第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月
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「ソーリー (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説
12月8日(日付変更線の東側は12月7日)、ソーリーは最初の哨戒でルソン島近海に向かった。マニラ湾を抜け、押し寄せてくるであろう日本軍輸送船団を捜し求めて北に向かった。しかし、非常の際の取り決めの不備と情報の不足は、ソーリーの行動を一定しないものとした。ソーリーはビガンと東経120度線を結ぶ南北の海域を中心に哨戒した後、スティングレイ (USS Stingray, SS-186) からの日本軍輸送船団に関する情報に基づいて、リンガエン湾に急行した。 12月22日の夜明け前、ソーリーはサンフェルナンドに通じる湾の北口で哨戒を行った後、南に向かった。4時11分、ソーリーは哨戒中の駆逐艦朝風を発見し、4時24分に魚雷を発射。しかし、明らかに朝風の方角へ通過したにもかかわらず爆発しなかった。2分後、新たな駆逐艦が出現し、ソーリーは比較的水深の浅い海域で回避運動を行った。しかし、投下された爆雷はソーリーから900メートル離れたところで爆発。ソーリーは回避運動を行いながら北西の方角に向かって退避し、日没後にサンフェルナンドとボリナオ岬の間にある湾に戻った。 12月23日2時10分ごろ、ソーリーは駆逐艦に発見された。ソーリーは水深37メートルに潜航し、駆逐艦はソーリーから200メートル離れた場所に爆雷を3発、次いで2発投下した。ソーリーは爆雷攻撃から逃れることが出来た。爆雷攻撃は午後にも行われたが、ソーリーに損傷はなかった。12月24日には輸送船を発見したが、攻撃には至らなかった。夜になり、ソーリーは自艦が敵艦2隻の間にいることに気付いた。ソーリーは闇に乗じてまんまと脱出したが、翌日夜に再び駆逐艦と遭遇して潜航を余儀なくされ、水深37メートルに潜航し爆雷攻撃を避けた。12月27日と28日の両日も駆逐艦と遭遇し、その度に充電を中止せざるを得なかった。1942年1月1日には輸送船団を発見したが、またもや攻撃には至らなかった。1月8日、ソーリーはオランダ領東インド海域に針路を向けた。 ソーリーは1月11日から12日にかけてはバシラン海峡を哨戒。この間にタラカン島が日本軍に占領されたので、ソーリーはタラカンとダバオ間の交通路も哨戒した。1月16日までタラカン島近海で哨戒したあと南に向かい、1月18日に赤道を越えた。1月19日、ソーリーは、日本軍がサンダカンなどを含む北ボルネオを制圧したその日にバリクパパンに寄港。燃料は補給されたものの食料の補給はなく、ソーリーは翌日追い出されるように出港。バリクパパンに通じる航路を哨戒した。 1月23日、日本軍がバリクパパンに上陸。上陸船団を妨害するため連合軍水上部隊が出動した。ソーリーはこれに呼応してマハカム川河口の北側に向かったが、翌1月24日、ソーリーは発見されて船団攻撃を行うことが出来なかった。日本軍のバリクパパン占領後、ソーリーはウィリアム岬近海で哨戒した後、1月27日にジャワ島に針路を向けた。ソーリーはマドゥラ海峡を通過し、オランダ海軍巡視艇の護衛を受けた。1月30日、ソーリーは53日間の行動を終えてスラバヤに帰投した。
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「サーゴ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説
12月8日、サーゴは最初の哨戒で仏領インドシナ沿岸およびオランダ領東インド諸島方面に向かった。哨戒では敵貨物船に対して別個に8回の攻撃を行ったが、マーク14型魚雷の誤動作によりいずれの攻撃も成功しなかった。その概要は以下のとおりである。サーゴは重要情報に基づいてカムラン湾に向かうが、12月14日朝に3隻の愛宕型重巡洋艦を発見する。3隻の重巡洋艦は15ノットの速力で南に向けて航行していたが、サーゴは攻撃態勢に入れなかった。また、輸送船団を発見した時には懐に入りこんで、貨物船に向けて魚雷を1本発射したものの、発射後18秒で早期爆発を起こし、魚雷の性能に対し改めて疑念を抱かざるを得なかった。12月24日にも2隻の貨物船を発見し、個々の目標に対して距離900メートルから魚雷を1本ずつ発射。しかし、これも命中しなかった。サーゴは艦首、艦尾双方の発射管から合計8本もの魚雷を発射したものの、全て外れた。12月26日朝にも3隻の貨物船を発見するが、攻撃できなかった。翌12月27日夕刻、サーゴは2隻の貨物船に対して三度にわたって魚雷を2本発射するも、またもや獲物を取り逃がしてしまう。年明けた1942年1月4日、サーゴはタンカーを発見して魚雷を発射するも、この時も魚雷の不具合によって命中しなかった。一連の不始末に、サーゴから司令部に対してマーク14型魚雷に関するレポートを送信した。1942年1月20日、サーゴはマカッサル海峡の暗礁で座礁した S-36 (USS S-36, SS-141) の乗員救助を支援し、浮上した上で友軍機と水上艦艇への通信中継を行った。オランダの商船シブロート (SS Siberote) による乗員の救助後、サーゴはジャワ島に向かった。1月25日、サーゴは48日間の行動を終えてスラバヤに帰投した。
