第2部 田畑政治篇・前半とは? わかりやすく解説

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第2部 田畑政治篇・前半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:01 UTC 版)

いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事における「第2部 田畑政治篇・前半」の解説

1924年(大正13年)、東京帝国大学卒業した田畑政治朝日新聞社採用試験を受ける。面接好きなスポーツ聞かれた際、水泳について熱弁面接官緒方竹虎社長困らせる水泳情熱注いでいながら運動部ではなく政治部希望した田畑は、社長鶴の一声採用されることになる。 一方嘉納治五郎の「こんな時こそオリンピック」の一声1924年パリオリンピック予選会開催マラソン予選伴走者として母校ランナー鼓舞するうちに1着でゴールしてしまった金栗四三は、3度目オリンピック代表選出されるパリオリンピック四三意識失い途中棄権となり、結果報告会正式に現役引退表明するその結果報告会体協陸上びいきに業を煮やした田畑は、体協名誉会長嘉納引責辞任求め本人とは知らず嘉納掴みかかり投げ飛ばされる。田畑は、東京帝国大学教授松沢一鶴とともに大日本水上競技連盟水連)を結成し水泳選手育成取り組んでいく。1928年アムステルダムオリンピック近づく中、田畑体協多数水泳選手派遣求め体協会長岸清一から「金さえあれば連れて行く」と返されたことで、大蔵大臣高橋是清直談判し、国にオリンピック特別予算出させることに成功する結果鶴田義行金メダル高石勝男銀メダル銅メダル獲得するまた、同大会では日本人女性初のオリンピック選手である人見絹枝銀メダル獲得した。そんな人見に続くかのように水泳界では前畑秀子頭角現し始める。 満州事変五・一五事件などの勃発により暗澹とする世情のなか、東京市長永田秀次郎紀元二千六百年記念行事関東大震災復興記念事業一環としてオリンピック招致乗り出すその頃田畑政界転じる同僚河野一郎から日本スポーツ界将来託され前畑小池礼三宮崎康二大横田勉など若手の育成力を入れる。1932年(昭和7年)、田畑念願叶いロサンゼルスオリンピック水泳チーム総監督として渡米するが、全種目制覇のために人情切り捨てて選考を行う姿勢松沢反発する若手抜かれ戦力外明白ながらも、チーム精神的支柱として同行する「ノンプレイングキャプテン」の立場命じられ高石も、苛立ち募らせていく。しかし、「新聞一面金メダル大量獲得記事載せ日本明るくしたい」という田畑希望知った2人協力的変わり日本水チームは全種目金はならなかったが多くメダル獲得する。この快挙人種差別苦し現地日系人らは、「アメリカ人見返した」と田畑水泳チームへの感謝歓喜に沸く。 帰国後、田畑同僚酒井菊枝結婚1940年開催オリンピック東京招致実行委員着任する国際政情から東京の不利は否めず、嘉納は有力候補地であるイタリア独裁者ムッソリーニ権利譲ってもらうように直談判することを決める。IOC委員副島道正杉村陽太郎交渉によりムッソリーニから承諾を得るものの、IOC委員長・ラトゥールらから「オリンピック政治介入させた」と顰蹙を買い、選挙延期となる。嘉納ラトゥール日本招待し直接アピール謝罪田畑二・二六事件直後戒厳下の東京にてラトゥール案内する。こうして招致委員会努力実り東京次期オリンピック開催地に決定。しかし、田畑河野推測ラトゥール忠告から、この結果ヒトラーによる水面下での圧力よるものと悟る。かつて高橋是清から資金引き出方便として「オリンピック政治利用」を何の気なしに訴えた田畑は、ナチス党プロパガンダ手段化したベルリンオリンピック見て愕然とする。そんな異様な雰囲気のなか、前畑国民の声援を背負い金メダル獲得する一方池部家が営む庄屋番頭務めていた四三は、マラソン選手志す青年小松勝の訪問を受け、走る事への情熱取り戻す。嘉納から東京オリンピック招致への協力依頼され四三は、勝をオリンピックに出場させるべく、十余年ぶりに上京。勝は鍛練打ち込む一方で播磨屋お針子見習いとして働くシマの娘・増野りくと恋に落ち結婚長男・金治が誕生する。 孝柳家三語楼弟子入りするも、師匠着物を質に出して破門され、食うに困るほどの貧困に陥るナメクジ長屋転居し貧乏暮し続けある日兄弟弟子朝が孝復帰信じて羽織質流れから守っていることを知る。孝朝の協力師匠和解し柳家甚語楼」として復帰する。やがて宴席での高座ラジオ出演によって生活を立て直したは、二・二六事件勃発した日、ナメクジ長屋後にする東京オリンピック開催計画会議には軍部同席しプロパガンダ手段オリンピック利用しよう画策するオリンピックの本来の趣旨から外れて行くことから田畑副島開催返上嘉納提案するが、選手らの気持ち寄り添う嘉納頑なに東京開催にこだわる。しかし、1938年(昭和13年)、エジプトカイロ行われたIOC会議からの帰路氷川丸船内嘉納肺炎罹患し急逝嘉納最期看取った平沢和重から遺品であるストップウォッチ受け取った田畑は、嘉納遺志受け継ぎオリンピック開催進めようとするが、副島独断開催返上される。返上決定しても、次のオリンピック向けて練習続ける勝の元に召集令状が届く。1943年オリンピックのために作られ神宮外苑競技場皮肉にも出陣学徒壮行会場に使用される。同競技場ゴールテープを切る勝を夢見ていた四三は、行進する勝を見送り複雑な思い万歳三唱する。田畑オリンピック返上したことを激しく後悔し東京オリンピック開催させてみせると誓うのだった。 孝は「古今亭志ん生」を襲名し1945年(昭和20年)に後輩三遊亭圓生たちと共に慰問団の一人として満州へ旅立つ8月15日日本敗戦し、満州混乱一途を辿る事になる。志ん生と圓生中国人たちに殺されかけるが勝に助けられ以降行動共にするうになる殺される恐怖から孝アルコール中毒になって死のうとしたが、圓生助けで死を免れる二人残った日本人相手落語会開催圓生は「居残り佐平次」を、孝は「富久」を演じる。その「富久」は勝の提案受け入れ、「久蔵が走る場所を浅草からに」アレンジしたモノだった。勝は「富久」を聞いて外を走りたくなり、屋外出て妻のりく宛の葉書に『志ん生の「富久」は絶品と書き足してポスト入れた瞬間ソ連兵遭遇し銃殺される。孝たちは1947年命からがら帰国寄席高座へと復帰し万雷拍手迎えられる1961年暮れ脳梗塞倒れた志ん生は、病床小松勝の息子である五りんに満州での思い出を語る。

※この「第2部 田畑政治篇・前半」の解説は、「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の解説の一部です。
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