1972年 10月とは? わかりやすく解説

1972年10月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:05 UTC 版)

ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の記事における「1972年10月」の解説

10月12日(木) ステラ・マリス学園 (Stella Maris College) のキリスト教徒からなるラグビー選手団とその家族知人合わせた一行40人が、チリサンティアゴでの試合向かった一行乗員5人の計45人はウルグアイ空軍双発ターボプロップ機フェアチャイルドFH-227Dをチャーターしモンテビデオにあるカラスコ国際空港出発したが、アンデス山脈での天候不良のため、アルゼンチンメンドーサ一泊することとなった10月13日(金) 飛行機の上昇可能高度上限が9,000 m (30,000 ft)である上に悪天候であったために、メンドーサから直接アンデス山脈越えてサンティアゴまで飛行することは出来なかった。そこで、メンドーサからアンデス山脈にそって南下し山脈切れ目であるプランソンを西に通過してクリコ (en) のすぐ南の地点山脈抜け、そこから山脈チリ側を北上してサンティアゴへ向かうこととなった天候回復したため、飛行機午後にメンドーサ出発してすぐに山脈切れ目通過していた。ここでパイロットサンティアゴ航空管制官に対して現在地点がクリコであると通知したが、これは後に致命的な過ちだったと判明したコース覆われていたので、パイロット標準的な通過時間計算することで西から北に方向変えるタイミング図った。しかし、実際には、強い向かい風機体減速していたために、山脈切れ目抜けるには通常よりも長く時間がかかるはずだった。そのため、山脈西側十分に達していないうちに北上開始した山々深く覆う中に突入して間もなく当時無名だった峰と1度目衝突をした (CFIT)。この峰は後にセレール峰 Cerro SelerまたはGlaciar de las Lágrimas、Glacier of Tears名付けられた。衝突地点はソスネアド峰 (Cerro Sosneado) とティンギリリカ火山 (en) の間の人里はなれた山地であり、チリアルゼンチン国境にまたがる高度4,200メートル地点だった。吹き飛んだ右翼垂直尾翼切り取られ胴体後部に穴が空いた別の峰との再度衝突左翼なくなり機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面衝突し険しい崖を滑落して最終的に埋まって停止した。また機体尾部多く荷物積んだまま胴体とは分離して別の所へ滑落した。乗客3人と乗員2人機外放り出され、9人が即死し負傷が元で初日中に3人が死亡した死亡12人、行方不明5人、生存28人)。 残った28人は凍てつくように寒い高山どうやって生存するかという難問直面した防寒着踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎 (en) を防ぐサングラスもなく、最後の生存者ひとりである24歳アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室サンバイザー加工してサングラス作り、目を守った多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2人航空機支柱添え木作ったウルグアイチリアルゼンチンの3か国からなる捜索隊捜索開始したが、フェアチャイルド機の外装白かったので、積雪混じり合い、空からの発見は非常に困難だった捜索開始から8日後の10月21日中止された。墜落から11日後に、生存者のロイ・アルレーは、機内にあったトランジスタラジオ捜索中止されたというニュース聞いた。ピアス・ポール・リードは著書生存者原題: Alive: The Story of the Andes Survivors)』(生存者インタビュー文書題材にしている)でこれに触れている。 「 ニュース聞くと、ロイ周り居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き祈り始めたパラード冷静に西にそびえる山を見上げた。グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。そして、スーツケースラガーシャツで薄暗い胴体入り口登り振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。「朗報だ! ラジオ聞いた捜索中止された。」機体の中は沈黙していた。皆は見込みのない状況涙したパエス怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。「その意味するところは」とニコリッチ言った。「我々が自分たちでここを脱出するということだ。」この1人少年おかげで、完全な絶望陥ることは防がれた。 」 生存者たち板チョコレートと、その他のスナック菓子ワイン数本という少量食料持っていた。墜落後数日間、彼らはこの食料尽きないように少量分配した救援求めるために、コックピット無線機使用しようとしたが、無線機出力全くないことが判明したその後死亡する航空機関士は、墜落後脱落した機体尾部バッテリー積み込まれていたために電源なくなり通信できない説明した10月15日(日) アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、空になったワインボトル詰め金属片突いてを溶かして溜める工夫をした。