第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月とは? わかりやすく解説

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第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:20 UTC 版)

ソーリー (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説

12月8日日付変更線東側12月7日)、ソーリー最初哨戒ルソン島近海向かったマニラ湾抜け押し寄せてくるであろう日本軍輸送船団を捜し求めて北に向かった。しかし、非常の際の取り決め不備情報の不足は、ソーリー行動一定しないものとした。ソーリービガン東経120度線を結ぶ南北海域中心に哨戒した後、スティングレイ (USS Stingray, SS-186) からの日本軍輸送船団に関する情報基づいてリンガエン湾急行した12月22日夜明け前ソーリーサンフェルナンド通じる湾の北口哨戒行った後、南に向かった4時11分、ソーリー哨戒中の駆逐艦朝風発見し4時24分に魚雷発射。しかし、明らかに朝風方角通過したにもかかわらず爆発しなかった。2分後、新たな駆逐艦出現しソーリー比較水深の浅い海域回避運動行った。しかし、投下され爆雷ソーリーから900メートル離れたところで爆発ソーリー回避運動行いながら北西方角向かって退避し日没後にサンフェルナンドとボリナオ岬の間にある湾に戻った12月23日2時10分ごろ、ソーリー駆逐艦発見された。ソーリー水深37メートル潜航し駆逐艦ソーリーから200メートル離れた場所に爆雷を3発、次いで2発投下したソーリー爆雷攻撃から逃れることが出来た爆雷攻撃午後に行われたが、ソーリー損傷はなかった。12月24日には輸送船発見したが、攻撃には至らなかった。夜になり、ソーリーは自艦が敵艦2隻の間にいることに気付いたソーリーは闇に乗じてまんまと脱出したが、翌日夜に再び駆逐艦遭遇して潜航余儀なくされ、水深37メートル潜航し爆雷攻撃避けた12月27日28日両日駆逐艦遭遇しその度充電中止せざるを得なかった。1942年1月1日には輸送船団発見したが、またもや攻撃には至らなかった。1月8日ソーリーオランダ領東インド海域針路向けたソーリー1月11日から12日にかけてはバシラン海峡哨戒この間タラカン島日本軍占領されたので、ソーリータラカンダバオ間の交通路哨戒した。1月16日までタラカン島近海哨戒したあと南に向かい1月18日赤道越えた1月19日ソーリーは、日本軍サンダカンなどを含む北ボルネオ制圧したその日バリクパパン寄港燃料補給されたものの食料補給はなく、ソーリー翌日追い出されるように出港バリクパパン通じ航路哨戒した。 1月23日日本軍バリクパパン上陸上陸船団妨害するため連合軍水上部隊出動したソーリーはこれに呼応してマハカム川河口北側向かったが、翌1月24日ソーリー発見され船団攻撃を行うことが出来なかった。日本軍バリクパパン占領後ソーリーウィリアム近海哨戒した後、1月27日ジャワ島針路向けたソーリーはマドゥラ海峡通過しオランダ海軍巡視艇護衛受けた1月30日ソーリー53日間行動終えてスラバヤ帰投した。

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第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 14:30 UTC 版)

サーゴ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説

12月8日サーゴ最初哨戒仏領インドシナ沿岸およびオランダ領東インド諸島方面向かった哨戒では敵貨物船に対して別個に8回の攻撃行ったが、マーク14型魚雷誤動作によりいずれの攻撃成功しなかった。その概要以下のとおりである。サーゴは重要情報基づいてカムラン湾に向かうが、12月14日朝に3隻の愛宕重巡洋艦発見する。3隻の重巡洋艦15ノット速力で南に向けて航行していたが、サーゴ攻撃態勢入れなかった。また、輸送船団発見した時には懐に入りこんで、貨物船向けて魚雷を1本発射したものの、発射18秒で早期爆発起こし魚雷性能対し改め疑念を抱かざるを得なかった。12月24日にも2隻の貨物船発見し個々目標に対して距離900メートルから魚雷を1本ずつ発射。しかし、これも命中しなかった。サーゴ艦首艦尾双方発射管から合計8本もの魚雷発射したものの、全て外れた12月26日朝にも3隻の貨物船発見するが、攻撃できなかった。翌12月27日夕刻サーゴは2隻の貨物船に対して三度わたって魚雷を2本発射するも、またもや獲物取り逃がしてしまう。年明け1942年1月4日サーゴタンカー発見して魚雷発射するも、この時も魚雷不具合によって命中しなかった。一連の不始末にサーゴから司令部に対してマーク14型魚雷に関するレポート送信した1942年1月20日サーゴマカッサル海峡暗礁座礁した S-36 (USS S-36, SS-141) の乗員救助支援し浮上した上で友軍機と水上艦艇への通信中継行ったオランダ商船シブロート (SS Siberote) による乗員救助後サーゴジャワ島向かった1月25日サーゴ48日間行動終えてスラバヤ帰投した。

