下野国
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地域
領域
明治維新直前の領域は、現在の足利市の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)を除く栃木県の全域と、群馬県桐生市の一部(菱町の全域および梅田町四・五丁目の一部[注釈 3])に相当する。
かつて栃木県は下野国と完全に同一の領域であったが、1959年(昭和34年)に足利郡菱村が、1968年(昭和43年)に安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも群馬県(旧上野国)桐生市に越境合併。また、1960年(昭和35年)に群馬県山田郡矢場川村の一部が足利市に編入された結果、下野国と完全には一致しなくなっている。栃木県の方が下野国よりわずかに面積が小さくなっている。
郡
人口
- 1721年(享保6年) - 56万0020人
- 1750年(寛延3年) - 55万4261人
- 1756年(宝暦6年) - 53万3343人
- 1786年(天明6年) - 43万4797人
- 1792年(寛政4年) - 40万4818人
- 1798年(寛政10年)- 41万3337人
- 1804年(文化元年)- 40万4495人
- 1822年(文政5年) - 39万5045人
- 1828年(文政11年)- 37万5957人
- 1834年(天保5年) - 34万2260人
- 1840年(天保11年)- 36万7654人
- 1846年(弘化3年) - 37万8665人
- 1872年(明治5年) - 49万8520人
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
人物
国司
下野守
- 多治比廣成(708年〈和銅元年〉3月12日) 従五位下 〔続日本紀〕[17]
- 伊吉古麻呂(732年〈天平4年〉10月17日) 従五位上 〔続日本紀〕[17]
- 秦大魚(746年〈天平18年〉9月1日) 従五位下 〔続日本紀〕[17]
- 巨勢君成 (748年 〈天平20年〉3月12日) 従五位下 〔続日本紀〕[17]
- 小野小贄(752年〈天平勝宝4年〉11月3日) 従五位下 〔続日本紀〕[17]
- 石川名足(761年〈天平宝字5年〉1月16日) 従五位下 〔続日本紀〕[17]
- 日下部子麻呂(763年〈天平宝字7年〉1月9日) 正五位上 〔続日本紀〕
- 佐伯三野(767年〈神護景雲元年〉3月20日) 従五位下 〔続日本紀〕[17]
- 佐伯伊多智(771年〈宝亀2年〉閏3月1日) 従四位上 中衛中将 〔続日本紀〕[17]
- 大中臣宿奈麻呂(774年〈宝亀5年〉3月5日) 従五位下 〔続日本紀〕 [17]
- 大中臣諸魚(779年〈宝亀10年〉2月23日) 従五位下衛門佐 〔続日本紀〕[17]
- 文室高嶋(782年〈延暦元年〉閏1月17日) 従五位上 〔続日本紀〕[17]
- 佐伯葛城(787年〈延暦6年〉2月25日) 従五位下 民部少輔 征東副将軍 〔続日本紀〕
- 安倍弟当(789年〈延暦8年〉9月12日) 従五位上 左少弁 〔続日本紀〕
- 百済王俊哲(791年〈延暦10年〉1月22日~同年7月13日) 正五位上〔続日本紀〕
- 百済王俊哲(再任:791年〈延暦10年〉9月22日~795年〈延暦14年〉8月7日卒去) 正五位上、後に従四位上、陸奥鎮守将軍〔続日本紀〕
- 巨勢野足(796年〈延暦15年〉10月27日) 正五位下 〔日本後紀〕
- 大伴是成(799年〈延暦18年〉9月10日) 従五位上 近衛少将 〔日本後紀〕
