為朝伝説とは? わかりやすく解説

為朝伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 15:17 UTC 版)

ナンマトル」の記事における「為朝伝説」の解説

保元の乱伊豆大島流され、その地で自害した源為朝には、実際に死なず別の地へ渡ったとする伝説多くある。琉球渡って現地女性を娶って初代琉球国王舜天もうけたとされる話なども、その一つである。その為朝が、ポンペイ島渡ってナンマトル築いたという伝説もある。ただし、それはもちろん学術的に裏付けられた説ではない。

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為朝伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:46 UTC 版)

源為朝」の記事における「為朝伝説」の解説

真偽不明ながらもその豪勇から各地為朝伝説残っている。 「屋形石」の地名鎮西八郎源為朝黒髪山の悪退治する際に蟇目の法行ったところ、余り強弓から矢が石に突き刺さったことから、その石にちなんでこの地を矢形石村とした、とある(松浦風土記)。 為朝幼少のころを過ごしたとされる大分市内には「為朝神社」があり、為朝霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さった石が、ご神体として祀られていた。現在の大分雄城台高校敷地内にある。 佐賀県上峰町に、鎮西山という山城のある山があり、為朝はそこを拠点し、またその下にある屋形原(やかたばる)という地名の場所に住んでいたとも言われている。(「肥陽軍記」より) 佐賀県上峰町鎮西山には、五万ケ池(ごまがいけ)があり、その池の名前の由来は、為朝攻めた敵の五万騎が為朝の弓の力でこの場所で討たれたことから、池の名前がついたと言われている。 佐賀県上峰町鎮西山には鎮西八郎為朝慢心戒める逸話残っている。九州下向依頼二十余度の戦に一度不覚を取らなかった為朝は都までその名を轟かせており、妻にした縫姫とともに平和な日々送っていた。ある日屋形原(やかたばる)の鎮西城の高楼で宴が催された。宴たけなわになったころ、老兵一人為朝に、「弓の実力戦場ではよく拝見するが今ここでもその腕をみてみたい」といったところ為朝は「さらば」と八人張り強弓を四寸長い左手の腕を差し伸べ満月のごとく引きしぼり、老兵にむけて放つと、その老兵後ろのかごの真ん中見事に貫いてみせた。どっとほめやかす声のやまぬうちに一同驚きはその老兵うつった老兵為朝射た矢を振り向きざまに抜くや否やはるか遠く鎮西城の城門めがけて投げ返すとその矢は表門ぐさっとぬかって立ったという。これには為朝はじめ一同茫然自失で、それよりのち人々は、これは「天狗様老人になって為朝慢心戒めたのだ」と言い伝えたという。 福岡県朝倉地域には、源為朝の墓と伝承される石塔為朝愛馬の墓と伝承される石塔馬塚)に加え全国的にも珍しい源為朝の母の墓と伝承される石塔存在している。これらは地元朝倉高等学校史学部による調査活動により明らかにされ、新聞などの各メディアで報じられ話題となったその活動内容の一部高校HPYouTubeアップされている。 佐賀県黒髪山為朝が角が7本ある大蛇退治したという伝説残っている。その際退治した証として3枚剥がし牛に運ばせたが、あまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸埋め供養した。その場所は後の人により「牛津」と呼ばれるようになった為朝疱瘡天然痘)が流行した時代にも病にかからなかったといわれ疱瘡対す守り神とする伝承数多くある。歌川国芳画「鎮西八郎為朝」の疱瘡絵では疱瘡神から病をり患させないよう手形受け取為朝の絵が描かれている。このほか月芳年画「為朝武威鬼神を退く図」(右図)などがある。 武蔵国足立郡宮内村現在の埼玉県北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆領して大島住し永正大永の頃、小田原北条属して武州住し戦功ありて、永禄七年甲子感状賜う。その外 二筋持ち伝えり。且その頃鴻巣宮内村居住せり」とある。為朝庶子太郎丸二郎丸双子は、北条時政その旨訴え源頼朝により太郎丸大島の領主二郎丸八丈島領主任じられた。二郎丸出家し承元2年1208年)に八丈島弥陀寺創建した現在の宗福寺)。太郎丸元服をして大島太郎為家(のち為政改名)したという。戦国大名太田氏家臣団鴻巣七騎1人大島大膳亮久家がおり、小田原征伐帰農して今に連綿と系譜続いている。 薩摩平氏一門阿多忠景(またはその子阿多忠国)は、1159年平治元年)に薩摩大隅日向三国専横したかどで追討宣旨を受け、清盛郎党平家貞攻められ平治元年1159年)に「硫黄島」(鬼界ヶ島または貴海島)に流されたと伝わる。この阿多忠景(または忠国)の娘婿為朝だったと言う伝記がある(保元物語)。 琉球王国正史中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝琉球逃れ大里按司の娘と子をなし、その子初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽不明だが、この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ日琉同祖論関連づけて語られる事が多く尚氏権威付けのために創作され伝説とも考えられている。この伝に基づき沖縄県今帰仁村運天港大正11年1922年為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。 運天の地で初確認されハゼには、源為朝あやかり「タメトモハゼ」という名がつけられた。命名者黒岩恒同様にタメトモ」の名を冠する動植物にはタメトモマイマイ、タメトモヤスデ、タメトモユリなどがある。 鎌倉時代現在の岩手県宮古市本拠置いた閉伊氏資料には、源為朝遺児といわれる閉伊為頼(大嶋為家・閉伊頼基佐々木十郎行光とも)が源頼朝より陸奥国閉伊郡気仙郡賜り閉伊氏称したとある。 信濃国伊那郡領主江戸時代には交代寄合となった座光寺氏は、『寛政重修諸家譜』で為朝後裔称している。ただし、座光寺氏諏訪氏一族であると見られている。 源義経本当八男だったが、源氏勇者一人にあたる為朝遠慮して八郎ではなく源"九郎"義経名乗ったといわれる伊豆大島流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え鎌倉材木座海岸まで届き、矢が届いたころから湧き井戸ができたという。この場所が現在の六角ノ井といわれている。 「雁股かりまた)の泉」伝説奄美群島喜界島小野津集落には、為朝琉球渡ろうとした途中シケ遭い喜界島沖合漂っているときに島に住人がいるかどうか確かめるために雁股の矢を放ち、その矢を抜き取った後から清水湧き出た伝えられている。 奄美群島加計呂麻島為朝琉球に渡る前に上陸した地として伝わっている。為朝息子とされる実久三次郎の墓が残っており、神社建てられている。 河内源氏義国流に連なる今川貞世は、自著難太平記』の中で、自身足利尊氏先祖にあたる足利義兼出自為朝の子であるとし、係累である足利義康幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏家系にも学術的に認められていない横浜市港南区上大岡東1-8付近八郎ケ谷と呼ばれ落人となった為朝隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも4月25日近隣の人々供養している。

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