自身の発言における人物像
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「鈴木早智子」の記事における「自身の発言における人物像」の解説
若年時の飽き性とその後 幼少期の回想や、若年時に行なっている述懐においては、鈴木は自らを「飽き性」とする。 彼女が41歳の時、2010年11月に上梓した自叙伝『負けじ魂』では、小学2年生の時に歌手に憧れた際は、「私は自分の性格が飽きっぽいということも分かっていました。」「2~3年待ってみて、それでも飽きなかったら本物」 と、自身の飽き性な性格故に、慎重な態度を示したとする回想を行なっている。2006年3月、37歳の時の、吉田豪によるインタビューでは、「鈴木さんは昔から歌手志望だったみたいですね。」という吉田の言を受けて、「いろいろ興味はあったけど、歌手以外は飽き性でしたね(笑)。」と語った。 また、「飽き性」ということに関しては、21歳の時、1990年4月に出版されたWinkの特集書『Twinkle Angels』における、「英会話はずっとしてみたいと思ってるけど、私って飽き性だから(笑)、ただ軽い気持ちで「やろうかな」なんて始めたりしても中途半端になるだけだと思うの。」という発言もある。なお、英会話を実際に学んだのは、1994年、25歳の時に、ニューヨークでレッスンを受ける時期 と、1998年、29歳の時に、同地での『ASAYAN』の収録期間中において、「英語辞書を持ち歩いて話すようにしたり」していた時期であるが、後者の時期には「英語もわからない自分がどこまでできるか。」と思案していたことも述べており、英会話の習得は出来ていなかったように語っている。 自らの若年期以前に関する発言が上記の如くであるのに対し、成人となった頃以降に関して、壮年期における次のような発言がある。2003年、鈴木が34歳の時、20歳頃から好んでいたしゃぶしゃぶや、当時、止められなくなって1年程度経っていた携帯電話の麻雀ゲームを例にした、「一つのことがずっと好きではまると長いんですよ。」とするものである。 鈴木の壮年期の趣味には、「趣味・愛好」の小節で後述する如く、バス釣りのように、30歳前後に2年ほどで終わったものもある一方、ボウリングのように、10代の終わり頃以来、長く続いたものもある。 凝り性、こだわりのある気質 鈴木は自身を「凝り性」ともしている。 『負けじ魂』では、Wink時代の給与の使途について、「凝り性なのでもしジュエリーに興味があったら大変だったと思います。」と語る。 凝り性の具体例としては、『Twinkle Angels』では、「中学の時、すごくケーキに凝ったことがあって」、「いろんな所で食べつくし」、「おいしい店にはとってもくわしかった。」 と述べている。 凝り性と関わるが、少女時代においては、1年程度で嗜好が変わる場合があっても、その嗜好が継続している期間は、「こだわり」を持っている言説が見られる。服装の色に関して、1988年、19歳の時の鈴木による以下の発言がある。「昔はヘンなこだわりがあったの。中1の時は、とにかく黒しか着なかった。黒って大人っぽいって。で“黒以外に着ちゃいけない”って自分で思いこんじゃって。1年経ってやっと白も着るようになって、中3になったら、急にピンクが好きになって。高校生になったら、なんとオレンジとか着て。そういう時期ってないですか、蛍光色が好きになるっていう……。最近、やっと、いろんな色を着てみたいと思うようになって。だって、このまま死んじゃうのイヤだし、いろんな服を着てから死にたいし」 少女時代における目標達成のための極端さ 先述のこだわりのある気質と関わるが、以下のように、少女時代における鈴木は、歌手になるため「やれるとこまでやる」という「目標」達成のため、自身をして「極端」と言わしめる人生選択をしている。 2006年の吉田豪によるインタビューでは、高校に入学した1984年に、「高校が芸能活動禁止だと聞くなりすぐ休学届を出しちゃうとか、ホントに極端な性格というか。」という吉田の言を受けて、鈴木は、「すごい極端です! ドラマの衣装合わせをサボッちゃったこともありますよ。バレー部員の役で、髪を切らなくちゃいけなくて、それがショックで。もちろんいけないことなのはわかってたので、すぐ事務所に「ご迷惑をおかけしたので辞めさせていただきます」って言って。」と答えた。この、芸能事務所の退所について、鈴木は後に、「歌手の仕事ではないので未練がなかったのでしょう。」