解釈と遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 17:10 UTC 版)
不快な真実を正面に見据えた『メデューズ号の筏』は、フランス絵画におけるロマン主義の台頭を示し、当時主流だった新古典主義に対し「美的革命の土台を作った」。ジェリコーの構成や人物描写は古典的な手法だったが、主題の違いに芸術的方向の大きな変化が現れており、新古典主義とロマン主義との過渡期にあることがよく分かる作品となっている。ダヴィッドは1815年までは、歴史絵画を主導する1人であり、新古典主義の大家でもあったが、その後ブリュッセルに亡命することになった。フランスでは、歴史絵画も新古典様式も、グロ、アングル、フランソワ・ジェラール、ジロデ、またジェリコーやドラクロワの師ゲランといった画家の作品に引き継がれ、ダヴィッドやニコラ・プッサンの芸術的伝統を守り続けていた。 ヒューバート・ウェリントンは『ドラクロアの日記 The Journal of Eugene Delacroix 』序論で、1819年のサロン直前のフランス画界の様相に対する、ドラクロワの見解について書いている。ウェリントンによれば、「古典主義と写実主義的見解とが奇妙に入り混じり、ダヴィッドの影響に縛られて、今や活気も関心も失っていた。師自身、終わりが近く、ベルギーに亡命した。彼の生徒の内最も穏健なジロデは、洗練された古典様式で、見事に端正な絵を制作していた。ジェラールは、皇帝の庇護を受け、肖像画家として非常に成功した。いくつかの作品は賞賛に値する。彼は、歴史絵画の大作が流行した際には、不本意ながらその流れに同調した。」という。 『メデューズ号の筏』には、伝統的歴史絵画の表現や大きさがある。しかし絵を見た一般の人々は、英雄にではなく、展開する人間ドラマに反応した。ジェリコーの『筏』の絵には、特定の英雄は登場せず、生き残った理由が提示されるわけでもない。作品は、クリスチャン・ライディングの言葉を借りれば、「希望の虚しさと無意味な苦しみ、そして最悪なことに、生き残ろうとする人間の本能が、道徳的に大切な問題にとってかわり、文明人が野蛮行為に没頭する」姿を示した。 救助船に向かって手を振っている中心人物の、見事な筋肉組織が新古典主義様式を連想させるが、光と影の自然な雰囲気、生存者たちが見せた絶望の表情のリアルさ、構図に現れた感情的特徴は、新古典主義のものとは明確に異なっている。初期の作品の、宗教的あるいは古典的テーマから離れて、現代の出来事を主題に、一般的で英雄的でない人物像を表しているのである。主題の選択も、ドラマティックな瞬間を切り取る手法もロマン主義に特有のものであり、ジェリコーが、ありふれた新古典主義運動から方向転換しつつあるという、はっきりした徴候だといえる。 ヒューバート・ウェリントンがいうには、ドラクロワは生涯グロを崇拝した一方で、青年期はジェリコーに傾倒していたという。コントラストの強いトーン、型破りな表現から生まれるジェリコーのドラマティックな構成は、ドラクロワを刺激し、自身の創造的衝動を信じて大作への創作意欲を掻き立てた。ドラクロワは、「ジェリコーは、まだ制作途中の『メデューズ号の筏』を見せてくれた。その影響は、ドラクロワの『:File:Delacroix barque of dante 1822 louvre 189cmx246cm 950px.jpg|ダンテの小舟』(1822年)や、『ドン・ジュアンの遭難』(1840年)といった、のちの作品のインスピレーションにも表れている。 ウェリントンによれば、1830年作のドラクロワの傑作『民衆を導く自由の女神』には、ジェリコーの『メデューズ号の筏』とドラクロワ自身の『キオス島の虐殺』に直接通じる点があるという。ウェリントンは「ジェリコーが事実の詳細に関心を持ち遭難経験者をさらに探し出してモデルとしたのに対し、全体的にドラクロワは構成をよりはっきりと組み立てて、人物や群衆を類型としてとらえ、共和制の自由を象徴する人物像マリアンヌに導かれる構図にした。マリアンヌは、ドラクロワによる創造の中でも最も優れたものとなった。」と書いている。 