大正天皇
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生涯
誕生
1879年(明治12年)8月31日午前8時12分、東京府の青山御所の御産所で、明治天皇の第三皇子(皇男子)として誕生。生母は権典侍・柳原愛子[5][6]。9月6日に明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう)と命名される[7]。嘉仁の名は、詩経の「敬爾威儀無不柔嘉(爾の威儀を敬み、柔嘉ならざることなかれ)」(治者の心得として、自らの威儀を正して、柔和で善良でいなさい、といった意)からとられた[8]。
出産時に体調が悪かった柳原愛子はヒステリーを起こし、かつ難産となり、嘉仁親王は全身に発疹がある虚弱状態で生まれた[9]。明治天皇の外祖父の中山忠能が皇子御世話に任命され、漢方医の浅田宗伯、今村了庵、岡桐蔭が治療にあたった[10]。しかし9月から11月にかけて断続的な嘔吐や痙攣(けいれん)などに襲われ、かなり危険な状態に陥った[11]。
少年時代
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伝統に従い里子として12月に中山忠能邸に移る。しかし、忠能とその妻・愛子は嘉仁親王の養育に全く役に立たず、実の祖母であり、当時中山邸に住んでいた中山慶子を中心に親王の養育が行われた。慶子は「第二の御奉公」として親王の世話に没頭したが、親王の健康はなかなか良くならなかった。主治医となった浅田宗伯と慶子が相談し、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳になりようやく歩けるようになった[12]。
1883年(明治16年)から勘解由小路資生を宮内省御用掛として『幼学綱要』などの講読や習字を開始する[13]。1885年(明治18年)3月、中山邸から青山御所赤坂仮皇居内の新御殿に移った[14]。小学校入学の年齢になっても病気がちのため、青山御所内に御学問所を作り個人授業を行うこととなり、湯本武比古が傅育官(教育係)に任命された[15]。しかし規則に縛られることを嫌う性格から、授業の内容が気に入らないと授業そのものを投げ出してしまうことがあった[16]。
1887年(明治20年)8月31日、満8歳になったのを機に儲君かつ、美子皇后の実子と定められる[17]。同年9月から学習院予備科(のちの初等科)に通い始めた[18][注釈 1]が、1888年(明治21年)は病気がちで、4月から百日咳にかかり学校を3か月休み留年した。この頃の学業成績は、修身・読書・作文・実物(理科)・習字・遊戯(体育)が概ね良好だった一方、唱歌は平均的で、数学は良くなかった[20]。
皇太子時代
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1889年(明治22年)2月、青山御所から赤坂離宮内の東宮御所(「花御殿」と呼ばれた)に移る。同年11月3日に立太子礼が行われ皇太子になるとともに、陸軍歩兵少尉に任官[21]、大勲位菊花大綬章を与えられた[22]。立太子後、皇太子の教育体制は軍事色が強まり、1891年(明治24年)には東宮武官長が設置され奥保鞏陸軍少将が就任し、奥は翌年1月に東宮大夫も兼務。身の回りの世話から女官が排除されたが、軍人に囲まれる生活で皇太子は次第に精神的・肉体的に不安定となっていった[23]。
1891年11月、軍事教育が遅れていることから中尉への昇進が翌年11月へ延期となる。なおその後は規定年限に沿って昇進した[24]。1893年(明治26年)学習院初等科を卒業し、中等科へ進学[24]。しかし1894年(明治27年)8月、病弱で勉学が遅れている皇太子をそのまま進学させると劣等感が強まり、君主にふさわしい性格を育成できなくなると判断され[24]、中等科1年修了をもって学習院を退学した[注釈 2][25]。
明治20年代後半から皇太子の静養を目的に各地に御用邸(沼津御用邸(1893年築)、葉山御用邸(1894年築)、日光田母沢御用邸(1899年築)、塩原御用邸(1904年築))が建てられ、以後、これらの御用邸に長期滞在するようになる[26][27]。
1895年5月には、風邪、腸チフスに罹り、さらに軽い肺結核で重体になり、11月まで寝込む[28]。この頃、柳原愛子を乳母だと思っていた皇太子は彼女に厳しくあたり、実母であると明かされても、なかなか信じようとはしなかった[29]。
皇太子の勉強の遅れを取り返すため、1895年以降、国学(和歌・作文・歴史・地理)を担当する本居豊穎、漢学(漢詩・漢文)を担当する三島中洲が東宮職御用掛、次いで東宮侍講となった[30]。このほかフランス人フランソワ・サラザン、三田守真がフランス語を講義した[31]。ほぼ休みなく詰め込み教育が行われたが、それが皇太子の健康を悪化させるという悪循環が繰り返された[32]。
1898年(明治31年)、第3次内閣を組閣した伊藤博文は、皇太子に関し、健康増進を最優先としながらも政治や軍事などの見識を持たせるため、適当な人物を監督役や側近とするよう明治天皇に進言した。これを受け大山巌が東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かった有栖川宮威仁親王が東宮賓友に任じられた[33][34]。さらに翌1899年(明治32年)5月、威仁親王は東宮輔導となり皇太子養育の全権を与えられると、それまでの詰め込み教育を改め健康第一へと転換させた[35]。
