為朝伝説
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保元の乱で伊豆大島に流され、その地で自害した源為朝には、実際には死なずに別の地へ渡ったとする伝説が多くある。琉球に渡って、現地の女性を娶って初代琉球国王舜天をもうけたとされる話なども、その一つである。その為朝が、ポンペイ島に渡ってナンマトルを築いたという伝説もある。ただし、それはもちろん学術的に裏付けられた説ではない。
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為朝伝説
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真偽不明ながらもその豪勇から各地に為朝の伝説が残っている。 「屋形石」の地名は鎮西八郎源為朝が黒髪山の悪蛇を退治する際に蟇目の法を行ったところ、余りの強弓から矢が石に突き刺さったことから、その石にちなんでこの地を矢形石村とした、とある(松浦拾風土記)。 為朝が幼少のころを過ごしたとされる大分市内には「為朝神社」があり、為朝が霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さった石が、ご神体として祀られていた。現在の大分雄城台高校の敷地内にある。 佐賀県上峰町に、鎮西山という山城のある山があり、為朝はそこを拠点とし、またその下にある屋形原(やかたばる)という地名の場所に住んでいたとも言われている。(「肥陽軍記」より) 佐賀県上峰町の鎮西山には、五万ケ池(ごまがいけ)があり、その池の名前の由来は、為朝を攻めた敵の五万騎が為朝の弓の力でこの場所で討たれたことから、池の名前がついたと言われている。 佐賀県上峰町の鎮西山には鎮西八郎為朝の慢心を戒める逸話が残っている。九州下向依頼二十余度の戦に一度も不覚を取らなかった為朝は都までその名を轟かせており、妻にした縫姫とともに平和な日々を送っていた。ある日、屋形原(やかたばる)の鎮西城の高楼で宴が催された。宴たけなわになったころ、老兵の一人が為朝に、「弓の実力を戦場ではよく拝見するが今ここでもその腕をみてみたい」といったところ為朝は「さらば」と八人張りの強弓を四寸長い左手の腕を差し伸べ満月のごとく引きしぼり、老兵にむけて放つと、その老兵の後ろのかごの真ん中を見事に射貫いてみせた。どっとほめやかす声のやまぬうちに一同の驚きはその老兵にうつった。老兵は為朝の射た矢を振り向きざまに抜くや否やはるか遠くの鎮西城の城門めがけて投げ返すとその矢は表門の柱にぐさっとぬかって立ったという。これには為朝はじめ一同茫然自失で、それよりのち人々は、これは「天狗様が老人になって為朝の慢心を戒めたのだ」と言い伝えたという。 福岡県朝倉地域には、源為朝の墓と伝承される石塔と為朝の愛馬の墓と伝承される石塔(馬塚)に加え、全国的にも珍しい源為朝の母の墓と伝承される石塔が存在している。これらは地元の朝倉高等学校史学部による調査活動により明らかにされ、新聞などの各メディアでも報じられ話題となった。その活動内容の一部は高校HPやYouTubeにアップされている。 佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「牛津」と呼ばれるようになった。 為朝は疱瘡(天然痘)が流行した時代にも病にかからなかったといわれ疱瘡に対する守り神とする伝承が数多くある。歌川国芳画「鎮西八郎為朝」の疱瘡絵では疱瘡神から病をり患させないよう手形を受け取る為朝の絵が描かれている。このほか月岡芳年画「為朝の武威痘鬼神を退く図」(右図)などがある。 武蔵国足立郡宮内村(現在の埼玉県北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正・大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1208年)に八丈島に弥陀寺を創建した(現在の宗福寺)。太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原征伐後帰農して今に連綿と系譜が続いている。 薩摩平氏一門の阿多忠景(またはその子の阿多忠国)は、1159年(平治元年)に薩摩、大隅、日向の三国で専横したかどで追討の宣旨を受け、清盛郎党平家貞に攻められ平治元年(1159年)に「硫黄島」(鬼界ヶ島または貴海島)に流されたと伝わる。この阿多忠景(または忠国)の娘婿が為朝だったと言う伝記がある(保元物語)。 琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽は不明だが、この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この伝承に基づき、沖縄県今帰仁村の運天港に大正11年(1922年)為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。 運天の地で初確認されたハゼには、源為朝にあやかり「タメトモハゼ」という名がつけられた。命名者は黒岩恒。同様に「タメトモ」の名を冠する動植物にはタメトモマイマイ、タメトモヤスデ、タメトモユリなどがある。 鎌倉時代に現在の岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏の資料には、源為朝の遺児といわれる閉伊為頼(大嶋為家・閉伊頼基・佐々木十郎行光とも)が源頼朝より陸奥国閉伊郡・気仙郡を賜り、閉伊氏を称したとある。 信濃国伊那郡領主で江戸時代には交代寄合となった座光寺氏は、『寛政重修諸家譜』で為朝の後裔と称している。ただし、座光寺氏は諏訪氏の一族であると見られている。 源義経は本当は八男だったが、源氏の勇者の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる。 伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、井戸ができたという。この場所が現在の六角ノ井といわれている。 「雁股(かりまた)の泉」伝説:奄美群島の喜界島の小野津集落には、為朝が琉球に渡ろうとした途中にシケに遭い喜界島の沖合を漂っているときに島に住人がいるかどうかを確かめるために雁股の矢を放ち、その矢を抜き取った後から清水が湧き出たと伝えられている。 奄美群島の加計呂麻島は為朝が琉球に渡る前に上陸した地として伝わっている。為朝の息子とされる実久三次郎の墓が残っており、神社も建てられている。 河内源氏義国流に連なる今川貞世は、自著『難太平記』の中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を為朝の子であるとし、係累である足利義康が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない。 横浜市港南区上大岡東1-8付近は八郎ケ谷と呼ばれ、落人となった為朝が隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも4月25日に近隣の人々が供養している。
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