と、当時の自身の気持ちを推し量っている。吉田のインタビューに戻ると、この退所後に高校を退学したことについて、鈴木は、歌手になるため「やれるとこまでやるのが目標だった」ため「あえて追い込みたかったんですよ。」と語った。この目標が達成されるのは、彼女がアップライトミュージックに所属して1年ほど経った1988年、Wink結成が未だ決定していない時期に、歌手デビューの見通しもなく下積みが続く中で引退を決意した時であり、「ホントに自分でやれるところまでやってダメだったから、悔いはなかったんですよ。」と述べている。なお、引退決意から間もなくWink結成が決るため、引退は実行はされていない。 処世における不器用さ 鈴木には、その処世において自身が「不器用なイメージが強」いとされた際に、これを否定せず、そのような自己のあり方を肯定的に捉える発言がある。 それは、2010年、41歳の時に、吉田豪が行なったインタビューで、吉田による、鈴木が「ホントに損な性格というか、不器用なイメージが強くて。」という発言を受け、彼女が、「まあ、器用よりはいいですけどね。Wink時代から人生これできたので、急に器用になって、急にうまく世の中を渡れるような自分になれるわけでもないし。いままできた自分のまま、これからもいきたいなって。」と語っているものである。 鈴木は単純に自己肯定をしてはおらず、吉田が、「うまくやれる人が羨ましくないですか?」と問うと、「そりゃ羨ましいですよ! でも、なれるわけじゃないので。それはそれで人それぞれの人生があるし生きかたがあるので。その人にはその人の悩みがまたあるかもしれないし。だから、ないものねだりですよね。」と答えてもいる。 鈴木の「不器用」さとは、具体的には以下のようなものである。 様々な要因で悩みをストレートに伝えられないこと 前記した吉田の「不器用」という発言は、以下の対話を受けてものである。鈴木が、1998年、29歳の時における『ASAYAN』の「やらせ」について暫く公表しなかった件に関し、リアルタイムでの「暴露」をしたくない考えを持っていたことや、事態に対する諦念があったこと、心の傷が大きかったこと、弁明をしても人間的成長ができないと考えていたこと、そして、テレビ局側へ「迷惑」がかからないよう考慮していたことなど、様々な要因によっている旨を語っているものである。 ――本を読んで思ったのは、鈴木さんは『ASAYAN』出演時にもやらせで悪役にされて10年以上経たないと番組名も口に出来ないぐらいのトラウマを抱えたわけですけど、つまり本当に悩んでいるときにそれをストレートに伝えられない人じゃないですか。 鈴木 そうですね。たとえば『ASAYAN』にしても、そのとき言ってしまったら、やっぱり暴露になっちゃうじゃないですか。 ――でも、そのときに説明しておかないと、そのまま信じられちゃうと思うんですよね。 鈴木 だけど、やっぱり耐えなきゃいけない時期ってあるんですよ。そのときにどんなに真実を伝えたくて言っても、特に『ASAYAN』の場合はあれだけ強く叩かれてしまった中で、それに対して一生懸命反論してもそのときはもうしょうがないじゃないですか。受けてる傷も大きいですし、そのときは。 ――とりあえず、傷が癒されるのを待つ、と。 鈴木 そうですね。そのときは、それでも人生経験として良い方向に持っていきたい思いが強かったですし、愚痴っぽくそれをガーガー言ってたら自分が成長できないので。やっぱり、いつか真実を言えるときがきたら言おうと。結局12年ぐらい経ちましたけど。やっといまなら言えるんです。もう時効だし、局側にも迷惑かからないだろうしって。 覆りそうにない不本意な事態に対する不抵抗 上記と関わるが、鈴木は、不本意な事態があっても、それが覆えらないと判断した場合、抗議や、その事態に至った理由の追究等を諦める旨を語る。 『負けじ魂』では、前記『ASAYAN』の一件について、番組収録中にはスタッフに再三抗議したが、収録終了後には番組側などに抗議しなかったことに関し、「番組や事務所に対して文句を言うこともできました。でも、文句を言ったからといって、番組が放送された事実は消えません。仮に抗議をしたところで、番組が「あれはやらせだった」と言ってくれるわけがありません。」と述べている。 そして、同書には、1996年、27歳の時に、所属事務所の社長からWinkの活動停止を告げられた際、「なぜですか?」「何度、こう聞こうと思ったことでしょう。」としつつ、「覆ることはないのだから」「こう思うと、聞く気になれなかったのです。」