結婚
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皇太子妃選びには明治天皇の側近であり、昌子内親王、房子内親王の養育主任であった[36]佐佐木高行が大きくかかわっていた。 1891年頃から皇太子妃選びが始まり、妃候補となる皇族や公爵の娘が昌子内親王、房子内親王の遊び相手として赤坂離宮に招かれた[注釈 3][38]。明治天皇は皇太子妃をできれば皇族から選びたいと考えていた[39]。
まもなく、伏見宮家の禎子女王が有力候補となり[40]、1893年春、佐佐木は禎子女王が皇太子妃に相応しいと土方久元宮内大臣に伝え、華族女学校学監の下田歌子も推薦。これを受け、明治天皇は同年5月に禎子女王を皇太子妃に内定した[41]。
しかし1898年(明治31年)になると、天皇の侍医である橋本綱常や池田謙斎が「禎子女王に肺病の疑いがある」と発言し出し、岡玄卿侍医局長も結婚中止を具申[42]。これを受けて、1899年(明治32年)1月から2月に宮中首脳が協議を行い「皇統継続」を考えれば禎子女王を皇太子妃にすることは問題であると結論付け[43]、3月22日に婚約内定が取り消された(大正天皇婚約解消事件)[44]。その後、他の妃候補の検討が進められたが、体が丈夫で性格も悪くないという理由で消去法により旧摂関家出身の九条節子が妃候補に浮上[45]。1899年8月、九条節子が皇太子妃に内定した[46]。
1900年(明治33年)2月11日に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚約が正式決定し発表された[47]が、皇太子の健康に不安を持つ声があったため、この時点では婚礼の日程は未定であった。しかし3月に侍医や伊藤博文らによる会議で、皇太子が結婚前に他の女性に手を付けられないようにし[注釈 4]、これ以上婚礼を延ばすことができないとして、婚礼を5月とすることが内定した。そして4月27日になって5月10日に婚礼を行うことが発表された[48]。
挙式は皇居の賢所で神式により行われた[49][注釈 5]。皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされ、皇太子夫妻が乗った馬車の列が皇居正門で十数分間停止を余儀なくされる有様だった[51]。結婚を祝して各地から多くの品々が献納され、その中には、東京市内の政治家・財界人を発起人とした東宮殿下慶事奉祝会による募金で建設された「東京国立博物館表慶館」やサンフランシスコの日本人移民から贈られたアメリカ製の電気自動車もあった[52]。
皇太子夫妻は5月23日から6月7日にかけ、三重県、奈良県、京都府の各府県を巡啓し、伊勢神宮や神武天皇陵、泉涌寺などを結婚報告のため参拝した。この間、皇太子は嵐山、桂離宮、京都帝国大学などを訪問し、京都帝大附属病院では患者に直接語り掛けている[53][54]。
国内各地を行啓
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東宮補導の有栖川宮威仁親王は、皇太子の健康な身体や精神を育成するため、名目上は授業で学んだ地理歴史を実際に見学するため、長期的な地方行啓を発案した[55]。
第一回目は1900年10月から12月にかけて行われ、福岡・佐賀・長崎・熊本各県と下関を行啓した。その後、岡山・愛媛・香川県を訪問する予定であったが、皇太子は途中滞在した兵庫県舞子で体調を崩し、静養の後に帰京した[56]。続いて1902年5月から6月に、東北地方の見学として、群馬・長野・新潟・茨城各県を行啓。当初はさらに東北6県と栃木県も訪れる予定であったが、皇太子が体調を崩したため中止となった[57]。
威仁親王の目論見通り、これらの地方巡啓により皇太子の健康が回復し、学習の効率も上がった。しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され[注釈 6]、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。そこで威仁親王は自分の役割は終わったとして、1903年(明治36年)2月、明治天皇に東宮輔導廃止を進言した。明治天皇は即答を避けたが、威仁親王の体調が悪化したこともあり、同年6月に東宮輔導を免じられた[59]。その後も地方巡啓は続けられ、1903年10月には、和歌山・香川・愛媛・広島・岡山各県を訪問した[60]。なお、これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことはこれまでなかったことであり、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった[61]。
日露戦争時には皇太子は大本営付の大佐であったが、1904年(明治37年)11月頃、児玉源太郎参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。皇太子も大陸への出征に積極的であったが、皇太子が出征することはかつての日本で始めてのことであり、なれない現場の指揮が混乱するとの桂太郎首相や寺内正毅陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった[62]。
