1970年 - 1980年代
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「グラビアアイドル」の記事における「1970年 - 1980年代」の解説
日本においての「グラビアアイドル(以下、特別な場合を除きグラドルに略記)」の歴史は、キャンペーンガールとして1976年より活躍したアグネス・ラム(ハワイ出身)に始まる。 この時代はグラビア誌面の雑誌は、『平凡パンチ』、『週刊プレイボーイ』などの週刊誌系のみで、飾っていたのは当時の女性アイドルと専任のヌードモデル達であった。 女性アイドルのメインは、ほぼ全てがテレビ出演やコンサートでの歌手活動で「アイドル歌手」とも呼ばれ、彼女らのグラビアにおける水着披露は、歌手としての人気を獲得するプロモーションの一環に過ぎず、「あくまで本業は歌手」という前提であった。 1974年に小学館からA4大判のグラビア雑誌『GORO』が創刊される。それまでの雑誌グラビアが、どちらかと言えば読み物記事の添え物といったような扱いだったのに対し、『GORO』は表紙と巻頭グラビアを写真家篠山紀信が担当した。無名女性モデルのヌードからアイドル歌手、新進の若手女優を等価に扱った「激写」というグラビアコーナーを生み出し、これが世に受けてグラビア写真により大きな比重を置いた雑誌として、成人男性読者を中心に大きな反響を呼ぶ。 1980年代前半当時の芸能界は、山口百恵引退後の第2期女性アイドル歌手ブームが起きていた時期であり、掲載していた場合について、まだ世間的にも女性アイドルが「グラビアに載っている」という捉え方でしかなかったが、アイドル歌手、クラリオンガールなどのキャンペーンガールや新人女優が、グラビアで水着を披露する割合が多かった。 1982年には『スコラ』が創刊した。 1984年、堀江しのぶがデビューする。堀江は後に巨乳アイドルブームの立役者となる野田義治の秘蔵っ子であり、野田に「堀江を売り出すためにイエローキャブを創った」と言わしめるほどの存在だった。グラビアで人気を獲得した堀江は徐々にバラエティー番組やドラマ、映画へと活動の幅を拡げ、現代においても見られる「グラドル→マルチタレント」という流れの基礎を築いたが、4年後の1988年9月に、胃癌により23歳の若さで急逝。しかし、皮肉にも彼女の死が大きく報じられたことによりグラドルという存在を世に記す第一歩となり、その後野田が手掛けたかとうれいこや細川ふみえも、豊満で肉感的なスタイルを活かしてまずグラビアで人気を博した後、テレビ番組など活動の幅を拡げており、野田率いるイエローキャブはグラビア界で地位を確立した。
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1970年-1980年代
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「日本における同性愛」の記事における「1970年-1980年代」の解説
1971年6月27日、東郷健が同性愛者であることを公言して参院選に初立候補。 7月30日、ゲイ雑誌『薔薇族』創刊。 1972年 - 新宿地区で最初のゲイショップ「パラダイス北欧」(西口甲州街道沿い)開店。同年ヘテロ男性向けポルノがメインの「カバリエ」新宿3丁目店も開店(どちらの開店月が早いかは未検証)。 1973年- 東京・池袋に「陣屋(JIN-YA)」(旧泉)開店。 1974年ゲイ雑誌『アドン』(5月号)創刊。 11月、ゲイ雑誌『さぶ』(11月)創刊。 1975年ゲイ写真集専業メーカー「梵アソシエーション」(後「梵アートハウス」に変更)設立。 東京渋谷・円山町に旅館「千雅」開店。 1970年代半ば頃 - 東京新宿5丁目にゲイディスコの走り「ブラックボックス」開店、同じ頃大阪・堂山町にも「ウォーム・ガン」開店。 1976年新宿五丁目Qフラットに美輪明宏が「クラブ巴里」出店。同年5月同じビルに薔薇族編集長が「談話室 祭」出店。 11月、ゲイ団体「日本同性愛者解放連合」結成、10人近くで数年間活動。 