重要な技術革新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:56 UTC 版)
多数の技術革新により、1920年代後半における発声映画の商業化が可能となった。サウンド・オン・フィルム方式とサウンド・オン・ディスク方式の両方で技術革新がなされた。 サウンド・オン・フィルム方式では、1919年、アメリカの発明家リー・ド・フォレストがサウンド・オン・フィルム方式の商業化を可能にするいくつかの特許を取得した。ド・フォレストのシステムでは、サウンドトラックは映画のフィルムの端に焼き付けられている。録音時に映像と音声がしっかり同期していれば、確実に再生時にも同期できる。ド・フォレストはその後4年間、他の発明家セオドア・ケースから関連する特許のライセンスを受け、システムの改良に取り組んだ。 イリノイ大学ではポーランド出身の工学者 Joseph Tykociński-Tykociner も同様の研究を独自に行っていた。1922年6月9日、彼はアメリカ電気学会(AIEE)の会員に対してサウンド・オン・フィルム方式のデモンストレーションを公開した。ローストやTigerstedtと同様、Tykocinerのシステムも商業的に成功することはなかった。ただし、ド・フォレストは間もなく成功を収めることになった。 1923年4月15日、ニューヨーク市のリボリ劇場で世界初のサウンド・オン・フィルム方式の映画が商業上映された。ド・フォレストのフォノフィルムと題して複数の短編映画とサイレントの長編映画を組み合わせた上映だった。同年6月、ド・フォレストはフォノフィルムの重要な特許について従業員 Freeman Harrison Owens との法廷闘争に入った。法廷では最終的にド・フォレストが勝ったが、今日ではOwensが主たる発明者だったと認められている。翌年、ド・フォレストのスタジオはトーキーとして撮影された最初の商用劇映画 Love's Old Sweet Song(2巻、監督 J. Searle Dawley、主演 Una Merkel)を公開した。しかし、フォノフィルム作品の多くはオリジナルのドラマではなく、有名人のドキュメンタリー、流行歌の演奏シーン、喜劇などだった。カルビン・クーリッジ大統領、オペラ歌手の Abbie Mitchell、ボードヴィルのスター Phil Baker、Ben Bernie、エディ・カンター、Oscar Levant といった人々が初期のフォノフィルムの映画に登場していた。ハリウッドは新技術に懐疑的で慎重だった。Photoplay誌の編集者ジェームズ・カークは1924年3月、「ド・フォレスト氏は言う『トーキーは完成した。ひまし油と同じように』と」と書いている。ド・フォレストの方式は1927年までアメリカ国内で十数本の短編映画に使われ続けた。イギリスでは数年長く使われ、British Talking Pictures の子会社である British Sound Film Productions による短編映画と長編映画が作られた。1930年末までにフォノフィルムの商業利用は衰退した。 ヨーロッパでも独自にサウンド・オン・フィルム方式を開発する人々がいた。1919年、ド・フォレストが特許を取得したのと同じ年、3人のドイツ人発明家がトリ=エルゴン音響システムの特許を取得した。1922年9月17日、劇映画 Der Brandstifter を含むトリ=エルゴンのサウンド・オン・フィルム方式の映画がベルリンの Alhambra Kino で招待客に公開された。ヨーロッパではこのトリ=エルゴンが一時主流となった。1923年には2人のデンマーク人技師 Axel Petersen と Arnold Poulsen が映画のフィルムとは別のフィルムに音声を録音し、2本のフィルムを並行させて映写・再生する方式の特許を取得した。これをゴーモンがライセンス取得し、Cinéphone の名前で商業化した。 フォノフィルムが衰退したのはアメリカ国内の競争の激化が原因だった。1925年9月にはド・フォレストとケースの事業はうまく行かなくなってきた。翌年7月、ケースは当時ハリウッドで3番目の大手スタジオだったフォックス・フィルムに加わり、フォックス・ケース社を創設した。ケースは助手の Earl Sponable と共に新たなトーキーシステム「ムービートーン」を開発し、これがハリウッドの大手スタジオが支配する初のトーキーシステムとなった。翌年フォックスは北米でのトリ=エルゴンの権利も買い取ったが、ムービートーンの方が優れていることが判明し、両者を統合することで新たな利点を得ようと考えたものの、統合は事実上不可能だった。1927年にはド・フォレストとの訴訟に敗れた Freeman Owens を雇った。彼はトーキーのカメラ組み立てに特に熟達していたためである。 サウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式と並行して改良が進んだ。蓄音機のターンテーブルを特殊仕様の映写機と相互接続して同期するようになっていた。1921年、Orlando Kellum が開発したフォトキネマシステムは、D・W・グリフィスの失敗に終わった無声映画『夢の街 (en)』に音を同期させるのに使われた。