自身の映画会社の立ち上げとは? わかりやすく解説

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自身の映画会社の立ち上げ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:35 UTC 版)

早川雪洲」の記事における「自身の映画会社の立ち上げ」の解説

1917年の冬頃、洲はシカゴ大学時代からの友人キャナリー誘われて彼の父親実業家のドーバンたちとディナーを共にし、その翌日キャナリーから「父が100万ドルを出すから、自分映画会社立ち上げてみないか」と提案された。キャナリー父親石炭鉱山経営する富豪で、スターとして活躍していた洲に目を付けていた。ディナーキャナリーたちが洲の人間性確かめるために設けたものであり、人を見る目がよいドーバンが「洲は人をごまかすようなこともないし、大丈夫、仕事忠実にやるだろう」と太鼓判押したという。洲は友人から意見聞いたり、採算将来性などの点で調査をしてみたりしたが、ちょうどその頃新しくできた映画配給会社ロバートソン・コール社(英語版)が作品配給全面協力申し出てくれたこともあり、自身映画会社設立への決意固めた1918年4月洲とフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー契約が切れ、4月中旬自身映画会社「ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション(英語版)」を設立したスタジオは旧トライアングル社のD・W・グリフィス撮影所買い取って改築し300人以上の従業員抱えた洲は主演プロデューサー務め場合によっては脚本編集兼ね睡眠時間削ってまで死に物狂い働いた。ハワース・ピクチャーズで製作兼主演した作品は計22本で、1本あたりの予算15ドルだった。作品半数以上はウィリアム・ワーシントンやコリン・キャンベル監督したが、洲は彼らに注文付けたりして監督業にまで関与した映画研究者の宮尾大輔によると、洲が自身映画会社設立した本質的な理由は、それまで映画スター地位を保つためとはいえ誤った日本人イメージ与えられ続け日本人から非難を受けることに不満があったからだったという。実際に洲は、1916年に『フォトプレイ英語版)』誌のインタビューで、「(『タイフーン』や『チート』での役柄は)我々日本人の性格に忠実ではない。それらは人々日本人について誤ったイメージ与えている。私は本当の我々を明らかにする映画つくりたい」と発言している。宮尾は、「スター地位維持することと愛国的感情との間で苦悩し早川は、自社設立することでその解決を図る第一歩踏み出した」と述べている。 洲がハワース・ピクチャーズ時代作品演じた役柄は、ラスキー時代のような魅力的な悪役ではなく良心的人情のある献身的な善人というものであり、最初数本ではすべて日本人役し演じず、役名従来の「トコラモ」「ヒシュル・トリ」などの不自然な名前ではなく、「アキラ」「ユキオ」などの正確な前にした。宮尾によると、これらは洲がスター地位作り上げるために与えられてきた従来イメージ捨て正確な日本人の性格を表現しよう努めたことを示しているという。同社での代表作蛟龍を描く人(英語版)』(1919年)は、鳥海美朗曰く本当日本アメリカ示したい」という洲の意気込み凝縮され作品である。この作品アーネスト・フェノロサ夫人メアリー・M・フェノロサ英語版)の長編小説原作で、洲は狩野派絵師後を継ぐ天才画家演じた映画史研究者板倉史明は、洲がこの作品で「日本日本文化対す奇想天外な誤解偏見軽減できる期待した」と考え、「自己犠牲な行為」や「儒教的人物造形」で日系人観客を満足させつつ、「アメリカ人観客異国趣味満足させる」ような商品価値兼ね備えていたと分析している。 こうした洲の試み実を結び献身的な日本人演じた『薄暗の寺(英語版)』(1918年)は『キネマ旬報』で「我々同胞から失はれた洲氏の名誉と信用挽回する為に絶好映画」と評されるなど、日本本国日系人社会から好意的な反応受けた。しかし、アメリカ人には受け入れられず、『ムービング・ピクチャー・ワールド(英語版)』誌の『薄暗の寺』評では、より寡黙神秘的冷酷無情な洲の方が好きだと言われた。やがて洲は会社経営する以上、興行収入上げなればならないこともあり、役柄ラスキー時代のそれに戻っていき、日本人以外の非白人演じ機会も再び増えた宮尾は、主演映画による利益見込むロバートソン・コール社の要求自分たちが抱くイメージ忠実な役柄を望むアメリカ人観客欲望アメリカ社会浸透していた日本人対す固定観念スター地位維持したい自身野心により、洲の「愛国的な思い犠牲にされ、映画スター早川雪洲一定のイメージ作り再開された」と述べている。 1918年洲は鶴子とともに当時流行していたスペインかぜ感染し数日間寝込んだが、この時に母親のか祢もスペインかぜ感染し11月17日73歳亡くなったこの頃からハリウッド日本人俳優相次いで日本へ帰国するようになり、洲は日本人活動写真俳優組合理事長として、組合主催壮行会を開くなどして彼らを見送った1920年には日本新たに設立され松竹キネマ関係者ハリウッド視察訪れ洲に「松竹輸出映画作ってくれないか」とオファーしたが、多忙な日々を送る洲は断った1920年もハワース・ピクチャーズは好調に回転し洲は足かけ3年不眠不休働いたおかげでキャナリー会社設立時出資金100万ドル利息100万ドル足して、2倍の200ドルにして返済することができ、それを機に社名を「ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー」に改名した同年9月には日米親善在米日本人アメリカ化などに尽くすために「一百会」を設立し、自ら会長就いた

※この「自身の映画会社の立ち上げ」の解説は、「早川雪洲」の解説の一部です。
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