登山歴とは? わかりやすく解説

登山歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 09:24 UTC 版)

渡邊直子」の記事における「登山歴」の解説

日本人女性8000m峰8座登頂 日本人女性初世トップ3座(エベレスト、K2、カンチェンジュンガ登頂 日本人女性1年以内8000m峰3座登頂 日本人女性カンチェンジュンガ登頂 日本人女性アンナプルナⅠ峰登頂 8000m峰18登山 2000年 - マルディヒマール登頂世界最年少記録(19歳)。 2002年 - アイランドピーク登頂2006年 - チョオユー登頂2008年 - メラピーク登頂2011年 - エベレスト8700mにて断念2013年 - エベレスト登頂2014年 - マカルー登頂日本人女性2人記録2015年 - アンナプルナI峰7900mにて断念。) 2016年 - アンナプルナI峰7500mにて断念2016年 - マナスル登頂2017年 - カンチェンジュンガ8150mにて断念2017年 - ナンガパルバット7300mにて断念2018年 - カンチェンジュンガ8300mにて断念2018年 - K2登頂日本人女性2人目。 2019年 - アンナプルナI峰登頂日本人女性初。 2019年 - カンチェンジュンガ登頂日本人女性初。 2019年 - マナスル登頂(2回目) 2019年 -ダウラギリ7200mで断念2021年 春- ダウラギリ6500mで断念2021年-ローツェ5935mで断念2021年秋 - ダウラギリ登頂

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登山歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:17 UTC 版)

成瀬陽一」の記事における「登山歴」の解説

2014年5月 奄美大島 タンギョの滝 第二登(最下段初登)、篠穂の滝 初登2015年8月 白山尾上郷川カラスゴルジュ 初登2015年11月 銚子川岩井谷奥ノ大滝 初登

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ゲルリンデ・カルテンブルンナー」の記事における「登山歴」の解説

ゲルリンデの住む村の教会神父登山好きであったゲルリンデ彼に連れられハイキングに出かけたのは7歳のときであった13歳のときはロープ使用した本格的な登山始めたが、これも神父指南よるものであった1985年両親離婚し当時14歳だったゲルリンデ10歳上の看護師をしている姉と一緒に暮らすようになるゲルリンデ看護師となり20歳時に故郷から24kmほど離れたロッテンマンの病院就職した看護師になってからも登山趣味となっており、1994年24歳のときにカラコルム山脈ブロード・ピーク世界で12番目に高い山:8051m)に挑戦し天候の悪化により登頂断念したものの、頂上から20m下まで到達した。このときにブロードピークの横に位置するK2を見てゲルリンデは強い衝撃受けたとされるが、自分将来その頂上に至るとは夢にも思っていなかった。父親は彼女の登山趣味強く反対していたが、彼女は働いて資金を貯めては海外遠征するという生活を続け結婚して子供を作るという選択肢明快に否定した登山中に遭難者遺体目にすることも多くゲルリンデは「幸せ喜びこれほど密接に結びつくことが他にあるだろうか」と日誌書き残している。看護婦をしていたために、人の死に接することも多く、姉は3回夫に先立たれていたので、死は生の一部なのだという考え方持っていた。 1998年中国ネパール国境位置するチョー・オユー登頂成功2002年にはネパールマナスル(8163m)にも挑戦している。このとき山麓ベースキャンプ出会ったのが当時40歳ラルフ・ドゥイモビッツであり、その後2人一緒に登山をするようになる2003年オーストリア女性として初めナンガ・パルバットへの登頂成功させ、このことはオーストリアメディアで大きく報道された。ゲルリンデスポンサー援助得られるようになったので看護婦辞めて登山家専念して活動するようになったスポンサーの受けも良く講演会毎回盛況プロ登山家として成功おさめた2006年1月ドイツ雑誌デア・シュピーゲル』は「デスゾーン女王」の称号ゲルリンデ贈った2006年までに8000m級14座のうち8座に登頂成功した2006年ローツェにもアタックしたが、この時は途中で登頂断念した(2009年に再アタックして成功)。標高7250mのキャンプでは一足先に登頂断念して引き返したラルフ・ドゥイモビッツゲルリンデ待っており、その晩にラルフゲルリンデプロポーズをした。2007年にはかつて登頂断念したブロード・ピークにも登頂成功している。 2007年5月ゲルリンデダウラギリ(8167m)に挑戦した1998年フランスのシャンタル・モーデュイは同じ場所で雪崩巻き込まれ頚骨骨折して死亡しているので、入念に所を検討してテント設営した5月13日午前9時、彼女のテント雪崩飲み込まれて30m流され絶壁の手前で止まったゲルリンデナイフ使ってテント切り裂き1時間かけてから脱出した。隣にはスペイン人パーティー3人が設営していたが、サンティアゴ・サガステとリカルド・バレンシアの2人雪崩飲み込まれ1時間後にゲルリンデらによって掘り出されたが既に死亡していた。装備品雪崩失ったこともあり下山せざるをえなくなったが、翌年ゲルリンデダウラギリへの登頂成功させている。 8000m14座登頂歴 1998 - チョー・オユー 2001 - マカルー 2002 - マナスル 2003 - ナンガ・パルバット 2004 - アンナプルナ 5月28日 ラルフ竹内洋岳らと登頂 2004 - ガッシャーブルムI峰 2005 - シシャパンマ 5月7日 ラルフ竹内洋岳らと登頂 2005 - ガッシャーブルムII峰 2006 - カンチェンジュンガ 5月14日 ラルフ竹内洋岳らと登頂 2007 - ブロードピーク 2008 - ダウラギリ 2009 - ローツェ 5月2日 ラルフ竹内洋岳らと登頂 2010 - エベレスト 2011 - K2

