マイカー時代の到来と分割民営化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:20 UTC 版)
「国鉄バス」の記事における「マイカー時代の到来と分割民営化」の解説
こうして、国鉄バスの高速バス路線は拡大されていった。しかし、1960年代半ば以降、国民経済の発展と自動車の大衆化、道路網の整備・拡大は、バス時代ではなくマイカー時代の到来という結果を生み出した。この時期を境に、バス利用者の減少が始まり、国鉄・公営・民営を問わずバス事業の経営は悪化していった。国鉄バスにおいては、その経緯から地域開発路線を多く抱えていたため、その影響も著しく、深刻なものとなっていた。このため、1968年には「国鉄自動車経営改善委員会」が設置され、不採算路線の削減を中心とする路線網の再編成を含めた大幅な合理化施策の方針を打ち出した。 また、国鉄自体の経営も悪化していたため、国鉄諮問委員会ではローカル線のあり方についての意見を提出し、「83線区2600キロ(俗に言う「赤字83線」)の鉄道線については、便益性を十分に確保する見通しを立てた上で自動車輸送に委ねるべきである」と勧告した。国鉄財政再建推進会議や財政制度審議会においても同様の指摘が行われたのを受け、1969年には赤字鉄道線のバス転換を図ることが閣議決定された。この方針に伴い、1972年には三国線・鍛冶屋原線など5線区の鉄道線が廃止され、国鉄バスによる代替輸送が実施されることになった。同年、経営改善計画をさらに発展させ、路線の役割を明確にし、都市間路線・観光路線については鉄道との一貫した輸送体制の整備等の積極的な営業施策、それ以外の路線では、沿線利用者の同意等の条件を勘案しつつ路線の再編成を行うこととされた。 鉄道との一貫した輸送体制については、1975年に新幹線博多開業を機に陰陽連絡バスの運行を開始し、新幹線の持つ時間短縮効果を山陰地方にまで波及させた。地域開発路線については、日常生活に不可欠な最後の足としての役割を持つ路線が多く、1977年には「地方バス路線運営費補助金」の交付を受けることになった。1972年度から民間バス事業者には生活路線維持の助成金が交付されており、これと同等の助成措置を行うことにしたものである。 その一方、高速バス路線については異変が生じていた。1975年に中国高速線の運行を開始し、好調なスタートを切ったかに見えたが、これは並行する姫新線の利用者数の減少を招いた。安くて速い 上に大阪へ直行する高速バスに乗客が移ってしまったことによるもので、因美線と連なって陰陽連絡路線としての一翼も担っていたはずの姫新線が、地域輸送主体の路線となっていった。本来鉄道線の補完の役目を果たすべき国鉄高速バスが、あろうことか鉄道線に大打撃を与えてしまったため、国鉄社内でも「国鉄バスが国鉄の乗客を奪った」と大変な問題になり、以後の国鉄高速バス路線の拡大は凍結されることになった。この事例は、国鉄にとっては「大都市と地方都市を結ぶ高速バスであっても、並行する鉄道は脅威にさらされる」という教訓となった。 1977年1月に「日本国有鉄道の再建対策について」が閣議で了解されると、同年4月に「経営改善計画」として、自動車部門について路線別管理を強化し、実態に即応しつつ路線の再編成を行うと共に、各種の合理化施策を推進することにより、1985年に収支均衡となるように収支改善に努める、という方向性が示された。さらに同年12月には、「日本国有鉄道の再建基本方針」が閣議了解されたが、自動車部門については「高速線については需要に合わせた積極的な営業施策の展開、一般路線に対しては輸送量の変化に対応した路線の再編成、貨物輸送については縮減」との方針が示された。この計画に伴い、省営自動車初期より続けられたトラック輸送は1984年2月に全廃され、1985年までに2300キロに及ぶ路線の休廃止が行われた。 しかし、国鉄の経営状態はさらに悪化し、1983年には政府に「国鉄再建監理委員会」が設けられた。