1970年 - 1980年代とは? わかりやすく解説

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1970年 - 1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 16:34 UTC 版)

グラビアアイドル」の記事における「1970年 - 1980年代」の解説

日本においての「グラビアアイドル(以下、特別な場合除きグラドル略記)」の歴史は、キャンペーンガールとして1976年より活躍したアグネス・ラムハワイ出身)に始まる。 この時代グラビア誌面の雑誌は、『平凡パンチ』、『週刊プレイボーイ』などの週刊誌系のみで、飾っていたのは当時女性アイドル専任ヌードモデルであった女性アイドルメインは、ほぼ全てテレビ出演コンサートでの歌手活動で「アイドル歌手」とも呼ばれ彼女らグラビアにおける水着披露は、歌手としての人気獲得するプロモーション一環過ぎず、「あくまで本業歌手」という前提であった1974年小学館からA4大判グラビア雑誌GORO』が創刊される。それまで雑誌グラビアが、どちらかと言えば読み物記事添え物といったような扱いだったのに対し、『GORO』は表紙巻頭グラビア写真家篠山紀信担当した無名女性モデルヌードからアイドル歌手新進若手女優等価扱った激写」というグラビアコーナーを生み出し、これが世に受けてグラビア写真により大きな比重置いた雑誌として、成人男性読者中心に大きな反響を呼ぶ。 1980年代前半当時芸能界は、山口百恵引退後第2期女性アイドル歌手ブーム起きていた時期であり、掲載していた場合について、まだ世間的に女性アイドルが「グラビア載っている」という捉え方でしかなかったが、アイドル歌手クラリオンガールなどのキャンペーンガール新人女優が、グラビア水着披露する割合多かった1982年には『スコラ』が創刊した。 1984年堀江しのぶデビューする堀江は後に巨乳アイドルブームの立役者となる野田義治秘蔵っ子であり、野田に「堀江売り出すためにイエローキャブを創った」と言わしめるほどの存在だった。グラビア人気獲得した堀江徐々にバラエティー番組ドラマ映画へと活動の幅を拡げ、現代において見られるグラドルマルチタレント」という流れ基礎築いたが、4年後の1988年9月に、胃癌により23歳若さ急逝。しかし、皮肉にも彼女の死が大きく報じられたことによりグラドルという存在世に記す第一歩となり、その後野田手掛けたかとうれいこ細川ふみえも、豊満肉感的なスタイル活かしてまずグラビア人気博した後、テレビ番組など活動の幅を拡げており、野田率いイエローキャブグラビア界で地位確立した

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1970年-1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:34 UTC 版)

