登山歴
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日本人女性初8000m峰8座登頂 日本人女性初世界トップ3座(エベレスト、K2、カンチェンジュンガ)登頂 日本人女性初1年以内8000m峰3座登頂 日本人女性初カンチェンジュンガ登頂 日本人女性初アンナプルナⅠ峰登頂 8000m峰18回登山 2000年 - マルディヒマール登頂。世界最年少記録(19歳)。 2002年 - アイランドピーク登頂。 2006年 - チョオユー登頂。 2008年 - メラピーク登頂。 2011年 - エベレスト8700mにて断念。 2013年 - エベレスト登頂。 2014年 - マカルー登頂。日本人女性2人目記録。 2015年 - アンナプルナI峰7900mにて断念。) 2016年 - アンナプルナI峰7500mにて断念。 2016年 - マナスル登頂。 2017年 - カンチェンジュンガ8150mにて断念。 2017年 - ナンガパルバット7300mにて断念。 2018年 - カンチェンジュンガ8300mにて断念。 2018年 - K2登頂。日本人女性2人目。 2019年 - アンナプルナI峰登頂。日本人女性初。 2019年 - カンチェンジュンガ登頂。日本人女性初。 2019年 - マナスル登頂(2回目) 2019年 -ダウラギリ7200mで断念。 2021年 春- ダウラギリ6500mで断念。 2021年-ローツェ5935mで断念。 2021年秋 - ダウラギリ登頂。
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登山歴
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2014年5月 奄美大島 タンギョの滝 第二登(最下段初登)、篠穂の滝 初登。 2015年8月 白山尾上郷川カラス谷ゴルジュ 初登。 2015年11月 銚子川岩井谷奥ノ大滝 初登。
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登山歴
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「ゲルリンデ・カルテンブルンナー」の記事における「登山歴」の解説
ゲルリンデの住む村の教会の神父は登山好きであった。ゲルリンデが彼に連れられてハイキングに出かけたのは7歳のときであった。13歳のときはロープを使用した本格的な登山を始めたが、これも神父の指南によるものであった。 1985年両親が離婚し当時14歳だったゲルリンデは10歳上の看護師をしている姉と一緒に暮らすようになる。ゲルリンデも看護師となり20歳の時に故郷から24kmほど離れたロッテンマンの病院に就職した。看護師になってからも登山は趣味となっており、1994年、24歳のときにカラコルム山脈のブロード・ピーク(世界で12番目に高い山:8051m)に挑戦し、天候の悪化により登頂は断念したものの、頂上から20m下まで到達した。このときにブロードピークの横に位置するK2を見て、ゲルリンデは強い衝撃を受けたとされるが、自分が将来その頂上に至るとは夢にも思っていなかった。父親は彼女の登山の趣味に強く反対していたが、彼女は働いて資金を貯めては海外に遠征するという生活を続け、結婚して子供を作るという選択肢を明快に否定した。登山中に遭難者の遺体を目にすることも多く、ゲルリンデは「幸せと喜びがこれほど密接に結びつくことが他にあるだろうか」と日誌に書き残している。看護婦をしていたために、人の死に接することも多く、姉は3回夫に先立たれていたので、死は生の一部なのだという考え方を持っていた。 1998年中国とネパールの国境に位置するチョー・オユーの登頂に成功。2002年にはネパールのマナスル(8163m)にも挑戦している。このとき山麓のベースキャンプで出会ったのが当時40歳のラルフ・ドゥイモビッツであり、その後2人は一緒に登山をするようになる。2003年オーストリア女性として初めてナンガ・パルバットへの登頂を成功させ、このことはオーストリアのメディアで大きく報道された。ゲルリンデはスポンサーの援助が得られるようになったので看護婦を辞めて登山家に専念して活動するようになった。スポンサーの受けも良く、講演会も毎回盛況でプロの登山家としても成功をおさめた。2006年1月、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「デスゾーンの女王」の称号をゲルリンデに贈った。2006年までに8000m級14座のうち8座に登頂成功した。 2006年にローツェにもアタックしたが、この時は途中で登頂を断念した(2009年に再アタックして成功)。標高7250mのキャンプでは一足先に登頂を断念して引き返したラルフ・ドゥイモビッツがゲルリンデを待っており、その晩にラルフがゲルリンデにプロポーズをした。2007年にはかつて登頂を断念したブロード・ピークにも登頂成功している。 2007年5月、ゲルリンデはダウラギリ(8167m)に挑戦した。1998年にフランスのシャンタル・モーデュイは同じ場所で雪崩に巻き込まれて頚骨を骨折して死亡しているので、入念に場所を検討してテントを設営したが5月13日午前9時、彼女のテントは雪崩に飲み込まれて30m流され絶壁の手前で止まった。ゲルリンデはナイフを使ってテントを切り裂き、1時間かけて雪から脱出した。隣にはスペイン人パーティー3人が設営していたが、サンティアゴ・サガステとリカルド・バレンシアの2人が雪崩に飲み込まれ1時間後にゲルリンデらによって掘り出されたが既に死亡していた。装備品を雪崩で失ったこともあり下山せざるをえなくなったが、翌年ゲルリンデはダウラギリへの登頂を成功させている。 8000m14座登頂歴 1998 - チョー・オユー 2001 - マカルー 2002 - マナスル 2003 - ナンガ・パルバット 2004 - アンナプルナ 5月28日 ラルフと竹内洋岳らと登頂 2004 - ガッシャーブルムI峰 2005 - シシャパンマ 5月7日 ラルフと竹内洋岳らと登頂 2005 - ガッシャーブルムII峰 2006 - カンチェンジュンガ 5月14日 ラルフと竹内洋岳らと登頂 2007 - ブロードピーク 2008 - ダウラギリ 2009 - ローツェ 5月2日 ラルフと竹内洋岳らと登頂 2010 - エベレスト 2011 - K2
