこんにちそれぞれクリミア・タタールヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼称される諸族が形成されていったタタールなかにはロシアルーマニア移住してキリスト教受け入れて現地同化する者も少なくなかった。そのなかにはユスポフ家やカンテミール家など、のちに有力な貴族領主となった家系もある。

※この「モンゴル人のロシア支配」の解説は、「タタールのくびき」の解説の一部です。
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