第1の僭主
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「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「第1の僭主」の解説
詳細は「偽ドミトリー1世」を参照 ロシアでは1601年から1603年までロシア史でも最悪級の凶作と飢饉が起こり(ロシア大飢饉(英語版))、人口の3分の1にあたる200万人が死亡したとされる。農村では大量の餓死者が出て、難民が押し寄せた首都モスクワでもこの2年半の飢饉の間に12万人以上が埋葬された。ロシアの社会は飢饉によって崩壊の危機に瀕した。一方、1600年代のほとんどの時期ジグムント3世は、連合内の反乱者との内戦、ポーランドとの同君連合を解消しようとするスウェーデンとの戦い、モルダヴィアでの戦いなど連合内部の問題に没頭しておりロシアに目を向ける余裕はなかった。しかし1603年、ポーランド国内に、イヴァン4世の息子でリューリク朝最後の継承者ドミトリーを称する者(偽ドミトリー1世)が現れると、ドミトリーの1591年の死を信じていなかったロシアの人々から大きな反響が起こった。たちどころにミハウ・ヴィシニョヴィエツキ (Michał Wiśniowiecki)、レフ・サピェハ (Lew Sapieha)、ヤン・ピョトル・サピェハ (Jan Piotr Sapieha) などのマグナートや、多くの実力者からの支援が偽ドミトリーとその支持者に寄せられ、ボリス・ゴドゥノフ打倒のための資金が集まった。 ポーランド・リトアニア共和国のマグナートたちは僭主ドミトリーを支援してロシアへの影響力を増やすことを考えた。さらに、ポーランドのマグナートたちとロシアの親ポーランド派(市民主義派)ボヤーレたちは1600年にサピエハが提案したようなポーランド・リトアニア・モスクワ共和国形成へ向け動き出した。またカトリック教会の支持者たちは、偽ドミトリーの出現をカトリックの影響力を東へ広げる好機と見、カトリック優位の強国ポーランド・ロシア連合が誕生して南のオスマン帝国に宣戦することを期待してイエズス会も偽ドミトリーに資金と教育とを授けた。ジグムント3世はポーランド・リトアニア共和国をあげての公式な支援を偽ドミトリーに与えることはしなかったが、熱心なカトリック信者である彼はいつでも親カトリック的な計画を支援することに喜びを感じており、今回も偽ドミトリーに兵士数百人分に相当する4,000ズロチの資金を私的に与えた。 王が偽ドミトリーを個人的に支援したにもかかわらず、偽ドミトリーの支援者の中にはジグムント王に対する反対者もおり、偽ドミトリーをポーランド王に据える活動も進めていた。1604年6月、偽ドミトリーは支援の引き換えに、ポーランド・リトアニアに対しスモレンスク領の半分を与えると約束した。こうした計画に対し懐疑的な者は多く、ジグムント王の政策のほとんどに反対していた連合国議会(セイム)派マグナートのヤン・ザモイスキ (Jan Zamoyski) は、後に偽ドミトリー1世を巡る一連の出来事を「プラウトゥスやテレンティウスに匹敵する喜劇」と述べている。 ボリス・ゴドゥノフは自称ドミトリーの出現の話を聞くと、この者の正体はグリゴリー・オトレピェフというただの逃亡僧だと主張した。しかしこの主張の根拠が何であったかは今も不明である。ロシアにおけるゴドゥノフへの支持は衰えていたが、彼が偽ドミトリーの主張を嘘だとする噂を流せば流すほど、かえってゴドゥノフの方の支持が減っていった。ロシアのボヤーレたちの中には、偽ドミトリーを支持することを口実にツァーリ政府に対する税金を払うのをやめる者もいた。 ドミトリーは多くの支持者を惹きつけ、小規模な軍を結成した。ドミトリーの資金で集めた傭兵や連合のマグナートたちの出した私兵からなる3,500人ほどの軍隊は1604年6月、ルーシ南部に侵入した。ゴドゥノフの敵対勢力たち、たとえば2,000人ほどの南部コサックもモスクワへ向かう軍に合流した。偽ドミトリーの軍は士気の低いロシア軍と二度衝突した。まずノヴホロド=シベルスキー(ロシア語: ノヴゴロド=セヴェルスキー)で勝った偽ドミトリー軍はチェルニーヒフ(チェルニゴフ)、プティヴリ、セフスク、クルスクを次々占領したが、ドブリニチでの2度目の戦闘では大敗し軍は解体の危機にさらされた。