メディアの論評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:35 UTC 版)
主な海外の都市、カトリック、プロテスタント、ユダヤ人、そして社会主義系を含む各メディアは、一様にこの判決に激怒し、アメリカの社会風習に対し非難の的を向けた。だがアメリカ南部、特にミシシッピーの新聞は、司法制度がその機能を(正常に)果たしたと書いた。ティルの事件は、その後もこの裁判の判決とジム・クロウ法の存在する社会制度について、南部と北部の間で、黒人系新聞上で、NAACPと様々な種類の人種隔離主義者との間で、大きな議論に発展し、引き続き数週間ニュースになり続けた。 1955年10月、ミシシッピーの新聞「ジャクソン・デイリー・ニュース」は、米軍に召集されたティルの実父、ルイス・ティルについて、その事実を掲載した。その報道によれば、ルイス・ティルは、イタリアに駐留している間、女性2人を強姦し、その後1人を殺した。彼は軍法会議にかけられ、1945年7月にピサ近郊で軍により絞首刑に処せられた。メイミーと彼女の家族はこの事実を全く知らず、それまでルイスは「故意の不正行為」のために死んだとのみ知らされていた。ミシシッピーの上院議員、ジェームズ・イーストランド(英語版)とジョン・C・ステニスは、ルイス・ティルの陸軍の犯罪記録について徹底調査を行った。エメット・ティル殺人事件の公判はすでに終わっていたが、彼の父に関するニュースは、1955年10月と11月の数週間に渡り、エメット・ティルの行動とキャロライン・ブライアントの完全性と共に、読者を引き付ける議論として、ミシシッピー紙の一面に掲載された。スティーブン・ホイットフィールドは、「ティルの父親についての論説の料と比較して、ティル(自身)の行動の奇妙さを立証する為に払われた努力が不足している」と書いている だがミシシッピー州の白人住人にとって、ティルの衝動は、明らかに父親から来た遺伝子による本能であると理解した。歴史家、デイビス・フックとマシュー・グリンディによれば、「ルイス・ティルは、北部対南部、黒人対白人、NAACP 対白人市民連合の、いちかばちかの非常に重要な修辞的な勝負の駒となった」と言われる。 ブライアントとミランは、一事不再理の原則により(無罪が確定した事を受け)3,600ドルから4,000ドルの報酬で、ウィリアム・ブラッドフォード・ヒューイ(英語版)のインタビューに答える事で、Look マガジンと合意した。会見は、ブライアントとミランの弁護士の法律事務所で行われた。ヒューイは、直接質問を行わず、ブライアントとミランの弁護士が行った。その内容は以前に聞かされた物ではなかった。ヒューイによると、年長のミランの方が、ブライアントより明晰で、自信を持っていた。ミランはティルに発砲した事を認めたが、二人ともそれが有罪に価し、何ら間違った事をしたとは認めなかった。しかしそのインタビューの後、ミシシッピーに於ける二人への信頼は崩れ去った。黒人は彼らの店で買い物をすることを拒否し、銀行から資金担保の融資を行う事が出来なくなり、彼らは破産した。 ヒューイが行ったブライアントとミランへのインタビューは、爆発的な反響を呼んだ。彼らが躊躇なくティルを殺害したと言う彼らの真鍮の告白は、著名な公民権リーダーをして、連邦政府に対しこの事件を再調査させる強烈な後押しとなった。この殺人事件は、州や地域の司法制度が公民権を侵害していると認められる場合、司法省がこれに介入する事を可能にする為の「1957年公民権法(英語版)」を成立させる一つの大きな動機づけとなった。ミランとブライアントが単独行動を取ったと言う、ヒューイのインタビューの内容は、それ以前の物語の矛盾を補った。ティルの事件に関与していたと思われる、コリンズとロギンズその他についての事件への関与の忘れ去られていた部分の詳細は、歴史家デビッドとリンダ・ベイトにより語られている。 仮にティル事件の実情が「Look マガジン」の説明するとおりだとしよう。そうすると: 2人の武装した大人が、暗がりで、14歳の少年を誘拐し、脅迫のために連れまわした。だが14歳の少年は、脅迫に屈しないどころか、暗がりで、武器もなく、一人きりというのに、2人の武装した大人を著しく脅かし、2人は少年を手にかけるに至った……一体、我々ミシシッピー人は、何を恐れていると言うのか? ウィリアム・フォークナー, On Fear, 1956年 エメット・ティルは、メディア文化と文芸学術文化に於いて、アメリカ人の意識に浸透し始めた。