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「ガジョン (SS-211)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説
12月11日、ガジョンは最初の哨戒で日本近海に向かった。これは第二次世界大戦における、アメリカ潜水艦の最初の戦時哨戒である。この哨戒でガジョンは2つの初物づくしを太平洋艦隊潜水部隊にもたらした。一つは「日本近海で行動した最初のアメリカ潜水艦」であり、ガジョンは九州沿岸で哨戒した。12月31日から1942年1月10日までの間に計6隻もの船を発見し、1月4日には.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度11分 東経131度52分 / 北緯32.183度 東経131.867度 / 32.183; 131.867の地点で1,500トン級沿岸貨物船に対して魚雷を2本発射したが命中せず、1月9日から10日にかけての夜にも北緯31度56分 東経132度15分 / 北緯31.933度 東経132.250度 / 31.933; 132.250の地点で貨物船に対して魚雷を3本発射し、1つの命中音を聴取した。1月8日には南雲忠一中将率いる第一航空艦隊の出撃もあったが、ガジョンはこれに気づく事はなかった。もう一つの初物は「第二次世界大戦で敵艦船を撃沈した最初のアメリカ潜水艦」であり、1月27日0900、ガジョンは北緯28度24分 東経178度35分 / 北緯28.400度 東経178.583度 / 28.400; 178.583のミッドウェー島西方240浬地点で潜航中、左舷前方に高速推進器音を聴取。やがて4600mの位置で15ノットの速力で浮上航走中の伊73を発見。0907、荒天の中ガジョンは1600mの距離で魚雷3本を発射。1分45秒後、2回の爆発音を聴取すると共に推進器音が消え、その後ガジョンが再度潜望鏡観測した時には伊73は海上から姿を消していた。この頃、日本の潜水艦がカリフォルニア州、ワシントン州沿岸で通商破壊作戦を実施しており(アメリカ本土攻撃)、そのうちの一艦と考えられていた。また、2日前の1月25日に伊号第二十四潜水艦(伊24)がミッドウェー島に対して艦砲射撃をしており、司令部は伊24を待ち伏せるつもりでガジョンに指令を出していた。1月29日、ガジョンは51日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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「パーチ (SS-176)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説
太平洋戦争が始まったとき、パーチはデヴィッド・A・ハート少佐(アナポリス1925年組)の指揮下、カヴィテ海軍工廠(英語版)にあった。12月10日にカヴィテを出渠したが、パーチはこの日、日本軍の攻撃によりカヴィテが破壊されるのを目撃した。日付が12月11日になってすぐ、パーチは最初の哨戒でルソン島と台湾間の海域に向かった。コレヒドール島沖の機雷敷設海域を通過し、ルソン島沖に出た。しかし、初めのころは目標を発見することなく、また悪天候にも見舞われたパーチは高雄沖を経て香港沖へ移動した。12月25日のクリスマスの夜、パーチは大型商船に対して魚雷4本を発射したが、命中することはなかった。2日後の12月27日朝、パーチは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯22度13分 東経115度13分 / 北緯22.217度 東経115.217度 / 22.217; 115.217の香港沖で8,000トン級の商船を発見し、2本の魚雷を発射して1本が命中。この目標は、実際には商船ではなく特務艦野島であった。野島は損傷を受け紅海湾に擱座し、後に波浪により船体が半分以上没した上に切断して大修理を受ける羽目となった。すぐ後に、1隻の軽巡洋艦と2隻の駆逐艦、1隻のタンカーを発見。パーチは1時間の追跡を行ったものの、結局攻撃できなかった。日本軍の護衛艦はパーチの戦果確認を妨げた。周囲の安全を確認してパーチが浮上したのは、日が暮れた後の21時45分のことであった。パーチはオーストラリアのダーウィンに修理のため向かった。1942年1月12日、パーチは敵艦に対して夜間攻撃を行うものの失敗した。1月17日、パーチは38日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。
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