1994年 - 1998年
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1994年、14thシングル『Don't Leave Me』発売日から『B'z LIVE-GYM '94 "The 9th Blues"』を開催し、合計で1年を通して87本のライブを行った。また、初のCD2枚組になった7thアルバム『The 7th Blues』発売日には、全国31紙の新聞に音楽業界初となる全30段フルカラー2ページの広告展開を実施した。15thシングル『MOTEL』発売を最後に制作チーム「B+U+M」を解体した。 1995年、16thシングル『ねがい』を発売し、17thシングル『love me, I love you』発売日から『B'z LIVE-GYM Pleasure '95 "BUZZ!!"』がスタートし、スタジアムクラスの会場を中心に開催した。ツアーで未発表曲として披露した「LOVE PHANTOM」を18thシングルとして発売した。「B'zは2人である」という原点に立ち返って制作した8thアルバム『LOOSE』は売上枚数が300万枚に達した。1996年は19thシングル『ミエナイチカラ 〜INVISIBLE ONE〜/MOVE』発売後、『B'z LIVE-GYM '96 "Spirit LOOSE"』を開催。ツアーで披露していた全編英語詞の「Real Thing Shakes」を20thシングルとして発売した。 1997年、21stシングル『FIREBALL』発売後に『B'z LIVE-GYM Pleasure '97 "FIREBALL"』を開催し、ナゴヤドームのこけら落し公演を含むドームツアーとなった。ツアーで未発表曲として披露した「Calling」は大幅なアレンジを経て22ndシングルとして発売した。9thアルバム『SURVIVE』発売後、1998年から『B'z LIVE-GYM '98 "SURVIVE"』を開催した。デビュー10周年となったこの年に発売した初の公式ベスト・アルバム『B'z The Best "Pleasure"』は、当時の初週売上枚数を更新する270万枚を記録すると、さらに売上枚数を増やして日本国内の音楽史上初となる売上枚数500万枚を突破した。また、『Pleasure』に封入していたはがきによるリクエストで収録曲を決定したベスト・アルバム『B'z The Best "Treasure"』も400万枚を超える売上枚数となって2作品合計の売上枚数が約1,000万枚を記録した。
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1994年 - 1998年
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日程ツアータイトル会場・備考1994年2月9日 - 7月2日 B'z LIVE-GYM '94 "The 9th Blues"〈PART1〉37会場55公演 02/09 川口リリアホール02/10 川口リリアホール02/14 倉敷市民会館02/15 倉敷市民会館02/17 島根県民会館02/18 鳥取県立県民文化会館02/22 神戸国際会館02/23 神戸国際会館02/25 和歌山県民文化会館03/02 名古屋センチュリーホール03/03 名古屋センチュリーホール03/09 市川市文化会館03/10 市川市文化会館03/15 四日市市文化会館03/17 京都会館 第一ホール03/18 京都会館 第一ホール03/24 新潟県民会館03/25 新潟県民会館03/27 群馬県民会館03/29 長野県県民文化会館03/30 長野県県民文化会館04/05 アスティとくしま04/07 高知県立県民文化ホール04/08 高知県立県民文化ホール04/12 熊本市民会館04/13 長崎市公会堂04/15 大分文化会館04/16 九州厚生年金会館04/21 神奈川県民ホール04/22 神奈川県民ホール04/27 茨城県立県民文化センター04/28 宇都宮市文化会館04/30 山梨県立県民文化ホール05/06 釧路市民文化会館05/07 帯広市民文化ホール05/09 北海道厚生年金会館05/10 北海道厚生年金会館05/14 山形市総合スポーツセンター05/15 郡山市民文化センター05/17 秋田県民会館05/18 岩手県民会館 05/26 福岡国際センター05/27 福岡国際センター05/31 沖縄コンベンションセンター06/01 沖縄コンベンションセンター06/09 名古屋レインボーホール06/10 名古屋レインボーホール06/16 日本武道館06/17 日本武道館06/21 大阪城ホール06/22 大阪城ホール06/25 広島サンプラザ06/26 広島サンプラザ07/01 横浜アリーナ07/02 横浜アリーナ ツアー序盤はアルバム『The 7th Blues』発売前であった。〈PART2〉と合わせてB'z史上最も長いツアーになった。