由緒・沿革
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社伝によると「天慶年間平良文の祀る所の六妙見の一つ。後に子孫千葉常重が新築する。あるいは飯高城主平山常時形部少輔の祖新藤太入道継空が千葉妙見に参籠し、一像をこの地に感得す。その時霊亀白蛇の瑞があり、この地を亀田蛇ケ洞と名付け、妙見山妙福寺を建てた。」とある。 平良文は平将門の叔父にあたり、承平天慶の乱では将門と共に戦ったとも、乱鎮圧のため朝廷より命を受け敵対したとも伝えられている。乱の際絶体絶命の危機になり自害の場を探していた時、妙見菩薩の声に導かれるまま辿り着いたのがこの地。その後妙見菩薩の加護を受けた平良文は出世し、その子孫千葉氏、更にその一族飯高氏へと受け継がれた。現在神社がある昌山(さかりやま)という小山は、戦国時代には飯高城(現・飯高寺)の出城の一つ飯高砦と考えられている。 明治維新の際、妙見像を妙見寺に移し、さらに天御中主命を祀り社号を飯高神社と改め村社に列す。 18世紀後半の下総地方における神社彫刻の典型例として、本殿は千葉県指定有形文化財、天井絵が描かれている拝殿及び神社周囲の二十四孝の彫刻が施された玉垣は匝瑳市指定文化財である。二十四孝の彫刻が施された玉垣は、千葉県内では当神社と成田山新勝寺、そして八千代市飯綱神社にも確認されている(玉垣彫刻は宝暦七年(1757年)彫物棟梁 前林善右衛門による)。
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由緒・沿革
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当社にまつわる縁起 伊豆諸島を開拓した祖神・事代主命(三島大明神)の御子である大三王子明神(大三皇子明神とも表記、伊豆国造祖・多祁美加々命)が、父の命の志を引き継ぎ、島々の平定のため同族の12神と共に新島を本拠にしたと伝えられる。ただし、「伊豆宿禰系図」では多祁美加々命を加理波夜須多祁比波預命の子とする。 当社の歴史 592年頃の創建とされる(ただし、正確な創祀時期は不詳)。事代主命など新島と関係のある13の神を祀る総社として創られ、「十三社大明神」と称する。 康永2年(1343年)の『伊豆国神階帳』における「第三王子並十八所御子達」の記述は、当神社と伊豆諸島の御子神達を指しているものとされる。 当初は新島村の中心部に位置したが、慶安2年(1649年)に起きた村の災火の影響で現在の場所に転社(遷座)している。享保3年(1718年)には、神祇官から神階「正一位」(極位)の宣旨をされる。また、明治6年(1873年)には近代社格制度において「郷社」に列している。現在の社殿は本殿が昭和8年(1933年)、拝殿が昭和15年(1940年)に新築されたものである。
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由緒・沿革
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創祀 延暦3年(784年)に神野郷の人々が官許を得たことにより、神世七代及び神代五代の大神らを祀ったことに始まる。創建時より暫くは「十二社大権現」と称していたとされるが、後述のように当初より十三所大明神を祀っていた可能性がある。 十三所大明神の由来 天正年間(1573年〜1592年)には、伊予国の河野道直とその子、秀道が長宗我部元親との戦いに敗れ神野庄上ヶ井(当地)に行き着いた際、一羽の霊鳥が傍を離れなかったといい、伊予国における一の宮「大山祇大神」を信奉する道直は霊鳥を大山祇の神霊と考え、神野庄(上下神野村)の人々と合議の上、高野山から許可を得て天正17年(1589年)、大山祇神(大三島明神)を先の十二社大権現に合祀した。以来、「十三社大権現」(十三所大権現)と称するに至ったと伝えられている。 一方で、康治2年(1143年)の『神野真国荘絵図』(京都神護寺所蔵)において既に「十三所大明神」と記されており、安貞2年(1228年)の『高野山衆徒置文』においても「庄内神社十三所」と記されている。また、『和歌山県神社誌』では「創建以来、十三所大明神としてきた」との記述がされている。これらのことから、天正17年の合祀の際に13の神のうちの一柱が、大山祇神と入れ替わった可能性が考えられる。 明治期の旧社格と鎮守の森の国有化 明治6年(1873年)、当社は近代社格制度における村社に列している。また、明治初期には全国の神社・寺院に対して政府より上知令が出され、祭礼に必要となる土地を除いて鎮守の森や境内地などの上地(国有化)が実施されたが、当社においても約2万4千平米あった社有地がわずか約1700平米の玉垣の内側を残すのみとなり、境内西側の社殿裏手に広がっていた鎮守の森を含め大部分が国有地となった。その後、明治18年(1885年)には風致に関わるとされる玉垣の周囲(境内の東・南・北側)と社殿の背後(鎮守の森の一部)が当社に返還され、社有地は約4000平米まで回復している。 重要文化財の指定 昭和44年(1969年)、十三神社本殿、摂社丹生神社本殿、摂社八幡神社本殿の3棟が国の重要文化財に指定された(#文化財も参照)。
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由緒沿革
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「若宮八幡神社 (豊後高田市)」の記事における「由緒沿革」の解説
国東半島の6郷のうちの来縄(くなわ)郷における宇佐神宮の別宮で、天長元年(824年)に豊前国宇佐郡の住人、大神蘊麿の母の酒井門主女に神託が下り、それを受けて仁寿2年(852年)の12月に創祀されたと伝えられる。なお、天照大神、玉祖神、品陀別命の3柱は、養老2年(718年)に豊後高田市内の字御玉に出現したという玉を神体として祀られていたという。 元亀2年(1571年)と天正7年(1579年)の二度にわたりキリシタン大名である大友宗麟らによって焼き討ちされ、天正度においては大友氏に背いた田原親貫に味方したとして大友義統から社領を没収されたが、文禄3年(1594年)に高田城城主に封じられた竹中重利により文禄年中に再興された。その後高田を領した島原藩藩主松平忠房により寛文9年(1669年)に高田の宗祠と定められ、以来歴代藩主の尊崇を受け、天保4年(1833年)には藩主松平忠侯によって社殿が造替された。 明治4年(1871年)に郷社に列し、同23年6月に県社に昇格した。なお、昭和30年(1955年)に桂川の改修のために約80メートル東方に移転している。
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由緒沿革
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「日吉神社 (福井市)」の記事における「由緒沿革」の解説
旧川合庄に含まれ、福井藩領。1823年(文政6年)の給人地方渡名寄帳に酒井与三衛門達6名の知行地とある。これら6名が中心となって神社護持に当たっていた。明治初期の氏子は63戸であった。
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