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第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月

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ガジョン (SS-211)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説

12月11日、ガジョンは最初哨戒日本近海向かった。これは第二次世界大戦における、アメリカ潜水艦最初戦時哨戒である。この哨戒でガジョンは2つ初物づくしを太平洋艦隊潜水部隊もたらした一つは「日本近海行動した最初アメリカ潜水艦」であり、ガジョンは九州沿岸哨戒した。12月31日から1942年1月10日までの間に計6隻もの船を発見し1月4日には.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3211東経13152分 / 北緯32.183度 東経131.867度 / 32.183; 131.867の地点で1,500トン沿岸貨物船に対して魚雷を2本発射した命中せず1月9日から10日にかけての夜に北緯3156東経13215分 / 北緯31.933度 東経132.250度 / 31.933; 132.250の地点貨物船に対して魚雷3本発射し1つ命中音を聴取した1月8日には南雲忠一中将率い第一航空艦隊出撃もあったが、ガジョンはこれに気づく事はなかった。もう一つ初物は「第二次世界大戦敵艦船を撃沈した最初アメリカ潜水艦」であり、1月27日0900、ガジョンは北緯2824東経17835分 / 北緯28.400度 東経178.583度 / 28.400; 178.583のミッドウェー島西方240地点潜航中、左舷前方高速推進器音を聴取。やがて4600mの位置15ノット速力浮上航走中の伊73発見。0907、荒天の中ガジョンは1600mの距離で魚雷3本発射。1分45秒後、2回の爆発音聴取すると共に推進器音が消えその後ガジョンが再度潜望鏡観測した時には73海上から姿を消していた。この頃日本潜水艦カリフォルニア州ワシントン州沿岸通商破壊作戦実施しており(アメリカ本土攻撃)、そのうちの一艦と考えられていた。また、2日前の1月25日伊号第二十四潜水艦伊24)がミッドウェー島に対して艦砲射撃をしており、司令部伊24待ち伏せるつもりでガジョンに指令出していた。1月29日、ガジョンは51日間行動終えて真珠湾帰投した。

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第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 23:51 UTC 版)

パーチ (SS-176)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説

太平洋戦争始まったとき、パーチデヴィッド・A・ハート少佐アナポリス1925年組)の指揮下、カヴィテ海軍工廠英語版にあった12月10日カヴィテを出渠したが、パーチはこの日、日本軍攻撃によりカヴィテ破壊されるのを目撃した日付12月11日になってすぐ、パーチ最初哨戒ルソン島台湾間の海域向かったコレヒドール島沖の機雷敷設海域通過しルソン島沖に出た。しかし、初めのころは目標発見することなく、また悪天候にも見舞われパーチ高雄沖を経て香港沖へ移動した12月25日クリスマスの夜パーチ大型商船に対して魚雷4本を発射したが、命中することはなかった。2日後12月27日朝、パーチは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯2213東経11513分 / 北緯22.217度 東経115.217度 / 22.217; 115.217の香港沖で8,000トン級の商船発見し、2本の魚雷発射して1本が命中。この目標は、実際に商船ではなく特務艦野島であった野島損傷を受け紅海湾に擱座し、後に波浪により船体半分以上没した上に切断して大修理を受ける羽目となった。すぐ後に、1隻の軽巡洋艦と2隻の駆逐艦、1隻のタンカー発見パーチ1時間追跡行ったものの、結局攻撃できなかった。日本軍護衛艦パーチ戦果確認妨げた周囲の安全を確認してパーチ浮上したのは、日が暮れた後の21時45分のことであったパーチオーストラリアダーウィン修理のため向かった1942年1月12日パーチ敵艦に対して夜間攻撃を行うものの失敗した1月17日パーチ38日間行動終えてダーウィン帰投した。

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