なお、このツアーから稲葉と松本の立ち位置が現在のようになる。総動員数178,350人。EDSE - 「Don't Leave Me (Instrumental)」 1994年9月28日 - 12月24日 B'z LIVE-GYM '94 "The 9th Blues"〈PART2〉18会場32公演 09/28 青森市文化会館09/29 青森市文化会館10/04 愛媛県県民文化会館10/05 愛媛県県民文化会館10/07 香川県県民ホール10/08 香川県県民ホール10/12 宮崎市民会館10/14 鹿児島市民文化ホール10/15 鹿児島市民文化ホール10/20 大宮ソニックシティ10/21 大宮ソニックシティ10/28 北見市民会館10/29 旭川市民文化会館10/31 函館市民会館11/08 福井フェニックスプラザ11/10 石川厚生年金会館11/11 石川厚生年金会館11/17 静岡市民文化会館11/18 静岡市民文化会館 11/22 横浜アリーナ11/23 横浜アリーナ11/28 名古屋レインボーホール11/29 名古屋レインボーホール12/06 大阪城ホール12/07 大阪城ホール12/10 国立代々木競技場 第一体育館12/11 国立代々木競技場 第一体育館12/13 国立代々木競技場 第一体育館12/19 仙台市体育館12/20 仙台市体育館12/23 月寒グリーンドーム12/24 月寒グリーンドーム アリーナ公演はTIMEツアー以来となる360度開放ステージになった。最終公演のみWアンコールがあり、「いつかのメリークリスマス」を演奏した。総動員数137,895人。EDSE - 「Don't Leave Me (Instrumental)」 1994年12月25日 SECRET GIG"Merry Xmas メリーさんの羊が一匹・聖しこの夜"会場 - 札幌 PENNY LANE 24ツアーの打ち上げを兼ねたシークレットライブ。The 9th Bluesツアー最終公演の観客を抽選で招待した。EDSE - 「Don't Leave Me (Instrumental)」 1995年7月7日 - 8月25日 B'z LIVE-GYM Pleasure '95 "BUZZ!!"7会場12公演 07/07 山形市総合スポーツセンター07/08 山形市総合スポーツセンター07/15 舞洲スポーツアイランド07/16 舞洲スポーツアイランド07/23 横浜スタジアム07/24 横浜スタジアム07/29 ナゴヤ球場07/30 ナゴヤ球場08/13 福岡ドーム08/19 真駒内オープンスタジアム08/24 千葉マリンスタジアム08/25 千葉マリンスタジアム 初のスタジアムツアー(山形公演のみアリーナ)。「FIREBIRD」というトラス・システムを取り入れた。当時の未発表曲「LOVE PHANTOM」における空中ダイブ演出が話題となった。『"BUZZ!!" THE MOVIE』として映像作品化している。総動員数約28万人。EDSE7/7-7/30…「ONE FOR THE ROAD」8/13-8/25…「消えない虹 (English Version)」 1996年3月10日 B'z LIVE-GYM '96"Spirit LOOSE" SHOWCASE1会場1公演 - 渋谷 ON AIR EASTSHOWCASE初開催。アンコールではキッスの「デュース」をカバーした。EDSE - 「ミエナイチカラ 〜INVISIBLE ONE〜 (Piano Version)」 1996年3月15日 - 7月6日 B'z LIVE-GYM '96 "Spirit LOOSE"19会場44公演 03/15 グリーンドーム前橋03/16 グリーンドーム前橋03/20 浜松アリーナ03/21 浜松アリーナ03/25 広島グリーンアリーナ03/26 広島グリーンアリーナ03/29 神戸ワールド記念ホール03/30 神戸ワールド記念ホール04/06 アスティとくしま04/07 アスティとくしま04/09 愛媛県県民文化会館04/10 愛媛県県民文化会館04/17 横浜アリーナ04/18 横浜アリーナ04/23 新潟市産業振興センター04/24 新潟市産業振興センター04/27 石川県産業展示館04/28 石川県産業展示館05/02 名古屋レインボーホール05/03 名古屋レインボーホール05/08 仙台市体育館05/09 仙台市体育館05/11 盛岡市アイスアリーナ05/12 盛岡市アイスアリーナ05/18 国立代々木競技場 第一体育館05/19 国立代々木競技場 第一体育館05/21 国立代々木競技場 第一体育館05/22 国立代々木競技場 第一体育館05/28 大阪城ホール05/29 大阪城ホール06/01 真駒内アイスアリーナ06/02 真駒内アイスアリーナ06/11 大阪城ホール06/12 大阪城ホール06/15 名古屋レインボーホール06/16 名古屋レインボーホール06/20 日本武道館06/21 日本武道館06/25 マリンメッセ福岡06/26 マリンメッセ福岡06/29 鹿児島アリーナ06/30 鹿児島アリーナ07/05 沖縄コンベンションセンター07/06 沖縄コンベンションセンター 松本・稲葉主演によるオープニング・ムービーが話題となった。