下野国
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国内の施設
国府
『和名抄』(平安時代中期)では、国府は都賀郡にあるとする。次の遺構が見つかっている。
国分寺・国分尼寺
- 下野国分寺跡 (下野市国分寺、北緯36度23分06.21秒 東経139度48分21.95秒 / 北緯36.3850583度 東経139.8060972度)
- 国の史跡。東大寺式伽藍配置で、寺域は東西413メートル・南北457メートル。伽藍跡地の北東方に後継の瑠璃光山東方院国分寺(本尊:薬師如来)が立つ。
- 下野国分尼寺跡 (下野市国分寺、北緯36度23分06.98秒 東経139度48分44.73秒 / 北緯36.3852722度 東経139.8124250度)
- 国の史跡。国分寺跡東方600メートルに所在。東大寺式伽藍配置で、推定寺域は東西145メートル・南北470メートル。後継寺院はない。
神社
- 河内郡 二荒山神社
- 比定論社:二荒山神社(宇都宮二荒山神社) (宇都宮市馬場通り)
- 比定論社:二荒山神社(日光二荒山神社) (日光市内に3宮)
- 総社:大神神社 (栃木市惣社町、北緯36度24分21.30秒 東経139度46分55.76秒 / 北緯36.4059167度 東経139.7821556度)
- 一宮:次の2社が一宮を称する(「二荒山神社」参照)。
安国寺利生塔
注釈
出典
- ^ 『世界大百科事典』(平凡社)毛野(けぬ)項。
- ^ 『国造本記』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条。
- ^ レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答。
- ^ a b c 『日本の地名 栃木県の地名』(平凡社)下野国節。
- ^ 続日本後紀、848年(嘉祥元年)11月3日 (旧暦)の条:「下野薬師寺は天武天皇が建立したもので、七大寺に数えられた。資財は巨多あり坂東10国に得度者がいた。」
- ^ 続日本紀、749年(天平勝宝元年)7月13日の条:「諸寺墾田地限を定め、大安寺・薬師寺・興福寺・法華寺・諸国分金光明寺は寺ごとに1,000町、大和国分金光明寺は4,000町、元興寺は2,000町、弘福寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・新薬師寺・建興寺・下野薬師寺・観世音寺は寺ごとに500町、諸国法華寺は寺ごとに400町、定額寺は各寺100町とする。」
- ^ 日本三代実録、874年(貞観16年)閏4月25日 (旧暦)の条:「延べ60人の僧が(平安京の)紫宸殿において3日間にわたり大般若経の転読を行った。この日、金字仁王経71部が配られ、五畿七道の各国に一部ずつ安置された。下野国薬師寺・大宰府観世音寺・豊前国弥勒寺には、これとは別に一部ずつ置かれた。」
- ^ 続日本紀、754年(天平勝宝6年)11月24日の条:「薬師寺の僧である行信と宇佐神宮の主神である大神多麻呂らは遠流の刑罰に該当する呪詛を行った。よって、多治比真人広足を遣って薬師寺にて詔を宣下し、下野薬師寺に配流とした。」(本来であれば刑罰として職官を剥ぎ遠隔地に流罪とすべきところを、これまでの足跡に免じ下野薬師寺での役職を与えたもの)
- ^ 続日本紀、770年(宝亀元年)8月21日の条:「皇太子は以下のように令旨した。『聞くところ、道鏡法師は永いこと竊挾舐粳の心があり、先帝の陵土が未だ乾かないうちにその姦謀が発覚した。これも神祇所護、社稷攸祐のおかげである。今顧みるに、先聖には厚い恩があり法によって刑罰に処することなど出来ない。よって、造下野国薬師寺別当の職に任じ遣わすものとする。』即日、左大弁正四位下佐伯宿祢今毛人と弾正尹従四位下藤原朝臣楓麻呂を遣わし、役を令し上道させた。」
- ^ 続日本紀、772年(宝亀3年)4月7日 (旧暦)の条:「下野国は造薬師寺別当道鏡が死去した旨を光仁天皇に奏上した。道鏡は俗姓を弓削連(ゆげのむらじ)といい、河内の人である。梵文に通じ禅を行うと聞こえ、このため内道場に入って禅師に列せられた。天平宝字5年、孝謙上皇の保良宮御幸に従事し、上皇が病を患った時に病床の傍らで看病してその寵愛を受けるようになった。廃帝はこれに常に意見し、称徳天皇(孝謙上皇)とともに当たることは出来なかった。称徳天皇は平城京へ帰り別宮に居した。天平宝字8年、大師藤原恵美押勝が謀反を起こし誅伐された。これをもって道鏡を太政大臣禅師とした。しばらくして、称徳天皇は崇敬する道鏡を法王とし、これをもって鸞輿(天皇が乗る輿)に乗ることを許した。衣服や飮食も一とし、政務の巨細に関わらず決裁させた。道鏡の弟の弓削浄人は布衣に始まり8年間で従二位大納言にまで昇進し、一門で五位の者は男女10人となった。時の大宰府の主神であった中臣習宜阿曾麻呂は宇佐八幡宮の神教と詐称して道鏡を誑かし、道鏡もこれを信じて神器の意を抱いた。この語りは高野天皇紀に記載されている。称徳天皇が崩御しても引き続きその威福をもって僥倖し、ご葬礼が終わった後も山陵を守り奉っていた。先帝の寵愛を受けていたため法で裁くには忍びず、よって道鏡を造下野国薬師寺別当とし、駅伝いに送ることによって赴任させた。死去に当たっては庶人として葬られた。」
- ^ 日本三代実録、863年(貞観5年)5月2日 (旧暦)の条:「この日、下野国をもって准大国に令す。」
- ^ 日本三代実録、881年(元慶5年)5月2日 (旧暦)の条:「この日、下野国をもって準大国とする。」
- ^ 続日本紀、775年(宝亀6年)3月2日 (旧暦):「始めて伊勢国に少目2員、参河国に大目1員と少目1員、遠江国に少目2員、駿河国に大目1員と少目1員、武蔵国に少目2員、下総国に少目2員、常陸国に少掾2員と少目2員、美濃国に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、陸奥国に少目2員、越前国に少目2員、越中国に大目1員と少目1員、但馬国に大目1員と少目1員、因幡国に大目1員と少目1員、伯耆国に大目1員と少目1員、播磨国に少目2員、美作国に大目1員と少目1員、備中国に大目1員と少目1員、阿波国に大目1員と少目1員、伊予国に大目1員と少目1員、土佐国に大目1員と少目1員、肥後国に少目2員、豊前国に大目1員と少目1員を置く。」
- ^ 文徳天皇実録、858年(天安2年)4月15日 (旧暦)の条:「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する。」
- ^ 日本地誌提要「二十八 下野」
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 292-298。
- ^ a b c d e f g h i j k 栃木県史 通史編2 1980, p. 114.
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