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山野井妙子」の記事における「登山歴」の解説

1982年笠松美和子と共にグランドジョラス北壁ウォーカー稜を、女性として冬季初登攀1991年7月30日 東京都連隊川嶋保幸隊長)としてブロードピーク無酸素登頂チームメンバー小西浩文山野井泰史ら7名。 10月7日ベルニナ山岳会隊の石坂と共にヒマラヤマカルー無酸素登頂成功するも、下山中に嵐に巻き込まれたため、8100m地点二日間露営余儀なくされる石坂隊員凍死山野井は命は助かったが、重度凍傷によって、手の指を第二関節から先の10全てと、足の指8本の切断重傷を負う。 1993年7月31日 ガッシャーブルムII峰無酸素登頂チームメンバー小西浩文山野井泰史戸高雅史1994年9月4日 遠藤由加とのコンビチョ・オユー遠征ヒマラヤ屈指のルート知られる南西壁アルパインスタイル登頂直前別ルート単独登頂した山野井泰史続き南西壁第三登(スイス・ポーランドルートの第二登)を果たす。 2002年、夫の泰史と共にヒマラヤギャチュン・カン北壁雪崩遭う。この時に二人とも重度凍傷になり、妙子はさらに指を深く切断する重症、泰史は両手薬指小指右足全ての指を切断する重傷を負う。

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登山歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:16 UTC 版)

ヴァンダ・ルトキエヴィチ」の記事における「登山歴」の解説

自著によると、ヴァンダ・ルトキエヴィチが山に興味持ったきっかけには、ポーランド製重量級モーター・バイクユナク英語版)が間接的に関わっている。1961年、ルトキエヴィチ18歳の夏のある日、彼女が愛車ユナク走らせていたところ、道の途中でガス欠になってしまった。通り過ぎる車に手を振って助け求めていたルトキエヴィチに気付きバイク止めたバイク乗り集団中に、ボグダン・ヤンコフスキという男がいた。ヤンコフスキはかれこれ2年近く山登り凝っていて、ルトキエヴィチをヤノヴィツェ・ヴィエルキェ(英語版)の近くにある山、グルィ・ソコレ山(ポーランド語版)に登ってみないかと誘い出した。 以後、ルトキエヴィチは登山本格的に始め、毎シーズンタトラ山脈の山に出かけてはアイゼンピッケル慣れ親しんだ3年後1964年には、初めアルプス山脈の山に登った。1973年にはアイガー北壁登頂(メスナー・ルート)に成功した1978年には、同志のクルィスティナ・パルモフスカ(Krystyna Palmowska)、アンナ・チェルヴィンスカ(Anna Czerwińska)、イレナ・ケサ(Irena Kesa)とともに初めての女性だけのパーティによるマッターホルン冬季登頂挑み成功させた。 ルトキエヴィチの名前は大学在学中からポーランド登山界で有名になっており、ポーランド共産党国家保安調査機関興味関心引いた。彼らはルトキエヴィチにめざましい業績上げさせることにより社会主義国家宣伝しようと考えポーランド国内登山家コミュニティに、彼女を体制側引き込むよう、働きかけ行った登山家コミュニティリーダー存在であったアンジェイ・ザヴァダ(ポーランド語版)は、1970年ソ連パミール高原への遠征にルトキエヴィチを誘った。ザヴァダ率いポーランド隊はレーニン峰英語版)の登頂成功したが、このときの経験はルトキエヴィチにとって愉快なものばかりではなかった。男性登山家たちから女性という理由対等に扱われず、また、ルトキエヴィチ自身強情な性格もあって他の隊員衝突した以後、ルトキエヴィチは誰かから経済的に支援を受けると自由に登山できない思うようになった。 ルトキエヴィチは1975年ガッシャーブルムII峰III峰の登頂目指すポーランド隊に参加した:247ポーランド16人の隊長はヤヌシュ・オニシュキエヴィチ(英語版)、隊長ら7人の男性チームII峰を、ルトキエヴィチ率いる8人の女性チームIII峰を登頂する計画であったが、実際にルート工作などで男女混成チームになった:247。ルトキエヴィチらはIII峰東壁にとりつき男性チームルート工作援助も得ながら高度を上げ7月11日にルトキエヴィチと隊長夫人のアリソン・チャドウィク=オニシュキエヴィチ(英語版)、隊長オニシュキエヴィチ、クシストフ・ズジトヴィエツキ(ポーランド語版)の4人でガッシャーブルムIII峰(英語版登頂成功した:247当時ガッシャーブルムIII峰(7952 m)は、未踏峰の中で最も高い山であった

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志水哲也」の記事における「登山歴」の解説

1992年 - 北海道襟裳岬から宗谷岬まで縦走1995年 - 甑島ナポレオン岩単独登頂第二登)。甑島瀬尾川(観音三滝)を沢登り

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東野幸治」の記事における「登山歴」の解説

2016年 - 知り合いディレクター椎葉宏治と運動不足解消目的に、富士山に登ったことをきっかけ登山ハマる2021年11月 - BS-TBSアドベンチャー魂」の撮影小阪健一郎や椎葉宏治らと徳島県阿南市離島丸島南壁人類初登攀成功した

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