総動員数273,322人。EDSE - 「ミエナイチカラ 〜INVISIBLE ONE〜 (Piano Version)」 1997年3月10日 - 4月2日 B'z LIVE-GYM Pleasure '97"FIREBALL"5会場9公演 03/10 グリーンドーム前橋03/15 ナゴヤドーム03/16 ナゴヤドーム03/20 東京ドーム03/22 東京ドーム03/23 東京ドーム03/28 福岡ドーム04/01 大阪ドーム04/02 大阪ドーム 初のドームツアー。ナゴヤドームはこけら落し公演となった。当時の未発表曲として「Do me」と「Calling」を披露した。総動員数314,000人。EDSE - 「Calling (Piano Version)」 1997年12月29日 B'z SHOWCASE "GO! GO! HEAVEN"1会場1公演 - 横浜 CLUB HEAVENタイトルはSPEED「Go! Go! Heaven」から。B'z側がSPEED側から許可を得て使用した。ドラマーとして黒瀬蛙一が参加した。EDSE - 「Survive (Guitar Solo Version)」 1998年1月7日 - 1月17日 B'z LIVE-GYM '98 "SURVIVE"-PREVIEW-5会場5公演 01/07 秋田県民会館01/09 函館市民会館01/12 高知県立県民文化ホール01/14 滋賀県立文化産業交流会館01/17 長崎市公会堂 アリーナツアー開始前のホール公演。EDSE - 「Survive (Guitar Solo Version)」 1998年1月24日 - 6月6日 B'z LIVE-GYM '98 "SURVIVE"16会場44公演 01/24 三重県営サンアリーナ01/28 浜松アリーナ01/29 浜松アリーナ02/01 マリンメッセ福岡02/02 マリンメッセ福岡02/05 広島グリーンアリーナ02/06 広島グリーンアリーナ02/14 アスティとくしま02/15 アスティとくしま02/21 大阪城ホール02/22 大阪城ホール02/24 大阪城ホール02/25 大阪城ホール03/04 横浜アリーナ03/06 横浜アリーナ03/07 横浜アリーナ03/16 名古屋レインボーホール03/17 名古屋レインボーホール03/19 名古屋レインボーホール03/20 名古屋レインボーホール03/25 新潟市産業振興センター03/26 新潟市産業振興センター03/29 石川県産業展示館03/30 石川県産業展示館04/07 鹿児島アリーナ04/08 鹿児島アリーナ04/12 沖縄コンベンションセンター04/13 沖縄コンベンションセンター04/21 国立代々木競技場 第一体育館04/22 国立代々木競技場 第一体育館04/24 国立代々木競技場 第一体育館04/25 国立代々木競技場 第一体育館04/29 真駒内アイスアリーナ04/30 真駒内アイスアリーナ05/07 盛岡市アイスアリーナ05/08 盛岡市アイスアリーナ05/11 グランディ21 宮城県総合体育館05/12 グランディ21 宮城県総合体育館05/24 国立代々木競技場 第一体育館05/25 国立代々木競技場 第一体育館05/27 国立代々木競技場 第一体育館06/02 大阪城ホール06/03 大阪城ホール06/06 マリンメッセ福岡 アニメムービー上映、瞬間移動、ステージセット崩壊などエンターテイメント色の濃いツアーになった。SHOWCASE公演、Preview公演を合わせた総動員数は342,000人。EDSE - 「Survive (Guitar Solo Version)」
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1994年~1998年
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1994年はゼッケン1を付けてヤマハ・モーター・フランスからエントリーするが、1勝もできずにランキング7位に甘んじる。翌1995年からはウェイン・レイニー率いるマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーの250ccクラスのエースとなる。この時期は宿命のライバル、アプリリアのビアッジと壮絶なバトルを繰り広げた。ビアッジの駆るアプリリア・RSV250は圧倒的なトップスピードを誇り、原田のヤマハTZ-Mはハンドリングには勝るものの直線で引き離されるという苦しい戦いが続いた。結局善戦しながらも、1994年から3年連続でチャンピオンをビアッジに譲ってしまう。この年、原田は「ビアッジに負けているんじゃない!アプリリアに勝てないだけだ!」とコメントしている。