ジレラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/06 23:06 UTC 版)
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種類
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子会社 |
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業種 | オートバイ、スクーター |
設立 | 1909年 |
創業者 | ジュゼッペ・ジレラ |
解散 | 2020年 ![]() |
本社 | 、 |
事業地域
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Worldwide |
所有者 | Rudy |
親会社 | ![]() |
ウェブサイト | Gilera.com |

ジレラ(Gilera )は、イタリア・アルコレのオートバイ製造会社(メーカー)。1969年にピアッジオに買収されてからは、ジレラは同社が所有する6つのブランドのひとつとなった。
歴史
創業からレース界での活躍まで
ジレラは、1909年にジュゼッペ・ジレラが創業した。同社は、世界で初めてオートバイ市販を行った[1]。
1935年にジレラはロンディネ(Rondine)から四気筒エンジンの権利を買い取り、100ccから500ccまでの4サイクルオートバイ製造に集中し、1937年には当時の最高速度170mphを記録した[2]。この代表格が1939年の『Saturno』であり、後40年近くに亘るレース界での活躍の端緒ともなった。
第二次世界大戦後に開催されたロードレース世界選手権初期、ジレラは500ccクラスを席捲した。ウンベルト・マセッティ、ジェフ・デューク、リベロ・リベラッティを擁し、8年間で6度のチャンピオン輩出を遂げた。しかしながら、戦後の自動車ブームのためにオートバイの販売は減少し、会社の収益は悪化した。1957年の選手権を最後に、ジレラは他のイタリア系オートバイメーカーとの紳士協定に基づき、経費削減のためにレース界から手を引いた。
ピアッジオ傘下でのジレラ
1969年にピアッジオの傘下に加わった後、ジレラは小型から大型までのスクーターを中心としたブランドとなった。これらはピアッジオを代表するスクーター・ベスパとは路線を異にするスポーティーなシリーズとして位置づけられている。

ジレラはレースにも復帰し、1991年にはダカール・ラリーへ出場[3]。1992年からはGPにもマシンを送り出し、2001年のロードレース世界選手権125ccクラスではマヌエル・ポジアーリの運転によりチャンピオンを獲得した。2000年代からは、スポーツバイクも発表している。
主なモデル
脚注
- ^ “ジレラ(Gillera)”. コネクティングロッド. 2008年1月11日閲覧。
- ^ “Gillera(ジレラ)社について”. 武蔵野通信. 2008年1月11日閲覧。
- ^ “スピードの挑戦、ジレラ(Gillera)”. カネバン. 2008年1月11日閲覧。
外部リンク
ジレラ
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「ボブ・マッキンタイヤ」の記事における「ジレラ」の解説
1957年、マッキンタイヤは負傷したジレラのワークスライダー、ジェフ・デュークに代わって4気筒のジレラでマン島を戦った。ジュニアクラスからレースウィークをスタートしたマッキンタイヤは97.42mph(156.78km/h)のラップレコードを記録し、レース平均速度94.99mph(152.87km/h)で優勝を飾った。続いて出場したシニアクラスは、記念すべきゴールデン・ジュビリー(50周年記念レース)であり、8ラップ302マイル(486km)で争われた。このレースでジレラは予備の燃料が入った追加タンクをフェアリングに装着していたが、これによる重量の増加にもかかわらずマッキンタイヤは1周目に99.99mph(160.92km/h)を記録した。そして2周目にはマン島史上初のオーバー・ザ・トン(平均速度100mph以上)となる101.03mph(162.59km/h)を達成、4周目には101.12mph(162.74km/h)で最速ラップを更新した。前年のワールドチャンピオンでMVアグスタを駆るジョン・サーティースとデッドヒートを繰り広げたマッキンタイヤは、3時間2分57秒のレースタイムでサーティースを打ち破って優勝した。このレースはマッキンタイヤにとってのベストレースのひとつとなった。 マン島で2勝を挙げてワールドチャンピオンにも手が届くかに思えた1957年シーズンであったが、アッセンで開催されたダッチTTでの事故のために2ヶ月間に渡ってレース欠場を余儀なくされた。復帰後はアルスターGPの500ccクラスで2位、モンツァのイタリアGPでは350ccクラスで優勝と速さを取り戻したが、結局この年のチャンピオンシップは500ccクラスではジレラのチームメイトであるリベロ・リベラーティに次いでランキング2位、350ccクラスではランキング3位に終わった。 1957年の末にジレラはコスト高騰を理由にグランプリからの撤退を決定したが、最後に1時間の平均速度記録に挑戦した。11月にモンツァのバンクのついたオーバルコースで350ccのジレラに乗ったマッキンタイヤは、荒れた路面を物ともせず平均速度141mph(227km/h)を記録した。この記録は1961年にデイトナでマイク・ヘイルウッドが乗る500ccのMVアグスタが144.8mphを記録するまで破られることはなかった。 ジレラの撤退後はAJSやノートン、ビアンキ、ホンダと様々なマシンでグランプリへの参戦を続け、度々表彰台にも昇っている。 1961年のマン島では、ライトウェイトクラス(250ccクラス)では99.58mph(160.26km/h)のラップレコードを叩き出して大きなリードを築いたものの突然のエンジントラブルによってレースを終えたが、シニアクラスではノートンのマシンで2位に入っている。同年のアルスターGPでは250ccクラスで優勝を飾った。 1962年のマン島ライトウェイトクラスでも、99.61mphを記録しながら電気系のトラブルによりリタイヤした。この年は戦闘力のあるマシンを手に入れることができなかったために500ccクラスには出場せず、250ccと350ccクラスへの参戦となった。スパ・フランコルシャンで開催されたフランスGP250ccクラスでは優勝を飾ったが、これがマッキンタイヤが優勝した最後のグランプリとなった。
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