韓国訪問
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皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩でロンドンやベルリンを訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた。また『世界一周唱歌』が愛唱歌であった。しかし、皇太子の洋行は日本の歴史上かつてなかったことであり、明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない姿勢にあった[64]。
1907年(明治40年)9月、伊藤博文韓国統監は、純宗の即位を機に日韓親善を名目として、英親王李垠が日本に留学し、代わりに皇太子が大韓帝国を訪問することを提言。明治天皇は韓国の治安が義兵運動で悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した[65]。
皇太子には威仁親王のほか、東郷平八郎、桂太郎前首相、花房義質宮内次官らが随行。10月10日に東京を鉄道で出発し、宇品港から戦艦香取に乗船、10月16日に仁川に上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。10月17日から19日まで漢城に滞在し、韓国駐箚軍司令部、倭城台公園(現・南山公園)、昌徳宮、景福宮などを巡ったほか、統監官邸で高宗と面会した。10月20日に漢城を出発、鎮海の視察を経て帰国[66]。このとき皇太子は李垠を気に入り、日本に留学した後に朝鮮語の学習に熱意を見せるようになった。この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた[67]。
1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した[68]。その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県[69][70]、1911年8月から9月に北海道[71]、1912年に山梨県を訪れ、これで沖縄県を除く全国を訪問したことになった[72]。
1909年(明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付となり、1910年(明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した。また、御用掛の福島安正、松石安治から戦略・戦術を学んだが、教えられたことを何も理解していないと東宮武官に嘆かれている[73]。
天皇即位
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1912年7月29日夜、明治天皇が崩御[注釈 7]。皇太子は7月30日午前1時に践祚、大正(たいしょう)と改元した[75]。8月1日に朝見式が行われたが、出席した財部彪海軍次官によれば、大正天皇は勅語朗読中に言葉に詰まり、これを見て情けないと涙を流す侍従(米田虎雄)もいたという[76]。
11月には貞明皇后とともに伏見桃山陵を参拝。京都へ向かうお召し列車の中で大正天皇は原敬内務大臣を呼び雑談をするが、知識が豊富な原は、以後も行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれることになる[77]。
即位礼と大嘗祭は当初、1914年(大正3年)11月に行う予定であったが、同年4月に昭憲皇太后が崩御したため1年延期された。1915年(大正4年)11月10日に京都御所で即位礼紫宸殿の儀、11月14日から15日にかけて大嘗祭、11月16日と17日に二条離宮で各国の王族や要人をはじめ、皇族、文武高官、有爵位者に加え、外国大使夫妻なども招かれ大規模であり二日間に渡って一日目は伝統的な日本様式と二日目は和洋折衷をモチーフにしたフランス様式と異なる構成を催した大饗の儀(大正大饗)が盛大に行われた[78][79][80][81][注釈 8]。大正天皇自身は即位礼の準備委員長である原敬に、儀式の簡素化や日程短縮の希望を伝えていたがほとんど無視され[84]、貴族院書記官長の柳田國男が莫大な労力と経費をかけて前代未聞であると評した儀礼が行われた[85]。
大正天皇の即位により天長節は8月31日となった[86]が、夏季の8月は行事を行うには猛暑であるため、1913年(大正2年)に10月31日が「天長節祝日」に定められ、以後、祝賀行事は10月31日に行われるようになった[87][88]。
政治能力の不安
大正天皇の政治力は即位前から不安視されていた。明治天皇崩御直前の1912年(明治45年)7月26日に、徳大寺実則内大臣兼侍従長と渡辺千秋宮内大臣が美子皇后に面会し、大正天皇を皇后と伏見宮貞愛親王で補佐することを依頼[89]。しかし、皇后は「『女性が政治に関わるべきではない』という明治天皇の意思を守りたい」として断った[90]。また崩御直後には、西園寺公望首相が元老の山縣有朋と共に謁見し、西園寺が大正天皇へ政事についての苦言を呈し、天皇が「十分に気を付ける」と返答するやり取りがあった[91]。
