モンゴル人のロシア支配
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「タタールのくびき」の記事における「モンゴル人のロシア支配」の解説
「ジョチ・ウルス」も参照 キエフ大公国分裂後の分領制時代にあっては、ポロヴェツ人(キプチャク族)とルーシ諸公とのあいだは平穏なものとなっており、両者のあいだには婚姻関係も結ばれて互いに親族となっていた。ポロヴェツの首長は、モンゴルの襲来を予見して正教に改宗し、南ルーシの諸公に対して援軍を要請した。南ルーシ諸公とポロヴェツの連合軍は、1223年、チンギス・カンの忠実な家臣で、勇猛さと思慮深さで知られたスブタイとジェベによって指揮されたモンゴル軍先遣隊(偵察隊)に対し、ルーシの領域外のカルカ川まで出征して挑んだが大敗を喫した。 1237年、ジョチの子バトゥが再び大軍を率いてルーシを攻略、さらにヨーロッパへの大規模侵攻を開始した。これに対し、ルーシの団結は整わず、この年の12月、リャザン公国が6日間の抵抗ののちに陥落した。公の一族は皆殺しにされ、ロシア側の文献資料では、このとき女性や子ども、聖職者にいたるまで凄惨な殺戮があったことを詳細に記している。 また、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ノヴゴロド公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などルーシに割拠していた諸国も抗戦したが完敗した。1238年のウラジーミル大公国攻略の際、モンゴル軍は途中のモスクワで捕虜としたユーリー・フセヴォロドヴィチ(ユーリー2世)の末子をウラジミールの黄金門の外に立たせて攻め込んだ。ウラジーミル大公のユーリーは、このときウラジーミルを脱出して北方に退却したが、彼の末子は斬殺され、ウラジーミルに残された彼の家族は生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)に立てこもったが聖堂とともに焼き殺された。北方へ脱出したユーリー・フセヴォロドヴィチは、同年中、シチ河畔の戦いでモンゴル軍に敗れ、そこで戦死している。なお、現在、生神女就寝大聖堂の黄金門も大聖堂も復元されており、焼失を免れた大聖堂の扉のみは当時のものである。 かくして、泥湿地に囲まれた北端のノヴゴロドをのぞく全ルーシが征服された。モンゴルの侵攻によってルーシの多くの町が焼き払われた。都市の再建は停滞し、ステップ(草原)地帯などでは数百年にわたり再建が進まなかった都市もある。1245年、モンゴル皇帝グユクに謁見するためローマからカラコルムに向かったローマ教皇インノケンティウス4世の使者プラノ・カルピニは往路途中、古都キエフが今や骸骨の散乱する廃墟であり、わずか200世帯の寒村となってしまったことを記録している。ヴォロネジの再建は16世紀に至ってのことであり、リャザンの再建は断念されて55キロメートルも離れたペレスラヴリの町に中心が移った。 この征西については、ルーシは殺戮により人口の約半分を失ったとする見解もあれば、コリン・マッケヴェディ(英語版)の推定のように、ルーシの人口はモンゴル侵攻前の750万人から700万人に減ったとして犠牲者の総数を約50万人とする見解もある。 モンゴル人は大征西ののちもルーシの地を去ることはなく、カラコルムを本拠とするカアンにしたがう一方、ほぼドナウ川以東の広大な地域を支配した。そして、ヴォルガ川支流アフトゥバ川の河岸に黄金の陣営(オルド)を建て、ここに首都サライ(現在のロシア連邦・アストラハン州)を築いてキプチャク草原とルーシに対する支配を続けた。これが、モンゴル帝国の西方を管轄するジョチ・ウルスであり、この国をロシアでは「金のオルダ(本陣)」と称したところから「金帳汗国」とも表記される。首都のサライは最盛期には人口60万人に達したと推定され、中世世界で最大級の大都市として繁栄した。 ジョチ家のウルスであったジョチ・ウルスは、ラシードゥッディーン編纂の『集史』によれば、その東半分をバトゥの兄オルダが統括し、4人の弟(ウドゥル、トゥカ・チムール、シュソグクル、シソグクル)をしたがえて弟とともに軍の左翼を指揮したのに対し、バトゥはウルスの西半分と軍右翼を統括した。つまり、ハン国はジョチの2人の息子(バトゥとオルダ)で二分されていたほか、他の兄弟もそのなかに自らのウルスを保有していたということであり、その意味ではハン国は諸ウルスの連合体としての性格が濃かった。そのため、歴代のジョチ・ウルスのハンはジョチ家の家長であったにもかかわらず、個々のウルスの長に対しては必ずしも強力な統率力を行使できたわけではなかった。 ジョチ・ウルスの中央権力機構は、ベクリャリベク(長老エミール)をリーダーとして軍事指揮権・対外交渉権をもつ系列とヴィジール(宰相)をリーダーとして財政・徴税部門を管轄する系列とに二分されていたが、征服国家としての性格を反映して前者の権威の方が高かった。