出演者の Ralph Graves がラブソングを歌うシーンが追加で撮影され、同時に録音が行われた。台詞も録音したが、出来が悪かったため、その部分は公開されなかった。1921年5月1日、ラブソング部分を追加した『夢の街』がニューヨークで公開され、撮影と同時に録音した部分を含む世界初の長編映画となった。同様の映画が製作されるのは6年後のことである。 1925年、当時はまだ小さなスタジオだったワーナー・ブラザースは、ニューヨークのヴィタグラフ・スタジオを買い取り、そこでサウンド・オン・ディスク方式の実験を開始した。ワーナーはこれをヴァイタフォンと名付け、3時間近い長編映画『ドン・ファン』に採用し、1926年8月6日に公開した。同期音声を付けた長編映画としては世界初であり、サウンドトラックには音楽と効果音が含まれているが台詞は録音されていない。つまり、本来は無声映画として撮影されたものだった。ただし『ドン・ファン』と同時に8本の短編映画(クラシック演奏など)とMPAA会長 Will H. Hays による4分の紹介映画が上映されており、これらは全て撮影と同時に録音されている。これらがハリウッドによる初の発声映画と言える。ワーナーは同年10月にも『ドン・ファン』と同様の手法で The Better 'Ole という映画を製作し公開している。 サウンド・オン・フィルム方式はサウンド・オン・ディスク方式に対して次のような根本的利点があるため、優勢となっていった。 同期:同期機構には完全な信頼性があるとは言えず、レコード盤で音飛びしたり、フィルムの速度が変化するなどして同期が崩れることがある。そのため、人間が常に監視して調整する必要があった。 編集:レコード盤は直接編集できない。このため、フィルムを編集するとレコード盤に録音された音声と同期しなくなってしまう。 配給:蓄音機のレコード盤は当時はまだ高価で、配給作業も複雑化させた。 摩損:レコード盤を繰り返し再生していると、摩損していく。約20回上映すると新しいレコード盤に交換する必要があった。 それにも関わらず、初期のサウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式に対して次の2点で優っていた。 製作コストと設備投資:フィルムに音を焼き付けるよりもレコード盤に録音する方が一般に安価だった。また、蓄音機のターンテーブルと映写機のインターロック機構の方が、フィルム上のサウンドトラックから音を再生する機構よりも安価だった。 音質:蓄音機を使ったシステム、特にヴァイタフォンは(少なくとも最初の数回の上映では)当時のサウンド・オン・フィルム方式よりもダイナミックレンジが広かった。サウンド・オン・フィルム方式の方が周波数特性が一般に優れているが、同時に歪みと雑音も多かった。 サウンド・オン・フィルム方式が改良されるにつれて、これらの欠点は克服されていった。 3番目の重要な技術革新は、録音と再生の両方を大きく改善した。それは録音と増幅に関する電子工学の進歩である。1922年、AT&Tの製造部門ウェスタン・エレクトリックの研究部門がサウンド・オン・ディスク方式とサウンド・オン・フィルム方式の両方について重点的な研究を開始した。1925年、同社は高感度のコンデンサ・マイクと録音装置を含む大幅に改善された電子音響システムを発表した。同年5月、同社はこれを映画用システムに利用するライセンスを起業家 Walter J. Rich に与えた。彼はヴィタグラフ・スタジオに資金提供しており、その1カ月後にワーナー・ブラザースがその半分の権利を買い取った。1926年4月、ワーナーはAT&Tと映画音響技術に関する独占契約を結び、それが『ドン・ファン』と付随する短編映画製作につながった。この間、ヴァイタフォンだけがAT&Tの特許を独占的に使用でき、ワーナーの発声映画の音質は他社の追随を許さないほど高かった。一方ベル研究所として独立したAT&Tの研究部門は増幅技術を急激に進化させていき、劇場全体にスピーカーで音を響かせることができるシステムを完成させた。その新たな振動コイル型(ダイナミック型)スピーカーシステムがニューヨークのワーナーの劇場に同年7月に設置され、そのシステムに関する特許は『ドン・ファン』公開のわずか2日前の8月4日に出願された。 AT&Tとウェスタン・エレクトリックは同年、映画関連の音響技術の権利を専門に扱う Electrical Research Products Inc. (ERPI) を創設した。ヴァイタフォンはまだ独占的権利を持っていたが、ロイヤリティ支払いが遅れたため、ERPIが実質的な権利を持つことになった。1926年12月31日、ワーナーはフォックス・ケースにウェスタン・エレクトリックのシステムを使用できるサブライセンスを提供し、その代わりにワーナーとERPIがフォックスの関連する収益の一部を受け取る契約を結んだ。3社は関連する特許についてクロスライセンス契約を結んだ。優れた録音/増幅技術はこれによってハリウッドの2つのスタジオで利用可能となった。しかも両スタジオはトーキーの方式が全く異なっていた。この翌年、発声映画が商業的に大きく飛躍することになった。
※この「重要な技術革新」の解説は、「トーキー」の解説の一部です。
「重要な技術革新」を含む「トーキー」の記事については、「トーキー」の概要を参照ください。
- 重要な技術革新のページへのリンク