- 巨勢野足(804年〈延暦23年〉1月24日) 従四位下 中衛少将 左衛士督 左兵衛督 〔日本後紀〕
- 藤原友人(806年〈大同年初〉頃) 〔日本紀略、類聚国史〕
- 賀陽豊年(808年〈大同3年〉5月14日) 従四位下 式部大輔 〔日本後紀〕
- 百済王教俊(809年〈大同4年〉1月16日) 従五位下 〔日本後紀〕
- 藤原道継(812年〈弘仁3年〉1月12日) 正五位下 〔日本後紀〕
- 春原五百枝(815年〈弘仁6年〉1月14日) 従三位 右兵衛督 〔日本後紀〕
- 藤原常嗣(823年〈弘仁14年〉) 従五位下 春宮亮〔続日本後紀〕
- 橘常主(825年〈天長2年〉~826年〈天長3年〉6月2日卒) 従四位下 参議弾正大弼〔日本後紀、日本紀略〕
- 藤原常嗣(再任:832年〈天長9年〉) 従四位上 参議 勘解由長官 右大弁 後に近江権守を兼務〔続日本後紀〕
- 永野王(839年〈承和6年〉2月18日) 正五位下〔続日本後紀〕
- 安倍安仁(843年〈承和10年〉頃~ 847年〈承和14年〉) 正四位下 参議 弾正大弼 春宮大夫 右大弁後に左大弁〔続日本後紀、日本三代実録〕
- 藤原助(847年〈承和14年〉1月12日~ ) 従四位上 参議 弾正大弼 治部卿 左兵衛督 摂津国田使長官〔続日本後紀〕
- 伴善男(849年〈嘉祥2年〉~ 851年〈仁寿元年〉1月12日) 従四位下、後に従四位上 参議 右大弁 右衛門督 式部大輔 中宮大夫〔続日本後紀、日本三代実録〕
- 南淵永河(851年〈仁寿元年〉1月12日) 正四位下〔文徳天皇実録〕
- 藤原貞守(854年〈斉衡元年〉1月16日) 従四位下後に従四位上 参議 右大弁〔文徳天皇実録〕
- 橘永範(権守:856年〈斉衡3年)2月8日) 従五位上〔文徳天皇実録〕
- 豊江王(858年〈天安2年〉1月16日~11月25日) 正四位下 山作司を兼務〔日本三代実録〕
- 清原長田(858年〈天安2年〉11月25日) 散位従四位上〔日本三代実録〕
- 藤原三藤(860年〈貞観2年〉11月27日) 従五位上 陰陽頭〔日本三代実録〕
- 基棟王(権守、後に守:861年〈貞観3年〉1月13日~863年〈貞観5年〉2月10日) 散位従四位上〔日本三代実録〕
- 棟氏王(861年〈貞観3年〉1月 ~ 863年〈貞観5年〉1月22日卒) 散位従四位下〔日本三代実録〕
- 伴河男(863年〈貞観5年〉2月10日) 従五位下〔日本三代実録〕
- 棟貞王(864年〈貞観6年〉1月16日~865年〈貞観7年〉1月27日) 従四位下〔日本三代実録〕
- 橘忠宗(865年〈貞観7年〉1月27日~865年〈貞観7年〉5月16日) 従五位下 治部少輔〔日本三代実録〕
- 利基王(権守:865年〈貞観7年〉5月16日) 従四位上〔日本三代実録〕
- 眞内王(権守:866年〈貞観8年〉2月13日) 散位従四位上〔日本三代実録〕
- 紀本道(866年〈貞観8年〉11月29日) 散位従五位下〔日本三代実録〕
- 紀有常(権守:867年〈貞観9年〉2月11日) 従五位上 刑部権大輔〔日本三代実録〕
- 南淵弘貞(877年〈元慶元年〉頃) 従三位 参議 刑部卿〔日本三代実録〕
- 小野俊生(879年〈元慶3年〉頃) 従五位上〔日本三代実録〕
- 源道(885年〈仁和元年〉頃~886年〈仁和2年〉2月21日) 従五位下〔日本三代実録〕
- 藤原有象(?)鎮守府将軍 〔尊卑分脈〕
- 藤原秀郷(940年〈天慶3年〉~ ) 従四位下 武蔵守・鎮守府将軍
- 平兼任(?)〔尊卑分脈〕
- 源満頼(?)従五位下 〔尊卑分脈〕
- 源満快(?)〔尊卑分脈〕
- 源満仲(985年〈永観3年〉頃)〔尊卑分脈〕
- 平維衡(998年〈長徳4年〉~1006年〈寛弘3年〉) 〔日本外史〕現地には赴任せず。
- 源政孝
- 源頼信(?)