しかし1912年(大正元年)11月、大正天皇は桂太郎内大臣に突然元帥任命を打診する。終身現役の元帥になれば政党の党首になることはできず、新党を組織して首相に復帰する野心を有していた桂は拒絶した。桂は第3次桂内閣を組閣すると、留任を辞退しようとしていた斎藤実海軍大臣に留任を命ずる勅語や、帝国議会の停会を命ずる勅語などを出させて政局を乗り切ろうとした[92]。しかしこの行動は野党・立憲政友会や民衆の反発を引き起こし、第一次憲政擁護運動、そして桂内閣の倒閣につながっていった[93]。
1913年(大正2年)5月、風邪をこじらせ体温39度を超える肺炎となる[94]。肺炎は同月末に治癒するが、9月まで葉山や日光で静養した[87]。また、この間の6月に青山御所から、近代的な改修[注釈 9]が完了した皇居奥宮殿に転居した[95]。
1914年(大正3年)3月、シーメンス事件により第1次山本内閣が総辞職した際には、大正天皇は後継総理の選定を元老に委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中で山本権兵衛に留任を求める不用意な発言を行う。しかし、以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本[注釈 10]はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった[97][98]。また、同年には波多野敬直宮内大臣が元老井上馨に「(大正天皇が元老に対して)何を諮問すべきか否かの事の軽重や、職務権限を理解していない」と告げている[99]。
1915年(大正4年)、第2次大隈内閣の大浦兼武内務大臣の汚職事件が発覚すると、7月に大隈重信首相は「事件の責任を取る」として全閣僚の辞表を天皇に提出した。大隈を信頼していた大正天皇は辞表をその場で却下しようとしたが大隈の要請で留保され、元老に対応を協議した。山縣有朋は大隈留任の方針であったが、軽率な判断をしないよう天皇に諫言している[100]。大隈は翌1916年(大正5年)6月に内閣総辞職の意を奏上し、後継に加藤高明と寺内正毅を推薦し、かつての隈板内閣のような内閣を作ろうとした[101]。大正天皇は山縣有朋ら元老に後任選考を委ねたが、大隈は辞意を取り消す内奏を行い、天皇もこれを受け入れてしまう。面子を潰された山縣は、今度も天皇に軽率な判断をせず元老に任せ、筋を通すよう諫言した。その後、大隈は「後任に加藤高明を推薦する」とした辞表を提出し、元老に諮問しないよう働きかけたが、大正天皇は元老会議の推薦に基づき寺内を後継首相に任命した[102]。12月には山縣が枢密院議長辞任の意を内奏した。これは以前に何度も行われた形式的なものであり、却下されることを前提とした山縣の政治的パフォーマンスであった。しかし大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。このため大正6年(1917年)4月14日には山縣が実際に枢密院議長の辞表を提出する事態となり、5月2日に寺内首相の取りなしで留任の勅語が下ったことで、ようやく事態は収拾された[103]。
1918年米騒動(大正7年)の際には日光田母沢御用邸で避暑中であったが、皇室財産から政府を通じて各府県に300万円(現在の60億円相当)を下賜した。ただし、天皇が金銭だけ支出して避暑を続けることに世間の批判があったことから、政府の要請を受けて急いで東京へ帰っている[104]。
皇太子裕仁親王の摂政就任
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大正天皇は1918年(大正7年)末に風邪を引き、帝国議会開会式を欠席。翌1919年(大正8年)正月の儀式はほぼ予定通り行われたが、風邪が長引き1月末から3月まで葉山で静養する[105]。同年10月の海軍特別大演習では勅語を軍令部長が代読した[106]。そして11月に兵庫県・大阪府で行われた陸軍特別大演習への参加が最後の東京の外への公式行幸となった[107]。12月の帝国議会開会式は、勅語朗読の練習をおこなったものの、うまくいかなかったため、前日になって出席が中止された[108]。
1920年(大正9年)3月30日、大正天皇の「体調悪化」が初めて宮内省から公表された。ただし、神経痛などとして言語障害や身体の傾斜といった真の病状は公表されなかった[109]。大正天皇本人は自身の病状を認識しておらず、「普通である」と考えていた[110]。その後は必要最低限の面会以外は静養に専念し、行事への臨席などは皇太子裕仁親王や貞明皇后が代行することになる[111]。同年6月に松方正義内大臣が摂政設置を原敬首相に提起したが、原は「誰もが納得する病状でなければ摂政設置は困難であり、しばらく様子を見たほうが良い」と判断した[112]。
1920年(大正9年)から1921年(大正10年)2月にかけ皇太子妃の内定取り消しをめぐる宮中某重大事件が発生するも無事解決したのを受けて、1921年3月、皇太子裕仁親王は懸案だった欧州訪問に出発した[113]。この頃の大正天皇は、同年7月に塩原御用邸へ静養に行った際には、侍従に抱えられてやっと歩き、風呂や階段を怖がったり、突然暴れだしたりした。また前年の出来事や身近な人物を忘れるなど記憶喪失状態に陥るなどの状態であった[114]。