そして、ベクリャリベクの下には方面軍指揮官とでもいうべき4人のウルス・ベクがおり、その下に70人のチョームニク(万戸長)、その下にトゥイシャチニク(千戸長)が配置されていた。いっぽうのヴィジールには、その下に主として徴税を担当するダルーガが置かれた(詳細後述)。 1243年、バトゥはサライにノヴゴロド公ヤロスラフ(ヤロスラフ2世)を呼び出し、ウラジーミル大公位を認めて「ルーシ諸公の長老」としての地位をあたえた。ウラジーミル大公位はもともと、ウラジーミル・モノマフの子孫の最年長者に与えられる爵位で、バトゥの征西の頃には名目化して特別の実権をともなうものではなかったが、ハンの叙任令書(ヤルリイク)を受けて叙任されると、慣例によって自らの領地に加えウラジーミルとその周辺の領地を併せ、ロシア諸公間の第一人者であることが認められて、さらにハンとの交渉権があたえられた。ヤロスラフは、シチ川で死んだウラジーミル大公ユーリー2世の弟であった。兄の位を継承したヤロスラフであったが、1246年、第3代グユクのカアン即位式に赴いた先のカラコルムにて死去している。これについては、モンゴルによる毒殺だという記録が同時代の史料に確認されている。1247年、ヤロスラフの子息たちがサライ、さらにはカラコルムに呼び出されたが、3年間は帰国が許されなかった。兄のアレクサンドルはキエフと全ルーシの大公に、弟のアンドレイはウラジーミル大公に任じられた。 これ以後、300年近くにわたってサライのハンたちはルーシ諸公を臣従させ、ウラジーミル大公国やルーシ諸国の首長に「大公」「公」の称号を許し、貢納を義務づけるという関係が続いた。ハンは、13世紀後半のモンケ・テムルのころより「ツァーリ」「ツェザール」(ともに「皇帝」の意)と呼ばれ、公たちの上に君臨した。ノヴゴロド公国、ハールィチ公国、スモレンスク公国、プスコフ公国などルーシ西部の諸国もふくめ、ルーシのすべての国がモンゴル帝国に従った。 ノヴゴロド公ヤロスラフの子でドイツとの戦争に生涯を捧げたアレクサンドル・ネフスキーもまた、ジョチ・ウルスに対し恭順の意を表した。なお、キエフ大公の称号を得たもののウラジーミル大公位の得られなかったアレクサンドルはこの決定に不満をもち、1252年にサライに赴いてこれを訴え、ウラジーミル大公への勅許状(ヤルリイク)を得た。一方のアンドレイは、バトゥと反目するカアン家の後援を受けた。このように、ジョチ・ウルスのハン(ジョチ家)とカラコルムのカアンの確執はロシア諸公を巻き込んだ。 ジョチ・ウルスの住民構成は、人種的にみればきわめて多様であった。純然たるモンゴル人はむしろきわめて少数であり、住民の大半はテュルク系のポロヴェツ人(キプチャク族)、ヴォルガ・ブルガール、バシキール人およびチェルケス人、東スラヴ人すなわちルーシ人、印欧語系でペルシャ語に近いオセット語を話したヤース人、フィン・ウゴル系のブルタス族(英語版)などである。ハン国の中心をなすキプチャク草原に限っていえば、その圧倒的多数者はポロヴェツ人(キプチャク族)であった。モンゴルの征服によってポロヴェツ人はその臣民となったが、両者はほぼ同じ場所で遊牧生活を送り、さかんに婚姻関係を結んだため混血が進んでたがいに親族となっていった。 自らの存立基盤でもあるステップ地帯にあっては、モンゴル人支配層は直接統治を採用した。そのため、キプチャク草原における遊牧民の社会関係には大きな変化が生じた。ロシアの年代記は、モンゴル人の侵入以前にはポロヴェツ族の諸公の名を数十名も記載しているが、侵入以後には1名も言及していない。モンゴル人はロシアの諸侯やハンガリー王あての書状には、ポロヴェツを「奴隷」と書き記しており、また、自分たちの氏族や部族の英雄の像を製作するというポロヴェツの風習も13世紀から14世紀にかけて失われたものと考えられる。このことは、旧来のポロヴェツの支配層はその地位を失ったことを意味している。また、遊牧民のなかには、モンゴル支配層によって強制的に遊牧地を移動させられた事例も認められる。 ジョチ・ウルスの支配層であったモンゴル人たちは、やがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラーム教化していった。15世紀にはジョチ・ウルスは解体と再編成が進み、クリミア半島にクリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアにシビル・ハン国などが成立した。これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系など多様な民族が混交し、こんにち、それぞれクリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼称される諸族が形成されていった。タタールのなかには、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も少なくなかった。そのなかには、ユスポフ家やカンテミール家など、のちに有力な貴族領主となった家系もある。
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