大正天皇
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人物像
皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり[170]、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪問したり[171]、当時上品な場所でないと見られていた[注釈 20]蕎麦屋に入る[172]など、気軽で奔放な性格であった[注釈 21]。梨本伊都子は『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している[174]。
趣味は当時としては極端な洋風で、和服より洋服、日本酒よりワインを好んだ[175]。娯楽は側近たちとビリヤードや将棋を楽しんだほか、皇太子時代には運動のため自転車に乗り、三菱財閥から献上されたヨット「初加勢」でクルージングを楽しんでいた[176]。
乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いている[177]ほか、名和長憲らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった[178]。
また愛煙家で、自分が吸うたばこの香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11.5センチメートルの特製紙巻たばこを生産させている[179]。また、梨本宮が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり[179]、九州行啓時に鉄道に同乗した福岡県知事に「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある[180]。
皇太子時代は非常に早足で、行啓等では侍従や先導する知事が付いていけなくなることもあった[181][182]。
詩人として
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三島中洲の指導を受け漢詩を始めた大正天皇は和歌より漢詩を好み、昭陽の雅号を名乗った[184]。1896年(明治29年)から1917年(大正6年)の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している[注釈 22]。そして、全作品が宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録されており[185]、うち251首は一部添削を経て、1948年(昭和23年)に『大正天皇御製詩集』として公刊された[186]。
漢詩のうち1129首が最も創作しやすい七言絶句で、作風は平易であるというのが一般的評価である[187]。巡啓先の光景や日々の生活のほか八甲田雪中行軍遭難事件といった出来事などを詩に詠んでいる[188]が、古田島洋介は「確実に文学的価値があるのは、1914年(大正3年)作の『西瓜』のみ」としており、古川隆久は「大正天皇は素人詩人の部類に入る」とみている[187]。石川忠久は「大正天皇の詩は未完成で、せっかくの才能が十分に磨かれずに終わった」と評している[189]。
漢詩の詩碑は2か所に建てられており、一つは富山県富山市の呉羽山山頂にある「登呉羽山」の碑、もう一つは静岡県沼津市大中寺にある「大中寺観梅」の碑である[190]。
一方、和歌は生涯で少なくとも465首を詠んだとされるが、(父親)明治天皇の約9万首、(長男)昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。しかし、古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価している[191]。
人間関係
明治天皇(父)
明治天皇は幼少時の嘉仁親王の習字の清書を見たがったり、読書の進度を気にしたり、柳原愛子を通じて指示をするなど教育に干渉したが、教育掛の湯本武比古に拒絶され、以降は口出しを止めた[192]。皇太子になってからも明治天皇の心配は変わらず、年数回、皇太子の側近に日誌を提出させ、健康状態や生活、勉強の状況などをチェックしていた。しかし皇太子にとってはこれが重荷となり、皇居に参内してもなかなか天皇に会わず、会っても会話が弾まなかった[193]。これは明治天皇のしっかり教育したいという意志に基づいて行っていたと考えられている。また、大正天皇は皇子に制約を課したりはあまりしなかったが明治天皇はこれをよく思わなかったという逸話もある。
さらに、明治天皇は皇太子が「洋風」を好み基礎学問が不十分ながらフランス語を非常に好むことに頭を悩ませたほか[194]、その軽率な言動を不快に思っており、1898年(明治31年)に皇太子が東宮職員の不出来を挙げ「全員更迭せよ」と周囲に発言した際には、侍従職幹事の岩倉具定を通じて叱責している[195]。
貞明皇后(妻)
夫妻で側近とともにダンスを楽しんだり、漢詩を62首創作するなど、貞明皇后は大正天皇の趣味に合わせようとしていた[196]。しかし夫婦仲は必ずしも良好だったわけではなかった。大正天皇は新婚早々に、同じく日光で避暑中の鍋島伊都子[注釈 23]を頻繁に訪問しては、飼い犬を預けるなどの行動をとった際には、怒った節子妃が一時帰京[注釈 24]したこともあった[196][199]。そして、伊都子には梨本宮との結婚後も会いに行っており、東宮侍従長の木戸孝正に嘆かれている[200]。
公式に側室制度(一夫多妻制)は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった[201][注釈 25]。しかし他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした[203]。また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まっており、徳富蘆花がその日記に遺している[204]。
4人の息子たち
貞明皇后との間には以下の4人の皇子をもうけた(#詳細)。迪宮裕仁親王(昭和天皇)、淳宮雍仁親王 (秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)である[205]。
伝統に従い、裕仁親王と雍仁親王は誕生してすぐ、川村純義邸に預けられたが、川村が1903年に死亡すると、裕仁親王と雍仁親王は仮東宮御所に隣接する皇孫仮御殿に移った。その後は、皇太子が突然皇孫仮御殿に立ち寄って鬼ごっこに加わったり、少なくとも週一回は家族団欒の時を過ごすなど、子煩悩な父親ぶりを示した[206]。家族団欒の場では、皇后が弾くピアノに合わせて子供たちと軍歌や唱歌を歌ったりした[207]。
昭和天皇は大正天皇生誕100年を翌年に控えた、1978年(昭和53年)12月4日の記者会見で、自身の父親である大正天皇について、「幼いころ一緒に将棋を指したり歌を歌った思い出があること」と、「『詩文を良くし記憶力が良かった』と母から聞いた」とし、「本当に天皇として立派な方であった」と語っている[208]。
政治家
- 大隈重信
大隈重信は、堅苦しい話だけでなく世間話など面白い話をすることから大正天皇に好かれていた[209]。皇太子時代の1898年(明治31年)、第1次大隈内閣退陣後に早稲田の大隈邸に招かれ、能や狂言などの歓待を受ける。皇太子が在野の人物の私邸を複数回訪問するのは異例であったが、1912年(明治45年/大正元年)にも、大隈邸と早稲田大学を訪問している[210]。その後大隈は再び首相(第2次大隈内閣)となった後、頻繁に拝謁し長話をしては、天皇が上奏に来た他の大臣を待たせることもあった[209]。そして大隈家には大正天皇の宸翰2通、大隈を詠んだ御製が残されていた[211]。