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登山歴
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1982年、笠松美和子と共に、グランドジョラス北壁ウォーカー稜を、女性としては冬季初登攀。 1991年7月30日 東京都岳連隊(川嶋保幸隊長)としてブロードピークに無酸素登頂。チームメンバーは小西浩文、山野井泰史ら7名。 10月7日、ベルニナ山岳会隊の石坂工と共に、ヒマラヤのマカルーに無酸素登頂に成功するも、下山中に嵐に巻き込まれたため、8100m地点で二日間の露営を余儀なくされる。石坂隊員が凍死。山野井は命は助かったが、重度の凍傷によって、手の指を第二関節から先の10本全てと、足の指8本の切断の重傷を負う。 1993年7月31日 ガッシャーブルムII峰 に無酸素登頂。チームメンバーは小西浩文、山野井泰史、戸高雅史。 1994年9月4日 遠藤由加とのコンビでチョ・オユーに遠征。ヒマラヤ屈指の難ルートで知られる南西壁をアルパインスタイルで登頂。直前に別ルートで単独登頂した山野井泰史に続き南西壁の第三登(スイス・ポーランドルートの第二登)を果たす。 2002年、夫の泰史と共にヒマラヤのギャチュン・カン北壁で雪崩に遭う。この時に二人とも重度の凍傷になり、妙子はさらに指を深く切断する重症、泰史は両手の薬指と小指、右足の全ての指を切断する重傷を負う。
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登山歴
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「ヴァンダ・ルトキエヴィチ」の記事における「登山歴」の解説
自著によると、ヴァンダ・ルトキエヴィチが山に興味を持ったきっかけには、ポーランド製の重量級モーター・バイク、ユナク(英語版)が間接的に関わっている。1961年、ルトキエヴィチ18歳の夏のある日、彼女が愛車のユナクを走らせていたところ、道の途中でガス欠になってしまった。通り過ぎる車に手を振って助けを求めていたルトキエヴィチに気付き、バイクを止めたバイク乗り集団の中に、ボグダン・ヤンコフスキという男がいた。ヤンコフスキはかれこれ2年近く山登りに凝っていて、ルトキエヴィチをヤノヴィツェ・ヴィエルキェ(英語版)の近くにある山、グルィ・ソコレ山(ポーランド語版)に登ってみないかと誘い出した。 以後、ルトキエヴィチは登山を本格的に始め、毎シーズン、タトラ山脈の山に出かけてはアイゼンとピッケルに慣れ親しんだ。3年後の1964年には、初めてアルプス山脈の山に登った。1973年にはアイガー北壁の登頂(メスナー・ルート)に成功した。1978年には、同志のクルィスティナ・パルモフスカ(Krystyna Palmowska)、アンナ・チェルヴィンスカ(Anna Czerwińska)、イレナ・ケサ(Irena Kesa)とともに、初めての女性だけのパーティによるマッターホルンの冬季登頂に挑み、成功させた。 ルトキエヴィチの名前は大学在学中からポーランドの登山界で有名になっており、ポーランド共産党の国家保安調査機関の興味関心を引いた。彼らはルトキエヴィチにめざましい業績を上げさせることにより社会主義国家を宣伝しようと考え、ポーランド国内の登山家コミュニティに、彼女を体制側に引き込むよう、働きかけを行った。登山家コミュニティのリーダー的存在であったアンジェイ・ザヴァダ(ポーランド語版)は、1970年のソ連領パミール高原への遠征にルトキエヴィチを誘った。ザヴァダ率いるポーランド隊はレーニン峰(英語版)の登頂に成功したが、このときの経験はルトキエヴィチにとって愉快なものばかりではなかった。男性の登山家たちから女性という理由で対等に扱われず、また、ルトキエヴィチ自身の強情な性格もあって他の隊員と衝突した。以後、ルトキエヴィチは誰かから経済的に支援を受けると自由に登山ができないと思うようになった。 ルトキエヴィチは1975年のガッシャーブルムII峰とIII峰の登頂を目指すポーランド隊に参加した:247。ポーランド隊16人の隊長はヤヌシュ・オニシュキエヴィチ(英語版)、隊長ら7人の男性チームがII峰を、ルトキエヴィチ率いる8人の女性チームがIII峰を登頂する計画であったが、実際にはルート工作などで男女混成チームになった:247。ルトキエヴィチらはIII峰東壁にとりつき、男性チームのルート工作の援助も得ながら高度を上げ、7月11日にルトキエヴィチと隊長夫人のアリソン・チャドウィク=オニシュキエヴィチ(英語版)、隊長オニシュキエヴィチ、クシストフ・ズジトヴィエツキ(ポーランド語版)の4人でガッシャーブルムIII峰(英語版)登頂に成功した:247。当時ガッシャーブルムIII峰(7952 m)は、未踏峰の中で最も高い山であった。
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登山歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:18 UTC 版)
1992年 - 北海道襟裳岬から宗谷岬まで縦走。 1995年 - 甑島のナポレオン岩に単独で登頂(第二登)。甑島の瀬尾川(観音三滝)を沢登り。
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登山歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 03:52 UTC 版)
2016年 - 知り合いのディレクター椎葉宏治と運動不足の解消を目的に、富士山に登ったことをきっかけに登山にハマる。 2021年11月 - BS-TBS「アドベンチャー魂」の撮影で小阪健一郎や椎葉宏治らと徳島県阿南市の離島丸島の南壁の人類初登攀に成功した。
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