第2部 田畑政治篇・後半
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「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の記事における「第2部 田畑政治篇・後半」の解説
1959年(昭和34年)、田畑政治、東龍太郎らは1964年のオリンピックを東京に招致するべくIOC総会に向けて準備を進めていたが、二週間前になってスピーチをする予定だった外交官の北原秀雄が足を負傷したため、北原は元外交官でNHK解説委員になっていた平沢和重を推薦する。平沢も1964年(昭和39年)での開催は時期尚早だとして、なかなか首を縦に振らない。なぜそこまでオリンピックに魅せられるのかと平沢に尋ねられたことから田畑は敗戦後からの歩みを語ることになる。 1945年(昭和20年)9月、田畑は敗戦国となった日本のためにオリンピックを東京に呼ぶことを決意する。1948年(昭和23年)、ロンドンにて12年ぶりにオリンピックか開催されることになるが、日本はアメリカの占領下にあったため参加を認められなかった。そこで田畑は神宮プールを使い「裏オリンピック」と称してオリンピックの水泳競技と同じ日程で日本選手権を開く。この大会で古橋広之進がオリンピックの優勝タイムを超える記録を出して、日本人の若者たちを鼓舞した。1951年、サンフランシスコ講和条約によって日本の独立が認められ、翌年のヘルシンキオリンピックに参加。それから田畑は1960年のオリンピックを東京で開催するべく招致活動に励むが、結果はローマの圧勝で惨敗となった。それでも、田畑はすぐに1964年のオリンピックを招致させるべく奔走。神宮競技場は老朽化していたためこれを壊し、国立競技場として生まれ変わらせた。 田畑のオリンピックへの思いを聞き、嘉納治五郎の言葉を思い返した平沢は最終スピーチの役目を引き受ける。そしてそのスピーチが東京オリンピック開催を決定づけたのであった。 田畑の奔走により1964年10月10日、東京オリンピックが開催される。大松監督率いる女子バレーボールをはじめ、日本選手団は多くのメダルを獲得。閉会式は各国選手団が入り乱れて入場する様子が世界で賞賛された。 オリンピックから3年後、四三のもとにストックホルムから招待状が届く。1967年(昭和42年)3月、四三は妻のスヤとともにストックホルムオリンピック開催55周年記念式典に出席。四三は競技場をゆっくり走りゴールし、54年8か月6日5時間32分20秒3という記録でようやくマラソン競技を終えたのだった。
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