1977年1月、薔薇族50号記念号(3月号)に詩人寺山修司が『世界はおとうとのために』寄稿。 3月、ゲイ団体「フロントランナーズ」結成、6人前後で数年間活動。 5月、ゲイマガジン「プラトニカ」発刊。後「プラトニカ・クラブ」結成も79年解散。 1978年ゲイ雑誌『The Ken』創刊(1981年に『The Gay』に改名)。 ゲイ写真集メーカー「ストームプランニング」設立。 TBSラジオ『スネークマンショー』の「ウェンズデースペシャル」というコーナーをゲイのタック(TAQ)が担当。カミングアウトし、ニュースレターが出され、OWCというゲイグループも後に生まれた。 1979年東郷健が「雑民党」の前身の「雑民の会」を設立。 3月、プラトニカクラブから数人が参加してJGC(ジャパン・ゲイ・センター)結成。機関誌『GAY』,『CHANGE』を出して82年解散。 1970年代後半頃か?、ゲイショップ「エレクト」開店。 1970年代後半頃、新宿二丁目にゲイディスコ「MAKO」開店。同じ頃、大阪堂山町に「パイプライン」開店。 1970年代後半~80年代前半頃、大阪堂山町にゲイディスコ「クリストファー」開店。 1981年日本在住の外国人ゲイによる「イングリッシュ・スピーキング・オルタネート・ライフスタイル サポートグループ」結成。途中で「東京ゲイサポートグループ」に改名。 8月22日、日本初と思われるゲイビデオ『青春体験シリーズ 少年・純の夏』(フェスター・エンタプライズ)発売。 薔薇族10周年、100号記念号刊行。 1982年日本初の薔薇族映画『白い牡鹿たち』など3本、東京・大阪の成人館で上映。 7月、ゲイ雑誌『サムソン』創刊。 ゲイタレント、KINYAが「よめきんトリオ」で人気に。 1982年頃、大阪・堂山町に北欧館開店。 1983年ティーン中心のゲイサークル「CLⒶSS」(本部:東京赤羽,大阪《所在地尼崎》、正確な表記はAの外側に◯)結成(それまでも別会名で活動)。 赤塚不二夫「ニャロメのおもしろ性教育」(西武タイム)発売。同書7章で同性愛などが肯定的に取り上げられる。 沖雅也が「おやじ、涅槃でまってる」という遺書を置いて、投身自死。 ゲイ写真集メーカー「Y・B・SPORTS」 大阪で設立(後にゲイビデオも出す)。 1984年2月、読売テレビ系『魔性』(レズビアンが主人公)が木曜ゴールデンドラマ枠で放送。 IGA(国際ゲイ連盟,現ILGA)日本支部発足。アドン編集長南定四郎氏がIGA(欧州に本部を置くゲイの国際団体)から依頼を受け、日本支部として活動開始。 9月、IGA大阪発足、のちOGC(大阪ゲイ・コミュニティ)に改称。 日本初のゲイ専門映画館「東梅田ローズ劇場」開館。 『野性時代』でゲイ小説「きれいな病気」(マガジンハウス、今野雄二)連載開始。 1985年 - 東大阪市長瀬に「上方DJ倶楽部」発足。 1986年3月、「OCCUR」結成、のち「動くゲイとレズビアンの会」(通称OCCUR)と名乗る。 5月1日〜3日まで、IGA(現ILGA)日本(代表・南定四郎)が「第一回アジアゲイ会議」開催。 初のゲイハンドブック『オトコノコのためのボーイフレンド』(少年社)発刊。 天才たけしの元気が出るテレビでゲイのセリーヌ・カンが人気に。 ゲイショップ「ルミエール」がエレクトの謎の火災で焼失後に後継店として開店。 1987年 - 8月、『別冊宝島』(JICC出版局)「女を愛する女たちの物語」。 1988年88年10月-89年9月まで、フジテレビ系『笑っていいとも』でニューハーフブームの引き金になった「Mr.レディ & Mrタモ金の輪」放送。 12月、ホモセクハラを告発した北小路氏の『光GENJIへ』(データハウス)発刊。 1989年(昭和64年:1月1日 - 1月7日/平成元年:1月8日 - 12月31日)5月13日、東京新宿・花園神社裏のディスコ「ミロス・ガレージ」にて一般向けクラブとしては初の「ゲイナイト」開催(合計106回)。 売り専模様を描いた比留間久夫『YES・YES・YES』が文藝賞受賞。
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