として、活動停止の理由を質さなかった旨の記述がある。 不利な状況の回避に優先される信念の貫徹 こうした「不器用」さや、先述のこだわりのある気質とも関わるが、『負けじ魂』に、鈴木には引き受けた仕事を放棄しないというべき信念があり、自身の不利な状況を回避することよりも、その信念を枉げずに貫徹することを優先させる旨が記されている。具体的には以下の通りである。 前記『ASAYAN』収録中に、事前に説明が無かった「鈴木早智子叩き」の番組構成がなされていることに気づいた際、「ここで話をひっくり返して番組を降りることも考えましたが、いったん引き受けた以上、降板するのは負けだと思いました。」として、この仕事を継続したことを語る。 また、2009年、40歳の時、DVD『September Shock』の撮影において、もとはドラマの一部に短いヌードシーンがあるだけだったはずが、急遽ほぼ全編性交シーンを撮ることを何時間も迫られた際、「ここで全部をひっくり返すこともできます。でも、やめれば契約違反で違約金も発生してしまう。一度引き受けた仕事から逃げ出すことが許せない私は、ここで歯を食いしばって頑張るしかない、と覚悟を決めました。」として、話を呑んだ旨を述べている。 饒舌 『負けじ魂』では、Winkが「無表情」とされたことについて、緊張でうまく話すことが出来なかったとしつつ、「私は本来、よくしゃべる人です。それは翔子も同じ。」と述べている。 なお、このような饒舌さという点に関して、この鈴木の自意識と一致した言及が他者からなされることもある。『Twinkle Angels』で、「WINKの楽屋は、メチャクチャにぎやか。サッチンの「キャー、どーしよー!」という奇声や、翔子の「たいへん、たいへん」から始まるオシャベリがイッパイ。」とされている例を始め、後年の、2010年前後の鈴木の各インタビューにおいて、彼女を「饒舌」としている例 などもある。 目立つことや華やかなものへの苦手意識 『負けじ魂』では、「今でもそうですが、私は目立つことが好きではありません。小学生の頃は、人前で歌うと体が震えてしまいました。この性格に、ずっと悩んでいたのです。」としつつ、歌う際に人前で震えることに限って、小学生の時に克服したことを述べている。 2006年の吉田豪によるインタビューでは、「華やかなものが苦手ですし、人前に立つことも苦手だし。」と語っており、自身が目立つことのみならず、「華やかなものが苦手」であるともしている。 容姿に関する不満 1990年4月の『Twinkle Angels』で鈴木が一問一答に答え、「Complex――考えたことない」と述べたことがあるが、自身の容姿に関する不満を語ることがあった。 やはり『Twinkle Angels』で、「私、鏡見るのあんまり好きじゃないの。昔から自分の顔とか見るの、大きらいで必要なとき以外、ぜったいに見なかった。今でもそう。」と述べたが、翌1991年初頭に、「私、自分の顔って好きじゃないの。で、手鏡しか使わないの。」という発言もあったように、鏡を見ることを嫌うのは、自身の顔立ちを好まないことによっていた。その後、2006年や2010年の吉田豪によるインタビュー時点でも、鏡を見ることは好まないとしているが、鈴木はその理由を述べておらず、自身の顔立ちを好まないという心情が経年変化していたか否かは不分明である。 自らの容姿に関する鈴木のその他の言及は、以下の通りである。 1989年初頭、20歳を目前にした時点では、「なんでこんなに童顔なんだろうって思っちゃうんです。」「私は17歳位にみえるから、なんだ子供かって思われるでしょ。それが凄くイヤで。」と語っている。ただし、同時期には、「自分の顔の中で」どこが好きかという問いへの返答として、「顔は大きらいだけど、あえて言うと目かナ?」という発言もある。 『負けじ魂』では、1984年、15歳の時の回想の中で、「私は癖毛ということもあり、昔から髪型を気にするタイプ。」と語っており、自身の髪質について気にかけていたことを述べた。 顔や髪質以外では、20歳の時、1989年6月1日放送の『ザ・ベストテン』(TBS系)において、「自分の体の中で一番好きなところはどこですか?」という問いに、「嫌いなところはあるけど、好きなところはあんまりない。」「嫌いなところは脚とかね。なんか、太ももとか。」と答えている。
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