日本における同性愛」の記事における「1970年-1980年代」の解説

1971年6月27日東郷健同性愛者であることを公言して参院選に初立候補7月30日ゲイ雑誌薔薇族創刊1972年 - 新宿地区最初のゲイショップ「パラダイス北欧」(西口甲州街道沿い)開店同年ヘテロ男性向けポルノメインの「カバリエ新宿3丁目店も開店(どちらの開店が早いかは未検証)。 1973年- 東京池袋に「陣屋(JIN-YA)」(旧泉)開店1974年ゲイ雑誌アドン』(5月号)創刊11月ゲイ雑誌『さぶ』(11月創刊1975年ゲイ写真集専業メーカー「梵アソシエーション」(後「梵アートハウス」に変更設立東京渋谷円山町旅館千雅開店1970年代半ば頃 - 東京新宿5丁目ゲイディスコ走りブラックボックス開店、同じ頃大阪堂山町にも「ウォーム・ガン」開店1976年新宿五丁目Qフラット美輪明宏が「クラブ巴里出店同年5月同じビル薔薇族編集長が「談話室 祭」出店11月ゲイ団体日本同性愛者解放連合結成10人近く数年活動1977年1月薔薇族50記念号(3月号)に詩人寺山修司が『世界おとうとのために』寄稿3月ゲイ団体フロントランナーズ結成、6人前後で数年活動5月ゲイマガジン「プラトニカ」発刊。後「プラトニカ・クラブ」結成79年解散1978年ゲイ雑誌『The Ken創刊1981年に『The Gay』に改名)。 ゲイ写真集メーカーストームプランニング設立TBSラジオスネークマンショー』の「ウェンズデースペシャル」というコーナーゲイタックTAQ)が担当カミングアウトし、ニュースレター出されOWCというゲイグループも後に生まれた1979年東郷健が「雑民党」の前身の「雑民の会」を設立3月、プラトニカクラブから数人参加してJGC(ジャパン・ゲイ・センター)結成機関誌GAY』,『CHANGE』出して82年解散1970年代後半頃か?、ゲイショップ「エレクト開店1970年代後半頃、新宿二丁目ゲイディスコMAKO開店。同じ頃、大阪堂山町に「パイプライン開店1970年代後半~80年代前半頃、大阪堂山町ゲイディスコ「クリストファー」開店1981年日本在住外国人ゲイによる「イングリッシュ・スピーキング・オルタネート・ライフスタイル サポートグループ結成途中で東京ゲイサポートグループ」に改名8月22日日本初思われるゲイビデオ青春体験シリーズ 少年・純の夏』(フェスター・エンタプライズ)発売薔薇族10周年100記念刊行1982年日本初薔薇族映画『白い牡鹿たち』など3本東京・大阪の成人館で上映7月ゲイ雑誌サムソン創刊。 ゲイタレント、KINYAが「よめきんトリオ」で人気に。 1982年頃、大阪堂山町北欧館開店1983年ティーン中心のゲイサークル「CLⒶSS」(本部:東京赤羽,大阪所在地尼崎》、正確な表記はAの外側に◯)結成それまでも別会名で活動)。 赤塚不二夫ニャロメおもしろ性教育」(西武タイム発売同書7章同性愛などが肯定的に取り上げられる沖雅也が「おやじ、涅槃でまってる」という遺書置いて投身自死ゲイ写真集メーカーY・B・SPORTS大阪設立(後にゲイビデオも出す)。 1984年2月読売テレビ系『魔性』(レズビアン主人公)木曜ゴールデンドラマ放送IGA国際ゲイ連盟,現ILGA日本支部発足アドン編集長南定四郎氏がIGA欧州本部を置くゲイ国際団体)から依頼を受け、日本支部として活動開始9月IGA大阪発足、のちOGC大阪ゲイ・コミュニティ)に改称日本初ゲイ専門映画館東梅田ローズ劇場開館。 『野性時代』でゲイ小説きれいな病気」(マガジンハウス今野雄二連載開始1985年 - 東大阪市長瀬に「上方DJ倶楽部発足1986年3月、「OCCUR結成、のち「動くゲイとレズビアンの会」(通称OCCUR)と名乗る5月1日3日まで、IGA(現ILGA日本(代表・南定四郎)が「第一回アジアゲイ会議開催。 初のゲイハンドブック『オトコノコのためのボーイフレンド』(少年社)発刊天才たけしの元気が出るテレビゲイのセリーヌ・カンが人気に。 ゲイショップ「ルミエール」がエレクトの謎の火災焼失後に後継店として開店1987年 - 8月、『別冊宝島』(JICC出版局)「女を愛す女たち物語」。 1988年88年10月-89年9月まで、フジテレビ系笑っていいとも』でニューハーフブームの引き金になった「Mr.レディ & Mrタモ金の輪放送12月、ホモセクハラを告発した北小路氏の『光GENJIへ』(データハウス発刊1989年昭和64年1月1日 - 1月7日/平成元年1月8日 - 12月31日5月13日東京新宿・花園神社裏のディスコ「ミロス・ガレージ」にて一般向けクラブとしては初の「ゲイナイト開催(合計106回)。 売り専模様描いた比留間久夫YES・YES・YES』が文藝賞受賞

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