1921年(大正10年)9月に皇太子が欧州から帰国すると、摂政設置に向けた最終段階に入る。10月4日には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされ、牧野伸顕宮内大臣により皇族への根回しが行われた[115]。11月4日に原首相が暗殺されたが、11月22日には松方内大臣と牧野宮内大臣が大正天皇に拝謁し、摂政設置について報告と了解を求めようとした。しかし大正天皇は意思疎通できない状態であった。そして11月25日に皇室会議と枢密院で摂政設置が決議され、正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した[116][117][注釈 11][注釈 12]。同日、大正天皇は摂政が執務に使用する印判を引き渡すのを一度は抵抗し、また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろう」と何度も話しかけたりしていた[121]。同日付の東京朝日新聞夕刊に、以下の宮内省発表「聖上陛下御容体書」が掲載された。
「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱に渉らせられ、御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、続いて腸チフス、胸膜炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて幾分後れさせらるゝ所ありしが、御践祚以来内外の政務御多端に渉らせられ、日夜御宸襟を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随て陝隘とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、之に加ふるに御発語の御障碍あらせらるる為め、御意志の御表現甚御困難に拝し奉るは洵に恐懼に堪へざる所なり」
病状の悪化
その後の大正天皇は、夏は主に日光、他の季節は沼津や葉山に長期滞在し療養に専念した。日課として散歩を行ったり、具合のいい日は侍従や女官たちとビリヤードや雑談をして過ごしたが、病状の悪化は続いた[122]。
1924年(大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の饗宴に出御せず[123]、1925年(大正14年)5月10日に行われた銀婚式も、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで[124]、午餐会に臨御することができなかった[125]。12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後は発熱が続く[126]。
翌1926年(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし[127]、ほぼ歩行が不可能になった[124]。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホーム[注釈 13]から列車に乗り、葉山御用邸へ移住した[128]。
葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続き、裕仁親王が九州への行啓を取りやめ葉山へ見舞いに行った。11月19日からは宮内省が数日おきに詳しい病状を発表するようになり、国民による平穏祈願が全国に広まっていった[129]。12月1日には生母の柳原愛子が東京都白山の大乗寺で行われた「聖上御脳御平癒の祈祷」に参加している[130]。12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。この日以降、葉山には皇族や柳原愛子、政府高官の見舞が相次ぐ[131]。12月14日には体温が39度に達し、食事がゴム管による流動食に切り替えられた[132]。12月16日、呼吸が浅くなり不整脈が出始める。
崩御
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天皇危篤との報が東京に届くと、若槻礼次郎総理大臣以下全閣僚から枢密顧問官、元老、重臣まで揃って葉山へ駆けつけ、現地は駆逐艦3隻も出動するなど厳重警戒体制がとられた[133]。全国で歳末行事の自粛や平穏祈願が行われ[134]、ラジオは12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道[135]。12月14日から崩御までの宮内省発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した[136]。
これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した[134]。また、新聞社も葉山に記者数十人を送り込んで報道体制をとった[135]。
病状は一時小康状態となったが、12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の1926年(大正15年/昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御[137][138]。宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分に崩御が発表された[139]。宝算47。
