第1の僭主とは? わかりやすく解説

第1の僭主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「第1の僭主」の解説

詳細は「偽ドミトリー1世」を参照 ロシアでは1601年から1603年までロシア史でも最悪級の凶作飢饉起こりロシア大飢饉英語版))、人口3分の1にあたる200万人死亡したとされる農村では大量餓死者が出て難民押し寄せた首都モスクワでもこの2年半の飢饉の間に12万人以上が埋葬された。ロシア社会飢饉によって崩壊危機瀕した一方1600年代のほとんどの時期ジグムント3世は、連合内の反乱者との内戦ポーランドとの同君連合解消しようとするスウェーデンとの戦いモルダヴィアでの戦いなど連合内部問題没頭しておりロシア目を向ける余裕はなかった。しかし1603年ポーランド国内に、イヴァン4世息子リューリク朝最後継承者ドミトリー称する者(偽ドミトリー1世)が現れると、ドミトリー1591年の死を信じていなかったロシア人々から大きな反響起こったたちどころにミハウ・ヴィシニョヴィエツキ (Michał Wiśniowiecki)、レフ・サピェハ (Lew Sapieha)、ヤン・ピョトル・サピェハ (Jan Piotr Sapieha) などのマグナートや、多く実力者からの支援偽ドミトリーとその支持者寄せられボリス・ゴドゥノフ打倒のための資金集まったポーランド・リトアニア共和国マグナートたちは僭主ドミトリー支援してロシアへの影響力を増やすことを考えた。さらに、ポーランドマグナートたちとロシアの親ポーランド派市民主義派ボヤーレたちは1600年サピエハ提案したようなポーランド・リトアニア・モスクワ共和国形成へ向け動き出した。またカトリック教会支持者たちは、偽ドミトリー出現カトリック影響力東へ広げる好機と見、カトリック優位強国ポーランド・ロシア連合誕生して南のオスマン帝国宣戦することを期待してイエズス会偽ドミトリー資金教育とを授けたジグムント3世ポーランド・リトアニア共和国をあげての公式な支援偽ドミトリー与えることはしなかったが、熱心なカトリック信者である彼はいつでも親カトリック的な計画支援することに喜び感じており、今回偽ドミトリー兵士数百人分に相当する4,000ズロチ資金私的に与えた。 王が偽ドミトリー個人的に支援したにもかかわらず偽ドミトリー支援者中にはジグムント王に対す反対者もおり、偽ドミトリーポーランド王据え活動進めていた。1604年6月偽ドミトリー支援の引き換えに、ポーランド・リトアニア対しスモレンスク領の半分与えると約束したこうした計画対し懐疑的な者は多くジグムント王の政策のほとんどに反対していた連合国議会セイム)派マグナートヤン・ザモイスキ (Jan Zamoyski) は、後に偽ドミトリー1世を巡る一連の出来事を「プラウトゥステレンティウス匹敵する喜劇」と述べている。 ボリス・ゴドゥノフ自称ドミトリー出現の話を聞くと、この者の正体はグリゴリー・オトレピェフというただの逃亡僧だ主張した。しかしこの主張の根拠が何であったかは今も不明である。ロシアにおけるゴドゥノフへの支持衰えていたが、彼が偽ドミトリー主張を嘘だとする噂を流せば流すほど、かえってゴドゥノフの方の支持減っていった。ロシアボヤーレたちの中には偽ドミトリー支持することを口実ツァーリ政府対す税金を払うのをやめる者もいた。 ドミトリー多く支持者惹きつけ、小規模な軍を結成したドミトリー資金集めた傭兵連合マグナートたちの出した私兵からなる3,500人ほどの軍隊1604年6月ルーシ南部侵入したゴドゥノフ敵対勢力たち、たとえば2,000人ほどの南部コサックモスクワへ向かう軍に合流した偽ドミトリーの軍は士気の低いロシア軍二度衝突した。まずノヴホロド=シベルスキー(ロシア語: ノヴゴロド=セヴェルスキー)で勝った偽ドミトリー軍はチェルニーヒフチェルニゴフ)、プティヴリ、セフスククルスク次々占領したが、ドブリニチでの2度目の戦闘では大敗し軍は解体危機さらされた。