- 原敬
原敬は、1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣の内務大臣に就任し、大正天皇(当時:皇太子)との接点ができて以降、行幸時のお召列車で話し相手として呼び出されるなど信頼を得ていた。そのやりとりは原敬日記に数多く記録されている[212]。
- 山縣有朋
一方で、天皇がひどく嫌っていたのが山縣有朋である。1896年(明治29年)に山縣が沼津御用邸滞在中の皇太子を訪ね、君主のあるべき姿を説いた。このとき、皇太子は「山縣が酒に酔い、暴言を吐いた」と漏らしたが、問題とならず済んだ[213]。山縣は、天皇即位後も大正天皇に、父親の明治天皇を模範にした苦言を呈した[214]。これに対して、大正天皇は山縣が拝謁を求めても直接会わず女官に対応させたりした[209]。そのほか、大正天皇は寺内正毅(初代朝鮮総督)に対し「山縣の人望のなさ」について言及している[215]。
「脳病」について
大正天皇は生後一年以内に、2回脳膜炎らしき病気にかかっている。当時、白粉を使う女性は鉛中毒を患っていたが、その白粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取すると鉛中毒による脳膜炎を引き起こすことがあった。大正天皇の病気の原因も、乳母が使用した白粉の可能性があると考察されている[216]。
1920年3月、東京大学教授の三浦謹之助と侍医頭の池辺棟三郎は、「大正天皇は即位後の多忙により神経過敏となったうえ、2年前から内分泌臓器のいくつかが不調となり、幼児期の脳膜炎の影響から心身の緊張を要する儀式の際に体が傾くなど平衡を失うようになったため、政務を見る以外には儀式に出ず静養することが必要である」、との診断書を出している。しかし原因確定は不可能であった[217]。
近年、神経心理学者の杉下守弘は、当時の文献の分析を行い、大正天皇の病気は前頭葉、側頭葉、頭頂葉の少なくとも一つに脳萎縮が起こり、失語症、さらに記憶・判断・思考なども障害され日常生活が送れなくなり認知症になる「原発性進行性失語症」[218]、もしくは大脳半球皮質および皮質下神経核などが萎縮し、構音障害、身体の前屈、歩行障害から、徐々に失語症、記憶障害、判断障害が起こり認知症になる「大脳皮質基底核症候群」[219]と推察している。
注釈
- ^ 嘉仁親王が軍隊用の背嚢に学用品を入れて通学したことがランドセルの始まりとされている[19]。
- ^ 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた[25]。
- ^ 1891年4月3日に招かれたのは、 伏見宮禎子女王、北白川宮満子女王(北白川宮能久親王娘)、北白川宮貞子女王(同前)、九条籌子(かずこ。九条道孝娘)、九条節子(同前)、徳川国子(徳川慶喜娘)、徳川経子(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。毛利元徳娘)、岩倉米子(岩倉具定娘)の10名。その他、久邇宮純子女王(久邇宮朝彦親王娘)、一条経子(一条実輝娘)、鷹司房子(鷹司煕通娘)の三人も候補とされた[37]。
- ^ 飛鳥井雅道は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している[48]。
- ^ この結婚式を模倣して神前結婚式が誕生し、日本全国に広まっていった[50]。
- ^ 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に人力車を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした[58]。
- ^ 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた[74]。
- ^ なお節子皇后は第4子(三笠宮崇仁親王)懐妊中のため即位礼を欠席した。またこの時に製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている[82][83]。
- ^ 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された[95]。
- ^ 山本権兵衛は女婿の財部彪に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた[96]。
- ^ 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した[118]。
- ^ この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「主君押込」説を主張した[119]が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した[120]。
- ^ このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの[124]で、大正天皇が生前このホームを利用したのはこれが最初で最後であった[128]。
- ^ このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た[145]。
- ^ 太平洋戦争終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、1990年(平成2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した(八王子市陵南会館爆破事件)[148]。
- ^ 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている[151]。
- ^ 梶山季之が黒田長敬に取材したとされる[161]。
- ^ 1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は山川黙。[163]
- ^ 1892年 - 1980年。旧姓・梨木。源氏名「椿」[167]。
- ^ 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった[172]。
- ^ 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる下級職員)として勤務した小川金男は、大正天皇が皇位に即いた直後に「陛下は誰にでも気易く話しかけられるお癖があるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」という趣旨の訓示を受けたことを回想している[173]。
- ^ 第2位が後光明天皇の98首、第3位が嵯峨天皇の97首[185]
- ^ 鍋島伊都子は美人として評判で、当時梨本宮守正王と婚約中であった[197]。
- ^ 皇后の父・九条道孝が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている[198]。
- ^ 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある[202]。
- ^ なお宮内省では同時期に『明治天皇紀』(1933年/昭和8年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた[220]。
出典
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