自身の映画会社の立ち上げ
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「早川雪洲」の記事における「自身の映画会社の立ち上げ」の解説
1917年の冬頃、雪洲はシカゴ大学時代からの友人のキャナリーに誘われて、彼の父親や実業家のドーバンたちとディナーを共にし、その翌日にキャナリーから「父が100万ドルを出すから、自分の映画会社を立ち上げてみないか」と提案された。キャナリーの父親は石炭鉱山を経営する富豪で、スターとして活躍していた雪洲に目を付けていた。ディナーはキャナリーたちが雪洲の人間性を確かめるために設けたものであり、人を見る目がよいドーバンが「雪洲は人をごまかすようなこともないし、大丈夫、仕事を忠実にやるだろう」と太鼓判を押したという。雪洲は友人から意見を聞いたり、採算や将来性などの点で調査をしてみたりしたが、ちょうどその頃に新しくできた映画配給会社ロバートソン・コール社(英語版)が作品配給の全面協力を申し出てくれたこともあり、自身の映画会社設立への決意を固めた。 1918年4月に雪洲とフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーの契約が切れ、4月中旬に自身の映画会社「ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション(英語版)」を設立した。スタジオは旧トライアングル社のD・W・グリフィスの撮影所を買い取って改築し、300人以上の従業員を抱えた。雪洲は主演とプロデューサーを務め、場合によっては脚本や編集も兼ね、睡眠時間を削ってまで死に物狂いで働いた。ハワース・ピクチャーズで製作兼主演した作品は計22本で、1本あたりの予算は15万ドルだった。作品の半数以上はウィリアム・ワーシントンやコリン・キャンベルが監督したが、雪洲は彼らに注文を付けたりして監督業にまで関与した。 映画研究者の宮尾大輔によると、雪洲が自身の映画会社を設立した本質的な理由は、それまで映画スターの地位を保つためとはいえ誤った日本人のイメージを与えられ続け、日本人から非難を受けることに不満があったからだったという。実際に雪洲は、1916年に『フォトプレイ(英語版)』誌のインタビューで、「(『タイフーン』や『チート』での役柄は)我々日本人の性格に忠実ではない。それらは人々に日本人について誤ったイメージを与えている。私は本当の我々を明らかにする映画をつくりたい」と発言している。宮尾は、「スターの地位を維持することと愛国的感情との間で苦悩した早川は、自社を設立することでその解決を図る第一歩を踏み出した」と述べている。 雪洲がハワース・ピクチャーズ時代の作品で演じた役柄は、ラスキー社時代のような魅力的な悪役ではなく、良心的で人情のある献身的な善人というものであり、最初の数本ではすべて日本人役しか演じず、役名も従来の「トコラモ」「ヒシュル・トリ」などの不自然な名前ではなく、「アキラ」「ユキオ」などの正確な名前にした。宮尾によると、これらは雪洲がスターの地位を作り上げるために与えられてきた従来のイメージを捨て、正確な日本人の性格を表現しようと努めたことを示しているという。同社での代表作『蛟龍を描く人(英語版)』(1919年)は、鳥海美朗曰く「本当の日本をアメリカに示したい」という雪洲の意気込みが凝縮された作品である。この作品はアーネスト・フェノロサ夫人のメアリー・M・フェノロサ(英語版)の長編小説が原作で、雪洲は狩野派絵師の後を継ぐ天才画家を演じた。映画史研究者の板倉史明は、雪洲がこの作品で「日本や日本文化に対する奇想天外な誤解や偏見を軽減できると期待した」と考え、「自己犠牲的な行為」や「儒教的な人物造形」で日系人観客を満足させつつ、「アメリカ人観客の異国趣味を満足させる」ような商品価値を兼ね備えていたと分析している。 こうした雪洲の試みは実を結び、献身的な日本人を演じた『薄暗の寺(英語版)』(1918年)は『キネマ旬報』で「我々同胞から失はれた雪洲氏の名誉と信用を挽回する為には絶好な映画」と評されるなど、日本本国や日系人社会から好意的な反応を受けた。しかし、アメリカ人には受け入れられず、『ムービング・ピクチャー・ワールド(英語版)』誌の『薄暗の寺』評では、より寡黙で神秘的で冷酷無情な雪洲の方が好きだと言われた。やがて雪洲は会社を経営する以上、興行収入を上げなればならないこともあり、役柄がラスキー社時代のそれに戻っていき、日本人以外の非白人を演じる機会も再び増えた。宮尾は、雪洲主演映画による利益を見込むロバートソン・コール社の要求、自分たちが抱くイメージに忠実な役柄を望むアメリカ人観客の欲望、アメリカ社会に浸透していた日本人に対する固定観念、スターの地位を維持したい雪洲自身の野心により、雪洲の「愛国的な思いは犠牲にされ、映画スター早川雪洲の一定のイメージ作りが再開された」と述べている。 1918年、雪洲は鶴子とともに当時流行していたスペインかぜに感染し、数日間寝込んだが、この時に母親のか祢もスペインかぜに感染し、11月17日に73歳で亡くなった。この頃からハリウッドの日本人俳優が相次いで日本へ帰国するようになり、雪洲は日本人活動写真俳優組合の理事長として、組合主催で壮行会を開くなどして彼らを見送った。1920年には日本で新たに設立された松竹キネマの関係者がハリウッド視察に訪れ、雪洲に「松竹で輸出映画を作ってくれないか」とオファーしたが、多忙な日々を送る雪洲は断った。1920年もハワース・ピクチャーズは好調に回転し、雪洲は足かけ3年も不眠不休で働いたおかげで、キャナリーに会社設立時の出資金100万ドルに利息100万ドルを足して、2倍の200万ドルにして返済することができ、それを機に社名を「ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー」に改名した。同年9月には日米親善や在米日本人のアメリカ化などに尽くすために「一百会」を設立し、自ら会長に就いた。
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