由緒・沿革とは? わかりやすく解説

由緒・沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 03:15 UTC 版)

飯高神社」の記事における「由緒・沿革」の解説

社伝によると「天慶年間平良文祀る所の六妙見一つ。後に子孫千葉常重新築する。あるいは飯高城主平山常時形部少輔の祖新藤入道継空が千葉妙見参籠し、一像をこの地に感得す。その時霊亀白蛇の瑞があり、この地を亀田ケ洞と名付け妙見山妙福寺建てた。」とある。 平良文平将門叔父にあたり承平天慶の乱では将門と共に戦ったとも、乱鎮圧のため朝廷より命を受け敵対したとも伝えられている。乱の際絶体絶命危機になり自害の場を探していた時、妙見菩薩の声に導かれるまま辿り着いたのがこの地。その後妙見菩薩加護受けた平良文出世しその子孫千葉氏、更にその一族飯高氏へと受け継がれた。現在神社がある昌山(さかりやま)という小山は、戦国時代には飯高城(現・飯高寺)の出城一つ飯高砦と考えられている。 明治維新の際、妙見像を妙見寺移し、さらに天御中主命祀り社号飯高神社改め村社列す18世紀後半下総地方における神社彫刻典型例として、本殿千葉県指定有形文化財天井絵が描かれている拝殿及び神社周囲二十四孝彫刻施され玉垣匝瑳市指定文化財である。二十四孝彫刻施され玉垣は、千葉県内では当神社成田山新勝寺、そして八千代市飯綱神社にも確認されている(玉垣彫刻宝暦七年1757年彫物棟梁 前林右衛門による)。

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由緒・沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 06:41 UTC 版)

十三社神社」の記事における「由緒・沿革」の解説

当社まつわる縁起 伊豆諸島開拓した祖神事代主命三島大明神)の御子である大三王子明神大三皇子明神とも表記伊豆国造祖・多祁美加々命)が、父の命の志を引き継ぎ島々平定のため同族12と共に新島本拠にしたと伝えられる。ただし、「伊豆宿禰系図」では多祁美加々命を加理波夜須多祁比波預命の子とする。 当社歴史 592年頃の創建とされる(ただし、正確な創祀時期不詳)。事代主命など新島と関係のある13の神を祀る総社として創られ、「十三大明神」と称する康永2年1343年)の『伊豆国神階帳』における「第三王子十八御子達」の記述は、当神社伊豆諸島御子神達を指しているものとされる当初新島村中心部位置したが、慶安2年1649年)に起きたの災火の影響現在の場所に転社(遷座)している。享保3年1718年)には、神祇官から神階正一位」(極位)の宣旨をされる。また、明治6年1873年)には近代社格制度において「郷社」に列している。現在の社殿本殿昭和8年1933年)、拝殿昭和15年1940年)に新築されたものである

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由緒・沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:25 UTC 版)

十三神社」の記事における「由緒・沿革」の解説

創祀 延暦3年784年)に神野郷の人々官許得たことにより、神世七代及び神代五代大神らを祀ったことに始まる。創建時より暫くは「十二社大権現」と称していたとされるが、後述のように当初より十三大明神祀っていた可能性がある。 十三大明神由来 天正年間1573年1592年)には、伊予国河野直とその子、秀道が長宗我部元親との戦い敗れ神野庄上ヶ井(当地)に行き着いた際、一羽の霊鳥が傍を離れなかったといい、伊予国における一の宮大山祇大神」を信奉する道直は霊鳥大山祇神霊考え神野庄(上下神野村)の人々合議の上高野山から許可得て天正17年1589年)、大山祇神大三島明神)を先の十二社大権現合祀した以来、「十三大権現」(十三大権現)と称する至った伝えられている。 一方で康治2年1143年)の『神野真国絵図』(京都神護寺所蔵)において既に「十三大明神」と記されており、安貞2年1228年)の『高野山衆徒置文』においても「庄内神社十三所」と記されている。また、和歌山県神社誌』では「創建以来十三大明神としてきた」との記述がされている。これらのことから、天正17年合祀の際に13の神のうちの一柱が、大山祇神入れ替わった可能性考えられる明治期旧社格鎮守の森国有化 明治6年1873年)、当社近代社格制度における村社列している。また、明治初期には全国神社・寺院に対して政府より上知令出され祭礼に必要となる土地除いて鎮守の森境内地などの上地(国有化)が実施されたが、当社においても約2万4千平米あった社有地がわずか約1700平米玉垣の内側を残すのみとなり、境内西側社殿裏手広がっていた鎮守の森含め大部分国有地となったその後明治18年1885年)には風致関わるとされる玉垣の周囲境内東・南北側)と社殿背後鎮守の森一部)が当社返還され社有地は約4000平米まで回復している。 重要文化財指定 昭和44年1969年)、十三神社本殿摂社丹生神社本殿摂社八幡神社本殿3棟国の重要文化財指定された(#文化財参照)。

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由緒沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/30 02:19 UTC 版)

若宮八幡神社 (豊後高田市)」の記事における「由緒沿革」の解説

国東半島の6郷のうちの来縄(くなわ)郷における宇佐神宮別宮で、天長元年824年)に豊前国宇佐郡住人大神蘊麿の母の酒井門主女に神託下り、それを受けて仁寿2年852年)の12月創祀されたと伝えられる。なお、天照大神、玉祖神品陀別命の3は、養老2年718年)に豊後高田市内の御玉出現したという玉を神体として祀られていたという。 元亀2年1571年)と天正7年1579年)の二度にわたりキリシタン大名である大友宗麟らによって焼き討ちされ、天正においては大友氏背いた田原親貫味方したとして大友義統から社領没収されたが、文禄3年1594年)に高田城城主封じられ竹中重利により文禄年中再興された。その後高田領した島原藩藩主松平忠房により寛文9年1669年)に高田の宗祠と定められ以来歴代藩主尊崇を受け、天保4年1833年)には藩主松平忠侯によって社殿造替された。 明治4年1871年)に郷社列し、同23年6月県社昇格した。なお、昭和30年1955年)に桂川改修のために約80メートル東方移転している。

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由緒沿革

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日吉神社 (福井市)」の記事における「由緒沿革」の解説

旧川合庄に含まれ福井藩領。1823年文政6年)の給人地方名寄帳酒井与三衛門達6名の知行地とある。これら6名が中心となって神社護持当たっていた。明治初期氏子63であった

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