芸術歴史家のアルバート・エルセンは、ロダンによる彫刻の傑作『地獄の門』の発想源は、『メデューズ号の筏』とドラクロワの『キオス島の虐殺』だと考えている。「ドラクロワの『キオス島の虐殺』とジェリコーの『メデューズ号の筏』は、政治的悲劇における罪のない無名の犠牲者を、英雄的な基準でロダンに突き付けた…もしロダンをミケランジェロの『最後の審判』に対抗させたなら、彼は自分の前にジェリコーの『メデューズ号の筏』を置いて、自らを鼓舞しただろう。」と彼は書いている。 ギュスターヴ・クールベ(1819–1877)は反ロマン主義の画家と評されるが、有名な『オルナンの埋葬』(1849–50)や『画家のアトリエ』(1855)は『メデューズ号の筏』によるところが大きい。その影響は、クールベ作品の巨大さだけでなく、一般市民や現代の政治的事件を描いて、日常生活の中の人々、場所、出来事の実際を写し取ろうとする思考面にも現れている。2004年のクラーク芸術研究所の「こんにちわ、ムッシュー・クールベ 〜モンペリエのファーブル美術館のブリュイヤス・コレクションより」と題された展示で、19世紀の写実主義の画家クールベ、ドーミエ(1808–1879)、初期のマネ(1832–1883)と、ジェリコーやドラクロワなどロマン派の画家との比較が試みられた。ロマン主義の影響が見られる作品には『メデューズ号の筏』を引き合いに出し、この展覧会では全ての芸術家の作品の違いを展示した。批評家のマイケル・フライドは、マネの『キリストの墓にいる天使』の構成は、息子を抱きかかえた人物像からヒントを得たものだと考えている。 『メデューズ号の筏』は、フランス以外の国の画家にも影響を及ぼしている。アイルランド生まれの英国の画家フランシス・ダンビーが1824年に描いた『嵐の後の海に沈む夕日』は、おそらくジェリコーの絵に触発されたものであり、1829年には『メデューズ号の筏』は「これまで見た中で、最も優れて偉大な歴史絵画である」と書き残している。 他の多くの英国の画家同様、ターナー(1775–1851)は、おそらく1820年のロンドンでの展示でジェリコーの絵を観て、海難というテーマに取り組み始めた。ターナーは、同様の事件を年代順に記録したが、『海難』(1835年)では英国の大災害を、前景に浸水船と死にゆく人々を配置して描いた。ターナーも、ドラマの中心に非白人の人物像を配置し、『奴隷船』(1840年)で同様に奴隷制度廃止運動を暗示した。 『湾流』(1899年)は、アメリカ人画家ウィンスロー・ホーマー(1836–1910年)の作品で、『メデューズ号の筏』の構成に類似しており、壊れかけた船、不気味に群れる鮫、差し迫る竜巻が描かれている。ホーマーは、ジェリコーと同じく場面の中心に黒人男性を配置したが、ここでは船に乗っているのは彼ひとりである。遠くに見える船は、ジェリコーの絵のアルゴス号の反映であろう。ロマン主義から写実主義への移行が、ホーマーの人物像が禁欲的に忍従する姿から読み取れる。初期の作品では、人物は希望や絶望を表現していたかもしれないが、この作品では「怒って黙り込む」姿に変わっている。 90年代初めには、彫刻家のジョン・コネルが画家のユージン・ニューマンと共同で取り組んだ『筏プロジェクト』で、『メデューズ号の筏』を再現した。大きな木の筏に、木、紙、タールを配置して、実物大の彫刻を作り上げた。 前景の瀕死の人物像と、中央部で近づいてくる救援船に向かって手を振る人物像との対比について、フランス芸術歴史家のジョルジュ=アントワーヌ・ボライアスは、ジェリコーの絵が表現しているのは「片方の手には、孤独と死。もう片方には希望と人生。」。 ケネス・クラークは、『メデューズ号の筏』は「裸体を通して表現されるロマン主義のパトスの代表的な例であり続ける。死の強迫観念のため、ジェリコーはいくつもの死体安置所や公開処刑所に通い詰め、その結果、瀕死の人物や死者の描写に真実味が生まれた。 彼らは大まかには古典に分類されるかもしれないが、厳しい経験への渇望と共に再び見直されている。 今日、パリのペール・ラシェーズ墓地にあるジェリコーの墓には、アントワーヌ・エテクス作の『メデューズ号の筏』のブロンズ製レリーフが飾られている。
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