第1の哨戒 1941年12月 - 1942年2月
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「シードラゴン (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年2月」の解説
12月30日、シードラゴンは最初の哨戒でインドシナ半島沖の南シナ海に向かった。哨戒海域では侵攻する日本船団の探索を行った。1月8日、シードラゴンはカムラン湾への航路帯を哨戒する。その2日後、敵駆逐艦を観測し、2本の魚雷を発射したもののいずれも命中しなかった。駆逐艦はそのままのコースを進んだものの、潜水艦に対する反撃は行わなかった。シードラゴンは同海域に留まり、正午の直後に船団の推進音を観測する。1時間半後に船団を視認し、最後の船に対して接近を始めた。13時直後に魚雷を発射したものの外れ、再び攻撃態勢で接近を試みた。しかしながら1時間以内に船団は安全にカムラン湾に入港した。シードラゴンは東方へ後退し、日没後に浮上して充電を行う。その後駆逐艦を観測し、シードラゴンは気づかれないように海域を離脱しようとしたものの、駆逐艦はサーチライトを照射した。シードラゴンは潜航し、駆逐艦による2度の爆雷攻撃を回避して東方へ移動した。 1月12日の午前は日本軍の哨戒機の回避に費やされた。午後に6隻の船からなる船団に接近する。しかしながら最終確認のため潜望鏡深度に浮上すると、上空に点を確認する。3発の爆弾が投下されたがシードラゴンは潜航し、再び東方に移動した。18時過ぎ、シードラゴンは浮上して先の爆撃による被害がないか調査した。幸い、塗装は多少剥がれていたものの、その他の被害は見られなかった。とはいえ、所々に赤が入った黒塗りの艦塗装は、浅い水域で潜航しても敵は容易に発見でき不利だった。そこでシードラゴンは、航空機が頻繁に哨戒しているであろう海域では、43メートル(140フィート)から61メートル(200フィート)の水深で航行することとなった。 1月14日にはバレラ岬沖を哨戒し、翌1月15日には南下して敵を求めた。そして1月16日11時15分、シードラゴンは輸送船団を発見した。しかし、潜望鏡深度にしたときに上空から発見されて爆撃され、シードラゴンは深く潜航してバレラ岬方面に戻った。それからの6日間、シードラゴンはいくつかの目標を発見したものの、運悪く魚雷は命中しなかった。1月23日の明け方、シードラゴンは4隻からなる輸送船団を発見し追跡。8時6分、シードラゴンは船団の一番船に向けて魚雷を発射。魚雷は一番船の左舷船尾に命中。続いて魚雷を2本発射したが、これは命中しなかった。三番船と四番船は東南方と西方にそれぞれ逃げ、二番船は海岸に向かって航行し、やがて船尾を沈めて停止した。シードラゴンは三番船を追い求めて浮上したが、敵航空機を発見したため、攻撃は諦め潜航した。 シードラゴンはその後4日間はインドシナ半島沿岸で哨戒し、次いでルソン島に針路を向けた。1月29日に新しい哨戒海域に到着し、スービック湾からリンガエン湾にいたる海岸沿いに哨戒した。2月1日、シードラゴンはサンフェルナンド沖で哨戒。翌2月2日早朝、シードラゴンは5隻からなる輸送船団を発見し潜航。魚雷を発射し、4番手で航行していた陸軍輸送船多摩川丸(東洋海運、6,441トン)に命中させてこれを撃沈した。攻撃後、シードラゴンは南に向かい、2月4日夜にマニラ湾に入った。22時3分、シードラゴンは艦を係留し、翌2月5日3時までに23本の魚雷、無電装置3,000基、部品のスペア4,000個を積み込んだ。作業終了後、シードラゴンは離岸。日没まで海中で待機した。日没後浮上し、コレヒドール島に接近。25名の要員を上陸させた。その中には、ルドルフ・フェビアン少佐を指揮官とする暗号解析班のメンバー17名が含まれていた。一連の作業を終え、シードラゴンは19時46分にコレヒドール島を後にしてオランダ領東インド方面に針路を向けた。2月13日、シードラゴンは45日間の行動を終えてスラバヤに帰投。その後間もなく、ジャワ島南岸のチラチャップ(英語版)に移動することとなり、2月21日に到着したが、日本軍の圧力が強まってきたため、オーストラリアに下がることが決定。3月4日にフリーマントルに到着した。
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第1の哨戒 1941年12月 - 1942年2月
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「トートグ (潜水艦)」の記事における「第1の哨戒 1941年12月 - 1942年2月」の解説
12月26日、トートグは最初の哨戒でマーシャル諸島方面に向かった。トートグはこの哨戒で、1942年1月4日にビカール環礁を偵察したのを皮切りに、ビキニ(1月6日)、ロンゲラップ(1月7日および17日)、ウォット(英語版)(1月8日)、バトおよびクェゼリン(1月9日から16日)の各環礁を偵察。クェゼリンでは5,000トン級貨物船、双発機およびトロール船を発見したが、他の環礁では目ぼしい活動は確認されなかった。1942年1月13日、トートグは敷設艦常磐あるいは迅鯨型潜水母艦と目された艦艇に対して魚雷3本を発射したが結果は確認できず、逆に制圧を受けた。2月4日、トートグは41日間の行動を終えて真珠湾に帰投。修理のためメア・アイランド海軍造船所に回航された。修理後、トートグは4月9日に同地を出航、真珠湾に戻った。
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