しかし、1605年4月13日にツァーリのゴドゥノフが急死したとの知らせが入り、偽ドミトリー軍は辛くも立ち直った。 ゴドゥノフの急死で、偽ドミトリー軍の進軍を阻む大きな障害はなくなった。ロシアの兵たちはドミトリー側に寝返り始め、6月1日にはモスクワのボヤーレたちが新たにツァーリとして戴冠していたゴドゥノフの息子フョードル2世とその母を幽閉し、後に残虐に殺した。6月20日、偽ドミトリーはボヤーレたちの出迎えの中、意気揚々とモスクワに入城した。偽ドミトリーは、ドミトリーの母マリヤ・ナガヤと「再会」したりゴドゥノフに追放された人々に恩赦を与えたりした。7月21日には自分の選んだ新たなモスクワ総主教の手でツァーリとして戴冠した。新たな総主教に指名されたイグナチー(イグナティウス)はキプロス出身でロシアに派遣されたギリシャ人聖職者で、リャザン主教だったときに正教会の聖職者としてはじめて偽ドミトリーをツァーリと認めた人物であった。 ドミトリーによるロシアとポーランドとの同盟は、1605年11月にクラクフで代理を立てて行われたドミトリーとマリナ・ムニシュフヴナ(Marina Mniszech、シュラフタのイェジー・ムニシェフ Jerzy Mniszech の娘、ロシアではマリーナ・ムニシェクとして知られる。ドミトリーはポーランドにいた頃、マリナと恋に落ちている)との結婚式でさらに前進した。連合の王ジグムント3世はこの結婚式に賓客として招かれた。しかしこの新たなツァーリナ(皇后)はカトリックからロシア正教への改宗を拒んだため、ロシア民衆の多くから怒りを買った。新たな皇后マリナは4,000人の召使たちとともにモスクワの新郎のもとへ出発し、一ヵ月後にモスクワに到着し、1606年5月8日にツァーリナとして戴冠した。 偽ドミトリー1世の統治は特筆すべきものもない冴えないもので、とりたてて大きな失政もなかったが、その地位は弱かった。ボヤーレの多くは自分はドミトリーよりも大きな影響を得られるはずと考え、中にはツァーリの座を狙う者もいた。さらにポーランドの文化的影響に慎重な者も多く、宮廷にドミトリーがポーランドから連れてきた先進的な外国人の政治家やテクノクラートの力が増していくのを見てとりわけ不安を感じた。すべての貴族は平等だとするポーランド式の「黄金の自由」(貴族民主主義)は小貴族には支持されたが、それまで大きな権力を持っていたボヤーレたちにとっては自らの利権に対する脅威になりえた。ドミトリーが農民に対して認めた多くの権利も多くのボヤーレの反発を買った。 ドミトリーはモスクワに駐屯する数百人のポーランド・リトアニアから来た非正規兵(傭兵や私兵)に支えられていたが、この兵士たちは実質上の治外法権の状態にあり、市内で犯罪を行っても罰せられることがまずなかったためモスクワ市民の反発を買い、民衆の支持はシュイスキーたちに傾きはじめた、とロシアでは伝えられている。ボヤーレたちはポーランド兵やコサックらを解散させるなどしてドミトリーから手勢を奪い、次第にドミトリーを政治的に操るようになった。これにたいしてドミトリーは妻マリナとともに来るはずのポーランド兵の増援を待ちわびた。5月にマリナとともに多数のポーランド兵が到着したが、有力貴族ヴァシーリー・シュイスキーに率いられたボヤーレたちはすでにドミトリーと親ポーランド派に対する陰謀を開始し、「ドミトリーが同性愛者で、ロシアにローマ・カトリックとポーランド文化を広めようとし、ロシアをイエズス会とローマ教皇に売ろうとしている」という噂を流していた。 皇后マリナのモスクワ到着から2週間ほど経った1606年5月17日の朝、反ドミトリーの陰謀をたてた者たちはクレムリンに突入した。ドミトリーは窓から脱出しようとしたが落下して脚を折った。反乱者の1人が銃でドミトリーを射殺し、その死体は街頭に晒され、後に火葬されて灰は砲丸に詰められポーランド方向へ向けて発射されたとされる。ツァーリ・偽ドミトリー1世の治世はわずか10カ月程度しか続かなかった。ヴァシーリー・シュイスキーは自らツァーリの座に就き、500人ほどのドミトリーの兵士たちは殺されるか牢に捕らえられるか国外退去となった。
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