これに伴いただちに、摂政であった長男の皇太子裕仁親王が皇位継承し(昭和天皇)、第124代天皇に践祚(即位)した。このとき、貞明皇后の発願で、大正天皇の供養のため「南無妙法蓮華経」の題目を模写した紙が多数制作されている[140]。
注釈
- ^ 嘉仁親王が軍隊用の背嚢に学用品を入れて通学したことがランドセルの始まりとされている[19]。
- ^ 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた[25]。
- ^ 1891年4月3日に招かれたのは、 伏見宮禎子女王、北白川宮満子女王(北白川宮能久親王娘)、北白川宮貞子女王(同前)、九条籌子(かずこ。九条道孝娘)、九条節子(同前)、徳川国子(徳川慶喜娘)、徳川経子(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。毛利元徳娘)、岩倉米子(岩倉具定娘)の10名。その他、久邇宮純子女王(久邇宮朝彦親王娘)、一条経子(一条実輝娘)、鷹司房子(鷹司煕通娘)の三人も候補とされた[37]。
- ^ 飛鳥井雅道は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している[48]。
- ^ この結婚式を模倣して神前結婚式が誕生し、日本全国に広まっていった[50]。
- ^ 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に人力車を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした[58]。
- ^ 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた[74]。
- ^ なお節子皇后は第4子(三笠宮崇仁親王)懐妊中のため即位礼を欠席した。またこの時に製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている[82][83]。
- ^ 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された[95]。
- ^ 山本権兵衛は女婿の財部彪に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた[96]。
- ^ 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した[118]。
- ^ この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「主君押込」説を主張した[119]が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した[120]。
- ^ このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの[124]で、大正天皇が生前このホームを利用したのはこれが最初で最後であった[128]。
- ^ このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た[145]。
- ^ 太平洋戦争終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、1990年(平成2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した(八王子市陵南会館爆破事件)[148]。
- ^ 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている[151]。
- ^ 梶山季之が黒田長敬に取材したとされる[161]。
- ^ 1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は山川黙。[163]
- ^ 1892年 - 1980年。旧姓・梨木。源氏名「椿」[167]。
- ^ 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった[172]。
- ^ 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる下級職員)として勤務した小川金男は、大正天皇が皇位に即いた直後に「陛下は誰にでも気易く話しかけられるお癖があるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」という趣旨の訓示を受けたことを回想している[173]。
- ^ 第2位が後光明天皇の98首、第3位が嵯峨天皇の97首[185]
- ^ 鍋島伊都子は美人として評判で、当時梨本宮守正王と婚約中であった[197]。
- ^ 皇后の父・九条道孝が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている[198]。
- ^ 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある[202]。
- ^ なお宮内省では同時期に『明治天皇紀』(1933年/昭和8年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた[220]。
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