- 源頼光(?)〔尊卑分脈〕
- 源頼義(1050年〈永承5年〉頃)
- 源頼資(~1062年〈康平5年〉頃)〔尊卑分脈、扶桑略記、百錬抄〕
- 源頼綱(?)〔尊卑分脈〕
- 源仲政(?)〔尊卑分脈〕
- 源義家(1070年〈延久2年〉~1075年〈承保2年〉)従五位下
- 源義綱(?)〔新拾遺集〕
- 源経兼(1098年〈承徳2年〉~ )〔袋草紙、十訓抄〕
- 源明国(1111年〈天永2年〉) 従五位下 〔尊卑分脈〕
- 源為義(1142年〈永治2年〉頃)
- 源義朝(1153年〈仁平3年〉~1159年〈平治元年〉12月10日)従五位下 右馬助 右馬権頭 左馬権頭
- 源季広(1185年〈治承元年〉)正五位下 〔千載和歌集〕
- 藤原行房(?)〔吾妻鏡〕
- 藤原行長(?)〔尊卑分脈(吉川弘文館、1958年)第2篇、113頁〕
- 源頼氏(~1219年〈承久元年〉)
- 小山朝政(?)従五位下
- 宇都宮泰綱(1238年〈嘉禎4年〉~ )正五位下 美濃守護。
- 宇都宮景綱
- 宇都宮貞綱 従五位上
- 宇都宮氏綱 下野守護・上野守護・越後守護。
- 宇都宮基綱 下野守護。
- 宇都宮満綱
- 宇都宮等綱
- 宇都宮明綱
- 宇都宮正綱 下野守護。
- 源教春
- 曾根逆修(1485年〈文明17年〉頃)
- 宇都宮成綱 下野守護。
- 宇都宮忠綱
- 宇都宮興綱
- 源経家(1541年〈天文10年〉頃)
- 宇都宮尚綱
- 南部宗秀
- 宇都宮広綱
- 宇都宮国綱
- 宇都宮隆綱
- 牧長義
- 織田信清
下野介
- 弓削薩摩 (員外介:764年〈天平宝字8年〉10月28日) 従五位下〔続日本紀〕
- 縣内麻呂(767年〈神護景雲元年〉3月20日) 従五位下〔続日本紀〕
- 当麻王(769年〈神護景雲3年〉6月9日) 少納言従五位下〔続日本紀〕
- 桑原王 (員外介:770年〈宝亀元年〉8月22日) 従五位下〔続日本紀〕
- 下毛野根麻呂(774年〈宝亀5年〉4月24日) 外従五位下〔続日本紀〕
- 大伴人足(778年〈宝亀9年〉2月4日) 従五位下〔続日本紀〕
- 久米眞上(779年〈宝亀10年〉2月23日) 外従五位下〔続日本紀〕
- 石川美奈伎麻呂(781年〈天応元年〉4月8日) 従五位下〔続日本紀〕
- 伊勢水通(782年〈延暦元年〉8月25日) 外従五位下〔続日本紀〕
- 和國守(785年〈延暦4年〉1月15日) 従五位下〔続日本紀〕
- 高原源(789年〈延暦8年〉頃) 外従五位下〔続日本紀、日本後紀〕
- 百済王教俊(799年〈延暦18年〉9月10日) 従五位下〔日本後紀〕
- 大中臣常麻呂(804年〈延暦23年〉1月24日) 従五位下〔日本後紀〕
- 安倍清継(808年〈大同3年〉11月27日) 従五位下 〔日本後紀〕
- 紀百継(810年)〈弘仁元年〉頃 従五位下 少将 〔日本後紀〕
- 安倍豊柄(812年〈弘仁3年〉1月12日) 従五位下 〔日本後紀〕
- 良岑木連(831年〈天長8年〉1月) 従五位下 式部少輔〔続日本後紀〕
- 浄野二腹(838年〈承和5年〉1月13日) 従五位下〔続日本後紀〕
- 高階岑緒(846年〈承和13年〉1月13日) 従五位下〔続日本後紀〕
- 小野興道(権介:846年〈承和13年〉2月29日) 従五位下 陸奥守〔続日本後紀〕
- 都長近人(権介:846年〈承和13年〉9月14日) 従五位下 陸奥守〔続日本後紀〕
- 藤原北雄(850年〈嘉祥3年〉1月15日) 従五位下〔続日本後紀〕
- 伴三宗(権介:851年〈仁寿元年〉2月21日) 従五位下 鎮守将軍〔文徳天皇実録〕
- 橘永範(852年〈仁寿2年〉8月22日) 従五位下〔文徳天皇実録〕
- 文室道世(権介、後に介:855年〈斉衡2年〉1月15日) 従五位下、後に従五位上〔文徳天皇実録〕
- 安倍安正(857年〈天安元年〉1月14日) 従五位下〔文徳天皇実録〕
- 多治比河雄(権介:857年〈天安元年〉1月14日) 従五位下〔文徳天皇実録〕
- 伴河男(861年〈貞観3年〉1月13日~863年〈貞観5年〉2月10日) 従五位下、後に従五位上〔日本三代実録〕
