世界GP
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:16 UTC 版)
「レグ・アームストロング」の記事における「世界GP」の解説
レグの速さに目をつけたAJSは『Porcupine』を提供し、それを得て彼はアンスティーのレースで4位につけた。この結果を受けてAJSとレグは1949年のロードレース世界選手権350ccクラス出場についての契約を交わした。この年、レグはスイスGP4位、オランダPGとベルギーGPで5位、アルスターGP3位、イタリアGP6位にそれぞれつけた。全戦で優勝したベロセットのフレディー・フリースには及ばなかったが、彼は18ポイントを獲得して年間ランキング2位を得た。 翌年はロードレース世界選手権にエントリーせず、僅かにマン島セニアTTレースにベロセットを駆って出場し、6位となった程度の戦跡しか残していない。しかし、1951年にはふたたびロードレース世界選手権にAJSから返り咲き、500ccクラスで年間6位、350ccクラスで年間7位となった。評価を高めたレグは翌年の契約をノートンと交わした。そのシーズンオフに、スタンリー・ウッズ(en)と連れ立ってスイスにスキー旅行に出かけたが、そこで二人とも怪我をしてしまい、脛骨の骨折が癒えるまでの2ヶ月間当地に足止めを食らってしまった。 治療はシーズン開幕に間に合い、1952年には契約どおりノートンから500ccと350ccの2クラスにエントリーした。第2戦マン島TT500ccクラスでレグはGP初優勝を遂げ、ドイツGPでも優勝を飾り、年間ランキング3位に食い込んだ。350ccクラスでもドイツGP勝利を含む24ポイントを得て年間2位となった。 1953年以降は、マシンをジレラとNSUに乗り換え複数のクラスに出場した。彼は1956年まで出場を続けた。
※この「世界GP」の解説は、「レグ・アームストロング」の解説の一部です。
「世界GP」を含む「レグ・アームストロング」の記事については、「レグ・アームストロング」の概要を参照ください。
- 世界GPのページへのリンク