1983年には「乗車密度5人未満の路線の整理、民間バス並みの経営が行えるような行政措置」が求められた。さらに、分割民営化が確定した1985年には、再建監理委員会から「バス事業は一旦旅客鉄道会社に引継ぎ、分離・独立の内容は旅客鉄道会社設立の計画の中において明らかにする」と意見が示された。政府はこの意見を最大限尊重するとの閣議決定を行い、国鉄バスが地域ごとに分割されることが確定した。なお、国鉄の経営改善計画において、自動車部門に限っては目標より1年早い1984年に、その計画目標を達成している。 1984年、中央高速バス伊那・飯田線の運行開始前後に表面化した中央高速バス問題の際には、国鉄バスも東京と伊那地区を結ぶ高速バスに参入することで、身内での影響を食い止める案もあった。しかし、国鉄飯田線が置かれた状況に変化はなく、飯田線自体も高速バスに対して全く競争力を持たせることができないことから、中国高速線と同様の状態になり非難されるのは明らかで、高速バス反対という意見に押し切られることになった。しかし、「高速バス反対」という意見は全く受け入れられなかったため、方針転換を余儀なくされることになる。 この方針転換に伴い、1985年には盛岡 - 弘前間の高速バス「ヨーデル号」の運行に参入した。この路線は花輪線と競合しており、花輪線の乗客の転移も当然予想されたが、路線の目的が東北新幹線連絡であり、新幹線乗客の増加が見込まれるため、国鉄全体としてはプラスになると判断されたことから、国鉄社内ではあまり問題視されていなかった。 また、1986年2月に民間側で申請された中央高速バス諏訪岡谷線に対抗するべく、直後の1986年3月に中央自動車道経由の高速バスの運行を申請したが、こちらは国鉄バス側と民間側の主張が完全に対立し、両社とも一歩も譲らない姿勢を示したため、ついに国鉄バスが国鉄バスであるうちには何の進展も見られないという異常な状態になった。中央高速バスのみならず、分割民営化後に強引ともいえるほど多数の高速バス参入により、他の民間バス事業者との摩擦が発生する前兆でもあった。 こうして、1930年12月20日の運行開始以来57年間運行を続けてきた国鉄バスは、1987年3月31日限りで、国鉄バスとしての運行を終了し、各旅客会社に引き継がれたのである。 1966年6月20日 - 志賀草津高原線の草津温泉 - 湯田中駅間を開業。 1968年2月1日 - 東北自動車部・信越自動車部となる。 1969年6月10日 - 東名高速線(東京駅 - 名古屋駅間)開業。ドリーム号も同日より運行開始。 1974年4月23日 - 中国高速線(大阪駅 - 津山駅間)の路線免許を申請。 1975年11月1日 - 中国高速線運行開始。 1978年1月20日 - 八日市場営業所成田支所開設。 1980年 - 信越地方自動車部新潟営業所廃止。 1984年東北地方自動車部沼宮内営業所盛岡在勤開設。 2月1日 - 貨物輸送を廃止。 3月10日 - 四国地方自動車部廃止、四国総局自動車管理室管理下となる。 1985年3月20日 - 信越地方自動車部廃止に伴い、十和田南自動車営業所・象潟自動車営業所(小国支所を含む)を東北地方自動車部に編入。小諸自動車営業所を関東地方自動車局に編入。 1986年3月14日 - 東京駅 - 上諏訪・岡谷間を結ぶ高速バス路線の運行を申請。 12月4日 - 日本国有鉄道改革法施行。旅客自動車運送事業は、各旅客会社が引き継いだのち、原則として経営分離するものとされた。 1987年3月1日 - 民営化に伴う新会社の営業拠点にあわせるため、中部自動車局伊那自動車営業所・下諏訪自動車営業所を関東地方自動車局に、近江今津自動車営業所・金沢自動車営業所・穴水自動車営業所を近畿地方自動車局へ移管。 4月1日 - 国鉄分割民営化実施にともない、地方自動車局(自動車部、自動車管理室)単位でその地域を管轄するJR旅客鉄道各社へ承継。
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