- 坂上岑雄(863年〈貞観5年〉2月10日) 従五位下〔日本三代実録〕
- 長田利世(867年〈貞観9年〉1月12日) 外従五位下〔日本三代実録〕
- 紀安雄(869年〈貞観11年〉) 従五位下 勘解由次官〔日本三代実録〕
- 多米弟益(権介:869年〈貞観11年〉2月16日) 散位外従五位下〔日本三代実録〕
- 高階令範(権介:872年〈貞観14年〉5月24日) 従五位下 遣兵部少輔〔日本三代実録〕
- 秦永原(権介:883年〈元慶年〉頃) 〔日本三代実録〕
- 山口連松(886年〈仁和2年〉1月16日) 散位従五位下〔日本三代実録〕
- 巨勢御津(886年〈仁和2年〉6月19日) 従五位下〔日本三代実録〕
- 源経基(?)〔尊卑文脈〕
- 布留今道
- 平良兼
下野掾
- 嶋田清田(権掾:827年〈天長4年〉~829年〈天長6年〉1月頃) 正六位上 大外記〔日本後紀、文徳天皇実録〕
- 良岑清風(838年〈承和5年〉~842年〈承和9年〉) 正六位上〔日本三代実録〕
- 紀春常(権掾:842年〈承和9年〉7月26日) 正七位上〔続日本紀〕
- 雀部茂世(権少掾:879年〈元慶3年〉頃) 従七位下〔日本三代実録〕
下野目
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 1334年~1335年 - 小山秀朝
- 1336年~1346年 - 小山朝氏
- 1346年~? - 小山氏政
- 1348年~1351年 - 高師直
- 1351年~? - 高階氏
- 1352年~1352年 - 仁木頼兼
- 1352年~1363年 - 宇都宮氏綱
- 1363年~1366年 - 宇都宮基綱
- 1366年~1380年 - 小山義政
- 1381年~1386年 - 上杉憲方(もしくは木戸法季)
- 1387年~1430年 - 結城基光
- 1441年~1471年 - 小山持政
- ?~? - 宇都宮正綱
- ?~? - 宇都宮成綱
武家官位としての下野守
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鉄道駅での読み方
国鉄時代は、下野○○と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばせる駅名が県内に存在した。平成に入り、それらの駅はすべて「しもつけ○○○○」と読み方を変更された。
- 下野○○と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばれた主な駅
注釈
出典
- ^ 『世界大百科事典』(平凡社)毛野(けぬ)項。
- ^ 『国造本記』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条。
- ^ レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答。
- ^ a b c 『日本の地名 栃木県の地名』(平凡社)下野国節。
- ^ 続日本後紀、848年(嘉祥元年)11月3日 (旧暦)の条:「下野薬師寺は天武天皇が建立したもので、七大寺に数えられた。資財は巨多あり坂東10国に得度者がいた。」
- ^ 続日本紀、749年(天平勝宝元年)7月13日の条:「諸寺墾田地限を定め、大安寺・薬師寺・興福寺・法華寺・諸国分金光明寺は寺ごとに1,000町、大和国分金光明寺は4,000町、元興寺は2,000町、弘福寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・新薬師寺・建興寺・下野薬師寺・観世音寺は寺ごとに500町、諸国法華寺は寺ごとに400町、定額寺は各寺100町とする。」
- ^ 日本三代実録、874年(貞観16年)閏4月25日 (旧暦)の条:「延べ60人の僧が(平安京の)紫宸殿において3日間にわたり大般若経の転読を行った。この日、金字仁王経71部が配られ、五畿七道の各国に一部ずつ安置された。下野国薬師寺・大宰府観世音寺・豊前国弥勒寺には、これとは別に一部ずつ置かれた。」