フェルナンド・"ナンド"・パラード意識回復し危篤状態にあった妹スサーナを看病した正午以降、3機の航空機通過するのを目撃した。少し遅い時間飛来した1機は機体残骸至近距離通過し、翼を振った生存者たちは、発見されたと信じた午後にラグビーチームキャプテンのマルセロ・ペレスは、支給され食物一部誰か食べられていることを発見した10月16日(月) ロベルト・カネッサは、酷い傷を負ったラファエル・エチャバーレンのためにハンモック組み立てたアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、足にシートクッション取り付けることで雪上歩けることを発見した10月17日(火) カルロス・パエス、ヌマ・トゥルカッティ、ロベルト・カネッサアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、脱落した尾部探そうとして墜落地点から出て尾根反対側に向かったが、結局何も見つけることが出来ず体力消耗して引き返した10月21日(土) スサーナ・パラードが彼女の兄であるナンドの腕の中で死去した死亡13人、行方不明5人、生存27人)。 10月22日(日) 配給管理され食糧尽き自然植生植物動物覆われている山には存在しなかった。機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサ仲間遺体人肉食して生存続けることを主張した何人も生存者食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサ主導権握った。この決定人肉食する相手のほとんどが彼らの親友級友であったので軽い決定ではなかった。 生存者のひとりナンド・パラード著書2006年出版された『アンデス奇跡72日間生き延びて山脈から生還 (en)』ではこう綴られている。 「 高山では、身体必要なエネルギー膨大だった。…新たな食料発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料探し求めて機内捜索した。…何度も胴体の中を探し回りモーゼルで山を登った。我々は、荷物断片である革片を、それに使われている化学物質身体与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々はを見つけようとして多く座席クッション切り裂いたが、使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論達した。我々が着ていた衣服食べられないし、アルミニウムプラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった。 」 乗客全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為聖餐せいさん)と同一視される主張した。それは唯一の生存方法であった。他の人々は、そのこと祝福した救出後にその行為発覚したときには態度翻している。 10月23日(月) 生存者たちは、機体の中で発見したラジオ通して捜索隊自分たちを発見出来ないまま捜索中止したことを知った雪崩の後に、数人少年たち生存唯一の手段山頂に登って救援求めることであると執拗に訴えた機体クリコ通過したという副パイロット主張により、一行チリ農村部西へわずか数マイル地点にあると仮定した少年達の中で最も強健健康状態良かったヌマ・トゥルカッティ、ダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3人が提案に基づき出発し雪上残っている機体滑り落ちた跡を登った。 10月24日(火) 3人は、機体尾部発見しようとして山を登った。途中で翼の断片機外放り出された行不明者5人(乗客3人、乗員2人)の遺体発見した死亡18人、生存27人)。尾部発見できなかった。厳寒高山夜通し歩くのは困難が多いと考え遠征思いとどまり山頂一泊し機体戻った10月29日(日) 生存者たち機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩すさまじ勢いで機体中に流れ込み機体の中で横たわっていた全員埋め尽くした比較浅く埋まった人は、埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者残して8人が死亡した死亡26人、生存19人)。3日間、機体は数フィート雪の下埋まり生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びた10月30日(月) 猛吹雪機外蓄積されていく中、狭い機内閉じ込められたままヌマ・トゥルカッティの誕生日祝った10月31日(火) ヌマ・トゥルカッティと同様に、カルロス・パエスの誕生日祝った

※この「1972年10月」の解説は、「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の解説の一部です。
「1972年10月」を含む「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の記事については、「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の概要を参照ください。

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