しかし、1605年4月13日ツァーリゴドゥノフ急死したとの知らせ入り偽ドミトリー軍は辛くも立ち直ったゴドゥノフ急死で、偽ドミトリー軍の進軍阻む大きな障害なくなったロシアの兵たちはドミトリー側に寝返り始め6月1日にはモスクワボヤーレたちが新たにツァーリとして戴冠していたゴドゥノフ息子フョードル2世とその母を幽閉し、後に残虐に殺した6月20日偽ドミトリーボヤーレたちの出迎えの中、意気揚々とモスクワ入城した偽ドミトリーは、ドミトリーの母マリヤ・ナガヤと「再会」したりゴドゥノフ追放され人々恩赦与えたりした。7月21日には自分選んだ新たなモスクワ総主教の手ツァーリとして戴冠した新たな総主教指名されたイグナチー(イグナティウス)はキプロス出身ロシア派遣されギリシャ人聖職者で、リャザン主教だったときに正教会聖職者としてはじめて偽ドミトリーツァーリ認めた人物であったドミトリーによるロシアポーランドとの同盟は、1605年11月クラクフ代理立てて行われたドミトリーマリナ・ムニシュフヴナMarina Mniszechシュラフタのイェジー・ムニシェフ Jerzy Mniszech の娘、ロシアではマリーナ・ムニシェクとして知られるドミトリーポーランドにいた頃、マリナ恋に落ちている)との結婚式でさらに前進した連合の王ジグムント3世はこの結婚式賓客として招かれた。しかしこの新たなツァーリナ(皇后)はカトリックからロシア正教への改宗拒んだため、ロシア民衆多くから怒り買った新たな皇后マリナは4,000人の召使たちとともにモスクワ新郎のもとへ出発し一ヵ月後にモスクワ到着し1606年5月8日にツァーリナとして戴冠した偽ドミトリー1世統治特筆すべきものもない冴えないもので、とりたてて大きな失政もなかったが、その地位弱かったボヤーレ多く自分ドミトリーよりも大きな影響得られるはずと考え中にはツァーリの座を狙う者もいた。さらにポーランド文化的影響慎重な者も多く宮廷ドミトリーポーランドから連れてきた先進的な外国人政治家テクノクラートの力が増していくのを見てとりわけ不安を感じたすべての貴族平等だとするポーランド式の「黄金の自由」(貴族民主主義)は小貴族には支持されたが、それまで大きな権力持っていたボヤーレたちにとっては自らの利権対す脅威になりえた。ドミトリー農民に対して認めた多く権利多くボヤーレ反発買ったドミトリーモスクワ駐屯する数百人のポーランド・リトアニアから来た非正規兵(傭兵私兵)に支えられていたが、この兵士たち実質上の治外法権の状態にあり、市内犯罪行っても罰せられることがまずなかったためモスクワ市民の反発を買い、民衆の支持はシュイスキーたちに傾きはじめた、とロシアでは伝えられている。ボヤーレたちはポーランド兵やコサックらを解散させるなどしてドミトリーから手勢奪い次第ドミトリー政治的に操るようになった。これにたいしてドミトリーは妻マリナとともに来るはずのポーランド兵の増援待ちわびた。5月マリナとともに多数ポーランド兵が到着したが、有力貴族ヴァシーリー・シュイスキー率いられボヤーレたちはすでにドミトリーと親ポーランド派対す陰謀開始し、「ドミトリー同性愛者で、ロシアローマ・カトリックポーランド文化広めようとし、ロシアイエズス会ローマ教皇売ろうとしている」という噂を流していた。 皇后マリナモスクワ到着から2週間ほど経った1606年5月17日の朝、反ドミトリー陰謀をたてた者たちはクレムリン突入したドミトリーは窓から脱出しようとしたが落下して脚を折った反乱者の1人が銃でドミトリー射殺し、その死体街頭晒され、後に火葬されて灰は砲丸詰められポーランド方向向けて発射されとされるツァーリ偽ドミトリー1世治世はわずか10カ月程度しか続かなかった。ヴァシーリー・シュイスキーは自らツァーリの座に就き500人ほどのドミトリー兵士たち殺されるか牢に捕らえられる国外退去となった

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