1960-70年代
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その後初期のアナログ・シンセサイザーの発明(特にモーグ・シンセサイザー)により電子音楽が広く一般化し、クラシック系現代音楽以外にも多くの音楽ジャンルで用いられた。日本では冨田勲がアナログ・シンセサイザーを多く用いた作曲家として有名である。 テープレコーダーが比較的安価になり一般の手にも触れるようになったため、大学や放送局などの研究機関とかかわりのない在野の作曲家たちもテープ音楽の制作に参加できるようになった。スティーヴ・ライヒは、同じ録音で同じ長さのテープループを用い、同時に再生することでわずかな回転数のずれからディレイが生まれ、2つの周期がずれていくことに注目し、「カム・アウト」「イッツ・ゴンナ・レイン」などのテープ作品を生み出した。これがやがてミニマル・ミュージックのアイデアにつながっていく。 イアニス・クセナキスは1972-1977年にかけ、パリのフランス郵政省内のCEMAMu(数理的自動音楽研究センター)で、タブレットボードに線を描いて入力した図形を電子音響処理する装置UPIC(ユーピック)を開発し、湯浅譲二、高橋悠治及び嶋津武仁といった日本の作曲家たちの創造力を大いに刺激した。 1973年にダートマス大で初期のデジタル・シンセサイザーが開発された。1970年代にはマイコンが開発され急速に一般化したが、これを利用し1970年代後半デジタル音楽ワークステーションへと発展した(シンクラビアI/II、フェアライトCMI)。これは、音楽製作に必要な 音響合成/サンプリング/演奏/シーケンスや作曲 といった一連の作業をシームレスにデジタル信号処理する最初の試みであり、後にHDレコーダや作譜ソフトも追加され、現在一般に普及しているDAWシステム(デジタル・オーディオ・ワークステーション)の原型となった。
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1960-70年代
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経済発展=工業化の概念が確立された時期。政府主導型の開発。 国の経済構造の中心が農業から工業へと移ることを目指した。その過程で工業部門で雇用が創出され、労働力が農村から都市へ移り、工業労働人口が増えれば増えるほど、開発が進んだとみなされた。 経済発展の段階:伝統的社会の自給農業(第1次産業)→近代化社会の工業(第2次産業)→サービス(第3次産業) 主流理論:2部門経済発展モデル 伝統的社会と近代化社会、農業と工業、農村と都市といった、2部門の対比構造からなる理論。 経済発展の速度は、投資と貯蓄の割合が多いほど、速まる。
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1960-70年代
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「女流棋士 (将棋)」の記事における「1960-70年代」の解説
1961年 - 蛸島彰子が奨励会に7級で入会し、史上初の女性奨励会員となり、かつ唯一の女性として1966年まで在籍した。 1968年 - 女性のみを対象とした初めての棋戦である女流名人戦(現・女流アマ名人戦)が日本将棋連盟主催で創設。 1974年9月 - 連盟棋士会における満場一致の決議により、女流棋士制度が正式に発足。 1974年10月 - 初の女流プロ公式戦として、報知新聞が主催する女流プロ名人位戦(現・女流名人戦)が創設された(10月31日)。
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1960~70年代
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「ダイレクト・マーケット」の記事における「1960~70年代」の解説
1960年代の後半に興ったアンダーグラウンド・コミックス運動は、60年代中盤に急増したアンダーグラウンド出版と同じく、非主流の取次ネットワークに支えられていた。アンダーグラウンド・コミックスはニューススタンドやドラッグストアの店頭には並ばず、ヘッドショップ(英語版)(大麻文化と関連する商店)を大きな販路とした。この運動の発祥地であったサンフランシスコ近郊のベイエリアでは複数の取次店が出現した。プリント・ミント(英語版)(1969年ごろ)、前節で述べたサンフランシスコ・コミックブック・カンパニー(出版社も兼ねていた。1970年ごろ)、バド・プラント(英語版)(1970年)、ラスト・ガスプ(英語版)(1970年)、キース・グリーン/インダストリアル・リアリティーズ(英語版)(1970年ごろ~)、チャールズ・アバー・ディストリビューションなどである。