ジレット初期の回想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/17 09:14 UTC 版)
「ジレット (ワイオミング州)」の記事における「ジレット初期の回想」の解説
ワイオミング州上院議員で共和党員の故ジョン・C・オストランド(1927年-2004年)はジレットで育った。オストランドの父、アクセル・ウィリアム・オストランド(1891年-1982年)は、配管工事店の経営者であり、1952年から1954年までジレット市長を務めた。ジョン・C・オストランドの自叙伝『Quite a Life』では、ジレットでの子供時代を次のように回想している。 ジレットには舗装路が無かった。実際、メインストリートの2ブロック以外で舗装路ができたのは私の父が市長になってからだった。通りは時として赤い鉱滓で覆われたので、それが直ぐに赤い土埃になり、通りの大半は泥か埃あるいはその中間になった。 オストランドは一年生から始めて直ぐに二年生に進級した。住んでいたのはジレットの当初の役所だった木製2部屋の建物だった。その区画は現在第一国定銀行の駐車設備になっている。オストランドとその弟のボブは母からピアノの指導を受けた。オストランドはフレッド・アステアやジンジャー・ロジャースがいかに「映画での大流行」だったかを回想している。「彼らは、世の母親達ならばその子供達に同じような才能があればと願わせるようなダンスをした。ジレットには才能に溢れた者はいなかったが、シルビア・リップマンという婦人がタップダンスを教えていた。」オストランドの兄弟は比較的短期間のレッスンで、州知事レスリー・A・ミラーを含む観衆の前で、「ショーダンス」を演じる機会があった。 オストランドは次のように書いている。 1936年、町の教育学区が1年生から8年生までを教える新しい学校を建設するための債権発行を承認した。私が古い黄色煉瓦の建物で過ごしたのは6年生が最後だった。真新しい学校に入る我々は皆誇らしい気持ちだった。我々は不況の最悪の時期を通過し、人生は快適に見えた。中学時代を過ごしながら、ドイツでアドルフ・ヒトラーが何をしているかについて関心を持ったとは思えない。ニュース映画ではナチの旗を背景にしたヒトラーがドイツの大群衆を前に叫んでいた。当時のアメリカは戦争、すなわち2つの大洋を隔てた戦争の局外にあることに満足しているように見えた。時代と共に我々が知っていた世界を変えていくときが来ていた。 オストランドは1941年秋にキャンベル郡高校に入学した。翌年、ジレット・アベニューと2番通り角にあるイーデルマン・ドラッグストアでアルバイトを始めた。その仕事はソーダ水を売ることや、ランチを食べに来る多くの客にサービスすることだった。このドラッグストアは元々第一州立銀行として建設された建物を使っており、銀行は1929年の株式暴落後に倒産して閉鎖されていた。「1932年、私は銀行に預けていた預金が永久に失われたことを告げられた。私の金で彼らが何をしたのか理解しかねたことを覚えている。おそらく5ドルに満たない金だったが、私が貯めたなけなしの金だった。」 1年後、オストランドはガルフ石油会社の地震計係の仕事を手に入れた。 彼らは時間給75セントという信じられないような給与を支払った。彼らが私にその仕事を提案し、私が受けた。実際、直ぐに飛びついたと言ってもいいだろう。私は直ぐにドラッグストアの店主ビル・イーデルマンを尋ねて、その夏は別の仕事につくと告げた。彼はどのくらい稼げるのかを尋ねた。私が時給75セントだと告げると、彼は悲しげに「この国はどうなろうとしているのか想像できない」と言った。 オストランドは地震計の仕事を懐かしく回想している。 その夏、我々は国中を歩き回った。州内のムーアクロフトやデビルスタワー地域でも仕事をした。我々が動いた地域の大半は石油生産地に変わった。戦中に貴重なゴムやガソリンを節約するために、車の制限速度は35マイル/時 (56 km/h) に減じられた。このためにいつも仕事場に行くには慎重に運転した。帰り道で込み合うこともあった。 オストランドは制限時速を越えて走っているときに、道に立っていた羊を誤って殺してしまった顛末まで回想している。
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