ラングストン・ヒューズは、後に「ミシシッピー、1955年」として知られる様になった「無題の詩」を、1955年10月1日付「シカゴ・ディフェンダー」のコラムでティルに捧げている。それは国内で版を重ね、多くの異なる作家からさまざまな変化を加えられて発行され続けている。ミシシッピー出身で、しばしば人種問題を扱っている作家ウィリアム・フォークナーは、ティルに関して2冊のエッセイを発表している: 1つは、彼が裁判前にアメリカの統一を嘆願した物、もう一つは、1956年にハーパーズ・マガジン(英語版)に掲載された「On Fear」と言うタイトルで、「なぜ、不合理な推理に基づいて人種感情が形成されていくのか」と疑問を投げかけている。1957年のテレビシリーズ「USスチール・アワー(英語版)」の中で、ティルの事件をモチーフとしたエピソードが「最後の審判の日の正午」(Noon on Doomsday)というタイトルで紹介され、これを書いた脚本家ロッド・サーリングは「如何にミシシッピーの白人が、素早くブライアントとミランの支持に回ったか」について焦点を当てた。そのシリーズの中で直接ティルの名前こそ出なかったが、犠牲者は黒人であり(明らかにティルの事件を連想させる物であったため)、白人市民連合はUSスチールのボイコットを宣言した。最終的に、その作品はティルの事件には似ていなかった。詩人グウェンドリン・ブルックス(英語版)は、1960年に「ブロンズビルの母はミシシッピーを徘徊する。その傍らでミシシッピーの母はベーコンを焼く」(A Bronzeville Mother Loiters in Mississippi. Meanwhile, A Mississippi Mother Burns Bacon)と言う題名で詩を書いている。同じ年、小説家ハーパー・リーは、アメリカ深南部の情景を描いた「アラバマ物語」(To Kill a Mockingbird)で、白人の女性を強姦したと言う罪状で起訴された黒人「トム・ロビンソン」を弁護する白人の弁護士が、周囲の中傷を受けながらも職務を遂行して行く姿を描いている。公民権運動に多大な影響を及ぼしたリーの小説の主人公「トム・ロビンソン」について、リーはその起源を公けに述べなかったが、文学教授パトリック・チュア(Patrick Chura)は、ティルの事件とロビンソンとの間のいくつかの明らかな類似点を指摘している。ワシントン大行進にも参加した小説家ジェイムズ・ボールドウィンは、1964年のドラマ「チャーリー氏のためのブルース(英語版)」で、ティルの事件をやや緩めに取り入れて基礎を形成して行った。後に彼は、ティルの事件が数年間彼を悩ましていたと明かした。 ボブ・ディランは、1962年に「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」(The Death of Emmett Till)(英語版)をレコーディングしている。 黒人作家アニー・ムーディー(英語版)は、1968年の自叙伝「ミシシッピーに来たる時代(英語版)」の中でティルについて言及しており、1955年秋頃には最初に「憎む事」を覚えたと明かしている。 カリブ出身の作家オードリー・ロードの1981年の詩集「Afterimages」では、ティルの事件と裁判の24年後に、キャロライン・ブライアントのことを考えている黒人女性の情景に焦点を当てており、また B・M・キャンベル(英語版)の1992年の小説「Your Blues Ain't Like Mine」は、ティルの死を中心に構成されている。作家トニ・モリスンの、2010年現在唯一のミュージカル「エメットを夢見て」(1986年)は、フェミニストが黒人社会の中で男性と女性の交流を観察している情景を描いているが、これは「復讐の為に蘇った一人の男の目を通して見た時間」を考えている間、このアイディアが思いつき、書いた物である。 学者クリストファー・メタースによれば、ティルはしばしば文学上でその様相が変わって来ており、ミシシッピーの白人達を悩ます亡霊として、彼らの悪との関係を、また不正に対する沈黙について彼らを追及している。
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