1972年 - 2002年
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「全日本プロレス」の記事における「1972年 - 2002年」の解説
全日本の旗揚げ当時、日本プロレスはまだ健在で参加選手が足りないこともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も1970年代末まで国際プロレスとは交流を持ち、1977年から1978年にかけては対抗戦形式のシリーズも開催された。 ライバルである新日本との交流はほとんど行われず、わずかに東京スポーツ主催の「プロレス夢のオールスター戦」があるだけだった。その後、新日本から離れた長州らジャパンと提携して交流を持つも、ジャパン崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF共催)などの交流があったものの、天龍源一郎らの離脱と猪木の新日本復帰(会長就任)後の意向により、その後は途絶えた。 プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。 しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であり、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、FMW以外の団体については、全日本の選手が他団体に上がることはほとんど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人、高山善廣、新崎人生、ハヤブサ、邪道、外道)だけが出場できた。また全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。 三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出して新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らず、三沢らが離脱した後は、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、武藤敬司、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。
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