由緒略伝とは? わかりやすく解説

由緒略伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:56 UTC 版)

勝蓮寺 (上越市)」の記事における「由緒略伝」の解説

人皇八十二代後鳥羽天皇第二皇子但馬ノ宮雅成親王隠遁し親鸞聖人の弟善性の二男善俊(或いは弟とも伝う嘉念坊と称す)は飛騨国古河住し同国白川の郷移り一宇建立す(時、弘長二年と伝う)。これ照蓮寺開闢なり。第八世明誓に二子あり。教信、明教えこれなり長子教信桑門(寺)に生れ乍ら時代風習憧れ弓馬の道好み合戦計略の事にのみ没頭す。父明誓深くこれを悲しみ屡々これを誡めしも聞かず遂に還俗して三嶋将監教信名乗り飯嶋に兵馬道場造る爰に同国白川郷牧戸城主白川郷保木脇城主)内嶋将監為之あり。三嶋将監挙動大い憤り飯嶋道場襲撃す(長亨二年戊申七月十八日)。教信敗走し行方不明となる。(教信後年発心して善心称し越中水橋草案を結ぶ) 弟明教此の山中にて自刄す。明教の室その子寿丸(後の明心)は従者市村太郎右衛門乳母家臣と共に北国加賀落ち行く途中、内嶋(内ケ島)の追手迫り来りて川を隔てて大声にて『其の正しく照蓮寺枝葉ならん男の子なら渡せ渡せ』と叫ぶ。その時乳母対岸から、亀寿丸高々抱き上げ肛門の方へ男根を引き隠し前をまくり「女児なり、女子なり」と偽り呼ばわれば追手者ども仔細なし」とて引き返せり。それより加賀落ち行き間もなく明教の忘れ形見胎内ありける生れ二児養育す。これ明心(亀寿丸)明賢(胎内ありける児)。其の後実如上人本願寺第九世)の伸言により城主内嶋と和睦なり内嶋将監の娘可美を室として迎え白川の郷に還住照蓮寺再建す。弟明賢は是れより名を清順改む。(直江津福永古文書に誓順とあるが誓は清の誤りならん)天正元年織田信長越前朝倉氏政略の際一向一揆掃討することあり其の水橋照蓮寺上杉氏本陣になる。後日上杉氏と共に直江津中嶋移り照蓮寺を建て照の字を勝に改めて「勝蓮寺」と称す。これ現在の基なり。なお、水橋より直江津移転の後水橋に寺なきため水頭人『久呂久左エ門』直江津来り郷里に再び帰らんことを懇請する事情これを許さず、娘に門徒同行随行として水橋遣わし照蓮寺再建せしむ。現在の水橋照蓮寺これなり現在の飛騨高山照蓮寺元禄十五年故あって東本願寺へ指上げ(差上)御掛所(別院)となりて現存す。なお、加賀より越中越中より越後転住の折常に随行せる門徒に金勝家勝島家あり、屋号加賀屋称し墓標又は過去帳記名しその枝葉十数当地に存す。又直江津より水橋へ娘を帰住せしめし時、同伴せる門徒直江の姓を名乗り今尚水橋七十八軒現存す。

※この「由緒略伝」の解説は、「勝蓮寺 (上越市)」の解説の一部です。
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