部数に関する評価
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重光葵、加瀬俊一[要曖昧さ回避]、山本有三、志賀直哉、和辻哲郎、田中耕太郎、谷川徹三、安倍能成、柳宗悦ら同心会から雑誌の刊行の話が持ち上がり、安倍能成の仲介で岩波茂雄に刊行を申し出た。敗戦後、岩波茂雄は心あるインテリ知識を社会に伝えるため、新雑誌の創刊を企画していたため、話はまとまり『世界』は創刊された。吉野によると、『世界』創刊について同心会と岩波書店の解釈が食い違い、「(岩波茂雄は)自分のところから出す雑誌を同心会の方々が世話して」くれると解釈し、同心会は「会の機関誌の発行を岩波書店が引き受けた」と解釈していたという。 オールドリベラリスト(古典的自由主義者)が執筆者の中心だったため、『前衛』の雑誌評では、「保守的なくさみが強い」と評されていた。岩波茂雄は1946年4月25日死去するが、吉野の意向だけでは、雑誌を刷新することは出来ず、『世界』創刊号から同心会による『心』創刊の前年(1947年)末までの『世界』執筆者は、志賀直哉、中谷宇吉郎、武者小路実篤、安倍能成などのオールドリベラリストが含まれている。 『世界』初期の執筆者ランキング(1946年1月〜1947年12月)順位氏名1(6回)大内兵衛 2(5回)志賀直哉・都留重人・中谷宇吉郎 3(4回)安倍能成・清水幾太郎・恒藤恭・武者小路実篤 岩波書店に日本共産党の細胞をつくった日本共産党員の岩波書店社員塙作楽は、同心会は共産主義からほど遠いため、快く感じておらず、同心会の貴族趣味を憎しみ、吉野に再三同心会の排除を進言し、吉野は「(排除に)基本的に賛成する」と同意を取り付けた。吉野は、1948年9月、GHQから岩波書店に配布された文書「戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の社会科学者によってなされた声明」を読み計略を企てる。9月28日、吉野は熱海にいた清水幾太郎に文書を見せ、「日本の学者たちが、このユネスコの声明に応えて、戦争および平和の諸問題を研究し、共同声明を発表することが可能だろうか」と相談し、大阪にいた久野収にも相談し、賛同を取り付けた。そして、ユネスコの会(後の平和問題談話会)が創立され、1948年12月12日「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」(『世界』1949年3月号)を発表、「平和の危機はどこにあるか」(『世界』1949年4月号)、「座談会 平和のための教育」(『世界』1949年7月号)等々平和問題談話会関連の特集と論文で『世界』が占められる。同心会は、初期には平和問題談話会に顔を出し、『世界』を舞台にした声明にも参加、しかし徐々にフェードアウト、1950年1月15日「講和問題についての平和問題談話会声明」では、田中耕太郎、仁科芳雄、津田左右吉、鈴木大拙の署名が抜け、竹山道雄は1946年8月号、田中耕太郎は1950年4月号、武者小路実篤は1953年11月号、柳宗悦は1954年5月号、木村健康は1954年10月号、田中美知太郎は1955年11月号、林健太郎は1956年7月号が最後となり、以後吉野路線を明確化、今日の進歩的文化人の牙城となっていく。 『日本読書新聞』1946年8月21日の日本出版協会による雑誌世論調査の2062通の回答結果は、「読んでいる雑誌」「読みたい雑誌」「読ませたい雑誌」のすべてで『世界』は1位。「今年になって一番感心した雑誌の月と号(1月号から6月号)」上位6冊中に『世界』は4冊(①4月号、②1月号、③3月号、⑤5月号)がランクしており、『世界』1946年9月号「編集後記」に吉野は以下記している。 この夏全国の小売書店の註文を配給会社で集計した結果によると、この雑誌に対する註文は二十八万部にのぼるさうである。現在の発行部数は八万であるから、(中略)供給は結局需要の三分の一をも満たすことができず、依然として多数の読者は満足されないで残るわけである。発行部数を増加するほかに手はないのであるがこれ以上発行部数を増すことは用紙量の関係で到底不可能であるばかりか、実は、現在の部数を維持することすら、私たちとしては自信があるとはいへないのである。この点はくれぐれも御諒解いただきたいと思ふ。 一方竹内洋によると、『世界』は、1948年から数年間で創刊時の勢力が衰退したという証言がいくつもある。 (1949年、1950年)そのころの世界の発行部数は、ひどく低下したように思うが、それでも編集方針をゆるめなかった態度は天晴れであった。 — 青地晨、「雑誌・この十年」『図書新聞』1954年7月10日 (雑誌が標榜する平和論議が)売れゆきに多大の支障となっている……読者の減少を招来しつつある実情明白なる」 — 『毎日情報』1951年1月号 (1951年ころの『世界』は)三万部で若干あまっていた — 元『世界』編集長緑川亨、「平和問題談話会とその後」『世界』1985年7月臨時増刊号 (講和条約のころ)あのとき『世界』は三万部に落ちこんでいたんです — 塙作楽、「岩波書店時代」『地方文化論への試み』 竹内は、『世界』1951年10月号の「講和問題特集号」が公称15万部なのは、「当時の『世界』の売れ行きにおいて例外的な現象」としている。社会党系の労働組合が大量購入、組合員に配布したこと、購読者のかなりは、大事件であった講和問題に関心があり、平和問題懇話会の全面講和に賛同していたわけではなく、「講和問題特集号」は、単独講和をアメリカ軍による占領の継続よりも優ると評する小泉信三、平和を脅かす本源はソ連とする津田左右吉、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」とする田中美知太郎の意見も掲載、「講和問題特集号」(10月号の後、11月号が出る前の臨時増刊号)は、『中央公論』の発売よりひと月早く、講和条約が9月8日に締結、発売日を繰り上げ9月1日(通常10日)に発行したことも売り上げに貢献した。 1946年の発行部数が8万部で、さらに需要に追い付いていないのに、発行部数3万部でも余っており、毎日新聞社『全国読書世論調査』では、創刊3年目までは『世界』が『中央公論』以上に読まれていたが、創刊4年目からは『中央公論』が『世界』以上に読まれるようになり、「いつも読む」で『世界』は、1949年から数年間20位台で、1952年にランク外、「買って読む」で『世界』は、1949年にランク外、その後数年は20位台であり、1948年から数年間にわたり、ランクを下降させている。「右翼、左翼をぬきにして割合落ち着いたアカデミズムに寄せられている」とあり、読者は、吉野が嫌った同心会の文化主義を『世界』に求めていたのに、『世界』が平和問題談話会によって政治化、平和問題談話会声明などにより『世界』の論調を「左寄り」にしたことから、既存の読者が『世界』から離反、『世界』は創刊時の愛読者と購読者を激減させた。このように『世界』が進歩的文化人の牙城、左翼の牙城となるのは創刊時からではなく、創刊から数年後、平和問題談話会を立ち上げ、吉野の意向が編集に反映され、『世界』が吉野・平和問題談話会路線を取るようになってからであり、『世界』が吉野・平和問題談話会路線を取り、吉野の意向を紙面に反映させ左翼的論調を取るようになり、購読者を大いに減らすようになった。 1960年代から『世界』の読者数の「長期低落傾向」が起こり、1970年に「掛け値なしで最高7万部」の新左翼ラジカリズム雑誌『現代の眼』や反体制雑誌『情況』(1968年8月号創刊)、同じく反体制雑誌『流動』(1969年12月号創刊)が全共闘運動の勢いに駆って実売3万部となり、『世界』の実売数と同程度か上回る場合もあり、『世界』は影が薄くなる。毎日新聞社『全国読書世論調査』では、「買って読む雑誌」「いつも読む雑誌」では、『世界』は1974年「買って読む月刊雑誌」においてランク外となり、1976年「いつも読む月刊雑誌」において50位、1978年にはランク外となるが、『中央公論』は「買って読む雑誌」「いつも読む雑誌」でも1960年代半ばでもさほど順位を下げておらず、『中央公論』が「いつも読む雑誌」のランク外となるのは、1985年になってからであり、それと関連して『世界』30周年記念号における『世界』の編集委員と初代編集長吉野源三郎との座談会で、吉野が編集長を退任後の1967年もしくは1968年頃に「岩波文化人の歴史学者」から『世界』の廃刊の検討が出ている。 70年(昭和45年)までで『世界』は廃刊にしたらどうか、そうすれば戦後の一定の役割を果たして幕を下ろすことになるのではないか — 「座談会 戦後の三十年と『世界』の三十年」『世界』1976年1月号 1980年代末〜1990年代初頭のソ連・東欧諸国の共産主義の崩壊によりいよいよ低迷するようになったという見解があり、ソ連崩壊・冷戦終結は「共産圏国家に肩入れしてきた『岩波ブランド』をいよいよ色あせたものにした」結果、『世界』を取り扱っている「書店が都内にいくつあるのか。読者もお気づきと思うが、見なくなった。販売部数の低下はいかんともしがたいようだ」と報じられたことがある。
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