原田の繊細で緻密なライディングテクニックは誰もが認めるところで、ヤマハの供給するマシンの性能がアプリリアよりも劣るのは誰の目にも明らかであり、さらにチャンピオンライダーとしての待遇面のミスマッチも指摘されていたため、レース界でもこの発言をただの妬みと捉える見方は少なかった。 1996年、ヤマハは原田と共に世界タイトルを奪還するために新型YZR250の開発を決断する。YZR250は原田一人にだけ用意された「原田スペシャル」とも呼べるマシンであった。原田はこの年、第2戦で早くもYZR250を勝利に導くものの、その後は熟成不足が祟って思う様な成績を残せず、シーズン途中でヤマハとの契約解除を発表。日本国内から始まって約8年間に及んだヤマハファクトリーと原田の契約は双方合意の元に解消されるに至った。この時、急遽空席となったYZR250のシートを託されたのが、プライベーターとしてGP250に参戦していた新人のセテ・ジベルナウである。 その後、原田はアプリリアのファクトリーチームと契約を結ぶ。アプリリアは原田が世界GPにデビューした直後から彼の才能を高く評価し、原田が新人で世界チャンピオンを獲得するという偉業を達成すると、さらに獲得を強く望んだ。そして原田とヤマハファクトリーとの契約が解消されると直ちに原田獲得に動いた。原田もライバルのビアッジが乗るマシンに憧れと興味があった。アプリリアは念願の原田獲得が実現すると、3年連続世界チャンピオンを獲得したビアッジを放出するという驚くべき行動に出て、ゼッケン1よりも原田というライダーを選択したことを内外に知らしめた。この時代、日本人スポーツ選手が海外チームと契約する場合は金や日本市場進出といった実力以外の要素が絡むケースが非常に多かったが、原田とアプリリアの契約はそうした要件が一切絡まず、純粋に選手の実力のみを評価して結ばれた点が特筆される。この契約により、原田は日本人ライダーとして海外のファクトリーチームと契約する初のライダーとなった。 当時ヤマハYZR250はリードバルブエンジンを搭載していたのに対し、アプリリア・RSV250はロータリーディスクバルブエンジンを搭載していた。原田はこの秋に初めてアプリリアのマシンをテスト走行した際、「乗る前はストレートでもっとドッカーン!としたエンジンパワーがあるかのと想像していたが、予想した程ではなかった。それだけビアッジが上手く乗っていたのだろう」とコメントしている。一方、アプリリアを離れたビアッジは、1997年の開幕間近になってもシートを獲得できずにいた。これに対してホンダが動き、プライベートチームにNSR250を貸与し、ようやくビアッジのGP250参戦が決定した。念願であったアプリリアのマシンを獲得した原田は、勝てないのはマシンの差だという過去の自らの発言が正しいことをレースで証明しなければならなかった。一方のビアッジも、マシンの力ではなく自分の実力で3年連続タイトルを獲得したことを証明しなければならなかった。 1997年、原田は前半戦に不運に見舞われたが、フランスGPやオランダGPでトップスピードを如何なく発揮して2連勝。ドイツGPでは最終ラップで4人の混戦の中、最終コーナー手前で抜き去り3勝目をマークするが、結局ビアッジの4年連続タイトル獲得を許し、ランキング3位となった。 1998年、原田はチームメートのカピロッシや若きバレンティーノ・ロッシをも翻弄する円熟したレース運びで序盤のアドバンテージを築き上げるが、転倒による骨折が仇となり、最終戦のアルゼンチンGPを残してカピロッシにポイントリーダーを明け渡す。それでもここで原田がカピロッシに先行して2位以内に入れば逆転でシリーズチャンピオンとなることができた。決勝では白熱したデッドヒートが展開され、最終ラップで原田はロッシに次ぐ2位を確保、5年振りのタイトル獲得かと思われた。ところが、最終コーナーで原田はカピロッシの無理な突っ込みによる接触を受け、コースから弾き出されて転倒・リタイア。カピロッシがチャンピオン獲得となった。 レース後、カピロッシは一時失格となるが、後日スポーツ仲裁裁判所で失格処分が取り消されて2位が確定、チャンピオンも確定した。一方、リタイアした原田はポイントでロッシに抜かれ、ランキング3位でシーズンを終えることとなった。直後のインタビューで、原田は「ビアッジは大嫌いだがレースの中ではクリーンだった」「あんなことをしてまでチャンピオンが欲しいなら、そんなもの奴(カピロッシ)にくれてやる!」とコメントしている。しかし後年、原田は日本テレビの2006年日本GP特番でのインタビューで当時のカピロッシについて述懐し、「彼も可哀そうだった。93年に僕に負けて、また同じように負けることは彼自身、そしてイタリアのマスコミが許さない状況だった。あそこまでしてもチャンピオンを獲りたいと思う気持ちは大事なこと。日本人ライダーたちに欠けていることなのかも知れない」と理解を示している。
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