1970年3月のクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 02:12 UTC 版)
「カンボジア内戦」の記事における「1970年3月のクーデター」の解説
詳細は「カンボジア作戦」を参照 シハヌーク国王が中華人民共和国北京を訪問中の1970年3月18日、下院で国家元首としてのシハヌークを退けることが満場一致で可決された。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となり、10月にクメール共和国の樹立を宣言した。一方、シハヌークの従兄弟シリク・マタクは、代理の首相としての彼の地位を保持した。ロン・ノルの首相就任式の際、アメリカ軍は空からシハヌークを批判するビラを撒き、ロン・ノルを援助した。新政府はアメリカを後ろ盾に権力の譲渡の有効性を強調し、アメリカをはじめとする諸外国に認められた。 クーデターの数日後、シハヌークは北京でカンプチア王国民族連合政府を立ち上げ、ロン・ノルへの抵抗を訴えると、それに応えるデモと暴動が国の至る所で生じた。3月29日には約40,000人の農民がシハヌークの復権を要求するデモ行進を行ったが、軍隊と衝突し、多くの死傷者が出た。当時のコンポンチャム州知事によればこの地域だけで2 - 3万人の農民が共産主義の影響を受けていた。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州の州都で同様の蜂起が起こるが武力鎮圧された。 そして、1970年3月29日、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている。 北ベトナム軍の攻勢(X作戦)の結果、開始してカンボジア東部から北東部にかけての大部分を占領し、コンポンチャムなどの都市を包囲または占領していった。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。 北ベトナムの攻勢に対し、ロン・ノルは激しい反北ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われたカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺し、プラソト・ネアクルン・タケオでは強制収容所などでベトナム系住民が集団虐殺された。このため、シハヌーク時代に50万人いた在カンボジアベトナム人のうち20万人もが1970年にベトナムに集団帰還するという事態となった。 以上のような経緯の中で、1970年4月、ロン・ノルは、アメリカ軍のカンボジア侵攻を許可し、北ベトナム勢力を駆逐するために、短期間であるがアメリカが作戦を展開した。投下された爆弾量は第二次世界大戦でアメリカが日本に投下した総量の1.5倍にのぼった。しかし、その後も反ロン・ノル勢力である、北ベトナムに支援された共産主義勢力クメール・ルージュの伸張が続いた。 クーデターをきっかけに起こった内戦で、数十万人の農民が犠牲となり、1970年の春以降、わずか一年半の間に200万人が国内難民と化した。また、農業インフラは徹底的に破壊され、1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。
※この「1970年3月のクーデター」の解説は、「カンボジア内戦」の解説の一部です。
「1970年3月のクーデター」を含む「カンボジア内戦」の記事については、「カンボジア内戦」の概要を参照ください。
- 1970年3月のクーデターのページへのリンク