1970年ごろになると、アンダーグラウンドな取次店がアメリカ各地に現れた。ロサンジェルスにはノヴァがあり、レオナルド・ディカプリオの父ジョージ(英語版)も取次業を行っていた。中西部の取次店としてはドナヒュー・ブラザーズ(アナーバー)、キープ・オン・トラッキン・クープ/ビッグ・ラピッズ・ディストリビューション(デトロイト)、ウィスコンシン・インディペンデント・ニュース・ディストリビューターズ(マディソン)、アイシス・ニュース(ミネアポリス)、ウェルニュース(コロンバス)が挙げられる。1970年代の半ばにはビッグ・ラピッズが競合社を吸収して中西部を統一したが、そのころにはアンダーグラウンド・コミックスの市場は実質的に枯れ切っていた。 現在知られているようなダイレクト・マーケットが生み出されたのは、大手出版社のコミックブックが1970年代の初めにニューススタンドで売上不振に陥った影響である。1972年、コンベンションの主催やコミック売買を手掛けていたフィル・シウリングは、コミック出版社と交渉して、全国的な雑誌取次業者を介さずに出版社から直接仕入れを行い始めた。ニューススタンドなどが所属していた従来の独立系取次ルートでは売れ残りを返品して払い戻し金を積み立てることができたが、シウリングの取次と契約した専門店には買い取ったコミックブックの返品が認められなかった。しかしリスクを背負う代わりに大幅な値引きを受けることができたため、利益は大きかった。 シウリングが創設したシーゲイト・ディストリビューターズは小売店に対し、タイトルごと、号ごとに細かく発注数を決めることを許した。地方の独立系取次でそれができるところは少なかった。返品不可システムの確立にはこのような自由度の高い発注制度が不可欠だった。 ダイレクト取次は概して独立系取次よりはるかに配本が速かった。ダイレクト取次店は印刷所から1週間分の刊行物を受け取ると、一日か二日(時には数時間)のうちに再発送したり、地元の小売店への配本を行うのが一般的だった。それに対し、ほとんどの独立系取次店は同じ作業におおむね2~3週間を費やした(例外はあった)。毎週の新刊を心待ちにしているコミックファンを顧客層とする小売店に対して、この点は大きな誘引力となった。 ダイレクト取次のニーズが生まれたもう一つの要因は、多くの独立系取次店が、バックイシューを取り扱う小売店とはいかなる条件でも取引しなかったことである。取次店が恐れていたのは、そのような小売店が読者から古本を安く買戻し、返本して払い戻しを受けようとすることであった。 1970年代の半ばには、地方に基盤を置くダイレクト・セールス取次店がほかにも複数現れ、当時生まれたばかりだったコミック専門店マーケットからニューススタンド取次をほぼ駆逐した。五大湖地域のドナヒュー・ブラザーズ、南カリフォルニアのパシフィック・コミックス・ディストリビューターズ、南東部のニュー・メディア・ディストリビューション/アージャックスらはいずれも1974初頭までに起業した。シーゲイトは創業後数年にわたって、タイトルごとに25部単位で「ドロップシッピング(印刷所から小売店への直接発送)」を行うサービスで競合他社に先んじていた。後発の取次店は、顧客の注文した商品をまとめて仕入れ、自社店舗から配本するという伝統的な方法しか行っていなかった。しかし法的な脅しが行われたこと で、1970年代末になるとダイレクト取次店すべてでドロップシッピングのサービスが行われるようになった。また小売店側では少部数で発注を行う必要があったため、ドロップシッピングを利用するのは大口顧客のみとなった。このころには後発の取次でも複数の店舗を備えるものが増えていた。 独立系取次店を通したニューススタンドでの販売も廃れたわけではなく、返品可で値引き率の低い条件のままコミックブック流通の主流を占め続けた。
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1960、70年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 10:19 UTC 版)
中国は大躍進政策や文化大革命で国内が疲弊し、台湾を軍事侵攻する能力は無かった。一方の中華民国も大陸反攻をスローガンにするも、1964年に中国が核兵器の開発に成功すると事実上大陸反攻は不可能になり、中華民国は軍事よりも経済などに政策をシフトした。1971年に国連の代表権が中国に移行し、1972年には日中国交回復。1970年代にはオーストラリアやニュージーランドが中国と国交樹立を成し遂げると、中華民国の孤立化がもたらされた。
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