- ^ 続日本紀、754年(天平勝宝6年)11月24日の条:「薬師寺の僧である行信と宇佐神宮の主神である大神多麻呂らは遠流の刑罰に該当する呪詛を行った。よって、多治比真人広足を遣って薬師寺にて詔を宣下し、下野薬師寺に配流とした。」(本来であれば刑罰として職官を剥ぎ遠隔地に流罪とすべきところを、これまでの足跡に免じ下野薬師寺での役職を与えたもの)
- ^ 続日本紀、770年(宝亀元年)8月21日の条:「皇太子は以下のように令旨した。『聞くところ、道鏡法師は永いこと竊挾舐粳の心があり、先帝の陵土が未だ乾かないうちにその姦謀が発覚した。これも神祇所護、社稷攸祐のおかげである。今顧みるに、先聖には厚い恩があり法によって刑罰に処することなど出来ない。よって、造下野国薬師寺別当の職に任じ遣わすものとする。』即日、左大弁正四位下佐伯宿祢今毛人と弾正尹従四位下藤原朝臣楓麻呂を遣わし、役を令し上道させた。」
- ^ 続日本紀、772年(宝亀3年)4月7日 (旧暦)の条:「下野国は造薬師寺別当道鏡が死去した旨を光仁天皇に奏上した。道鏡は俗姓を弓削連(ゆげのむらじ)といい、河内の人である。梵文に通じ禅を行うと聞こえ、このため内道場に入って禅師に列せられた。天平宝字5年、孝謙上皇の保良宮御幸に従事し、上皇が病を患った時に病床の傍らで看病してその寵愛を受けるようになった。廃帝はこれに常に意見し、称徳天皇(孝謙上皇)とともに当たることは出来なかった。称徳天皇は平城京へ帰り別宮に居した。天平宝字8年、大師藤原恵美押勝が謀反を起こし誅伐された。これをもって道鏡を太政大臣禅師とした。しばらくして、称徳天皇は崇敬する道鏡を法王とし、これをもって鸞輿(天皇が乗る輿)に乗ることを許した。衣服や飮食も一とし、政務の巨細に関わらず決裁させた。道鏡の弟の弓削浄人は布衣に始まり8年間で従二位大納言にまで昇進し、一門で五位の者は男女10人となった。時の大宰府の主神であった中臣習宜阿曾麻呂は宇佐八幡宮の神教と詐称して道鏡を誑かし、道鏡もこれを信じて神器の意を抱いた。この語りは高野天皇紀に記載されている。称徳天皇が崩御しても引き続きその威福をもって僥倖し、ご葬礼が終わった後も山陵を守り奉っていた。先帝の寵愛を受けていたため法で裁くには忍びず、よって道鏡を造下野国薬師寺別当とし、駅伝いに送ることによって赴任させた。死去に当たっては庶人として葬られた。」
- ^ 日本三代実録、863年(貞観5年)5月2日 (旧暦)の条:「この日、下野国をもって准大国に令す。」
- ^ 日本三代実録、881年(元慶5年)5月2日 (旧暦)の条:「この日、下野国をもって準大国とする。」
- ^ 続日本紀、775年(宝亀6年)3月2日 (旧暦):「始めて伊勢国に少目2員、参河国に大目1員と少目1員、遠江国に少目2員、駿河国に大目1員と少目1員、武蔵国に少目2員、下総国に少目2員、常陸国に少掾2員と少目2員、美濃国に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、陸奥国に少目2員、越前国に少目2員、越中国に大目1員と少目1員、但馬国に大目1員と少目1員、因幡国に大目1員と少目1員、伯耆国に大目1員と少目1員、播磨国に少目2員、美作国に大目1員と少目1員、備中国に大目1員と少目1員、阿波国に大目1員と少目1員、伊予国に大目1員と少目1員、土佐国に大目1員と少目1員、肥後国に少目2員、豊前国に大目1員と少目1員を置く。」
- ^ 文徳天皇実録、858年(天安2年)4月15日 (旧暦)の条:「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する。」
- ^ 日本地誌提要「二十八 下野」
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 292-298。
- ^ a b c d e f g h i j k 栃木県史 通史編2 1980, p. 114.
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