第2部 田畑政治篇・前半
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「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事における「第2部 田畑政治篇・前半」の解説
1924年(大正13年)、東京帝国大学を卒業した田畑政治は朝日新聞社の採用試験を受ける。面接で好きなスポーツを聞かれた際、水泳について熱弁し面接官の緒方竹虎と社長を困らせる。水泳に情熱を注いでいながら運動部ではなく政治部を希望した田畑は、社長の鶴の一声で採用されることになる。 一方、嘉納治五郎の「こんな時こそオリンピック」の一声で1924年パリオリンピックの予選会が開催。マラソンの予選で伴走者として母校のランナーを鼓舞するうちに1着でゴールしてしまった金栗四三は、3度目のオリンピック代表に選出される。パリオリンピックで四三は意識を失い途中棄権となり、結果報告会で正式に現役引退を表明する。その結果報告会で体協の陸上びいきに業を煮やした田畑は、体協名誉会長の嘉納の引責辞任を求め、本人とは知らず嘉納に掴みかかり投げ飛ばされる。田畑は、東京帝国大学教授の松沢一鶴らとともに大日本水上競技連盟(水連)を結成し、水泳選手の育成に取り組んでいく。1928年アムステルダムオリンピックが近づく中、田畑は体協に多数の水泳選手の派遣を求め、体協会長の岸清一から「金さえあれば連れて行く」と返されたことで、大蔵大臣の高橋是清に直談判し、国にオリンピック特別予算を出させることに成功する。結果、鶴田義行が金メダル、高石勝男が銀メダルと銅メダルを獲得する。また、同大会では日本人女性初のオリンピック選手である人見絹枝が銀メダルを獲得した。そんな人見に続くかのように、水泳界では前畑秀子が頭角を現し始める。 満州事変、五・一五事件などの勃発により暗澹とする世情のなか、東京市長・永田秀次郎は紀元二千六百年記念行事と関東大震災復興記念事業の一環として、オリンピックの招致に乗り出す。その頃、田畑は政界へ転じる同僚の河野一郎から日本スポーツ界の将来を託され、前畑、小池礼三、宮崎康二、大横田勉など若手の育成に力を入れる。1932年(昭和7年)、田畑は念願叶いロサンゼルスオリンピック水泳チームの総監督として渡米するが、全種目制覇のために人情を切り捨てて選考を行う姿勢に松沢は反発する。若手に抜かれ戦力外が明白ながらも、チームの精神的支柱として同行する「ノンプレイングキャプテン」の立場を命じられた高石も、苛立ちを募らせていく。しかし、「新聞の一面に金メダル大量獲得の記事を載せ、日本を明るくしたい」という田畑の希望を知った2人は協力的に変わり、日本水泳チームは全種目金はならなかったが多くのメダルを獲得する。この快挙に人種差別に苦しむ現地日系人らは、「アメリカ人を見返した」と田畑や水泳チームへの感謝と歓喜に沸く。 帰国後、田畑は同僚の酒井菊枝と結婚、1940年開催のオリンピック東京招致の実行委員に着任する。国際政情から東京の不利は否めず、嘉納は有力候補地であるイタリアの独裁者・ムッソリーニに権利を譲ってもらうように直談判することを決める。IOC委員・副島道正と杉村陽太郎の交渉によりムッソリーニから承諾を得るものの、IOC委員長・ラトゥールらから「オリンピックに政治を介入させた」と顰蹙を買い、選挙は延期となる。嘉納はラトゥールを日本に招待し、直接アピールと謝罪、田畑は二・二六事件直後の戒厳下の東京にてラトゥールを案内する。こうして招致委員会の努力は実り、東京が次期オリンピック開催地に決定。しかし、田畑は河野の推測とラトゥールの忠告から、この結果はヒトラーによる水面下での圧力によるものと悟る。かつて高橋是清から資金を引き出す方便として「オリンピックの政治利用」を何の気なしに訴えた田畑は、ナチス党のプロパガンダ手段と化したベルリンオリンピックを見て愕然とする。そんな異様な雰囲気のなか、前畑は国民の声援を背負い金メダルを獲得する。 一方、池部家が営む庄屋で番頭を務めていた四三は、マラソン選手を志す青年・小松勝の訪問を受け、走る事への情熱を取り戻す。嘉納から東京オリンピック招致への協力を依頼された四三は、勝をオリンピックに出場させるべく、十余年ぶりに上京。勝は鍛練に打ち込む一方で、播磨屋のお針子見習いとして働くシマの娘・増野りくと恋に落ち結婚、長男・金治が誕生する。 孝蔵は柳家三語楼に弟子入りするも、師匠の着物を質に出して破門され、食うに困るほどの貧困に陥る。ナメクジ長屋に転居し貧乏暮しを続けるある日、兄弟弟子の万朝が孝蔵の復帰を信じて羽織を質流れから守っていることを知る。孝蔵は万朝の協力で師匠と和解し「柳家甚語楼」として復帰する。やがて宴席での高座やラジオ出演によって生活を立て直した孝蔵は、二・二六事件が勃発した日、ナメクジ長屋を後にする。 東京オリンピック開催計画の会議には軍部も同席し、プロパガンダ手段にオリンピックを利用しようと画策する。オリンピックの本来の趣旨から外れて行くことから田畑や副島は開催返上を嘉納に提案するが、選手らの気持ちに寄り添う嘉納は頑なに東京開催にこだわる。しかし、1938年(昭和13年)、エジプトのカイロで行われたIOC会議からの帰路、氷川丸の船内で嘉納は肺炎に罹患し急逝。嘉納の最期を看取った平沢和重から遺品であるストップウォッチを受け取った田畑は、嘉納の遺志を受け継ぎオリンピックの開催を進めようとするが、副島の独断で開催は返上される。返上が決定しても、次のオリンピックに向けて練習を続ける勝の元にも召集令状が届く。1943年、オリンピックのために作られた神宮外苑競技場は皮肉にも出陣学徒壮行会場に使用される。同競技場でゴールテープを切る勝を夢見ていた四三は、行進する勝を見送り複雑な思いで万歳三唱する。田畑はオリンピックを返上したことを激しく後悔し、東京でオリンピックを開催させてみせると誓うのだった。 孝蔵は「古今亭志ん生」を襲名し、1945年(昭和20年)に後輩の三遊亭圓生たちと共に慰問団の一人として満州へと旅立つ。8月15日、日本は敗戦し、満州は混乱の一途を辿る事になる。志ん生と圓生は中国人たちに殺されかけるが勝に助けられ、以降行動を共にするようになる。殺される恐怖から孝蔵はアルコール中毒になって死のうとしたが、圓生の助けで死を免れる。二人は残った日本人を相手に落語会を開催。圓生は「居残り佐平次」を、孝蔵は「富久」を演じる。その「富久」は勝の提案を受け入れ、「久蔵が走る場所を浅草から芝に」アレンジしたモノだった。勝は「富久」を聞いて外を走りたくなり、屋外へ出て妻のりく宛の葉書に『志ん生の「富久」は絶品』と書き足してポストへ入れた瞬間にソ連兵に遭遇し、銃殺される。孝蔵たちは1947年に命からがら帰国、寄席の高座へと復帰し万雷の拍手で迎えられる。1961年の暮れに脳梗塞で倒れた志ん生は、病床で小松勝の息子である五りんに満州での思い出を語る。
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