為朝の造形とは? わかりやすく解説

為朝の造形

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:19 UTC 版)

保元物語」の記事における「為朝の造形」の解説

『保元物語』主人公といってもいい源為朝であるが、物語史料において造形には大きな隔たりがある。物語における為朝は、保元の乱における記述だけに話をしぼっても、まさしく一騎当千勇者であり、その強弓で馬ごと鎧武者打ち抜き、わずか28の手勢のみで、清盛率い600余騎、義朝率い250余騎を退けるという活躍見せている。とくに長時間戦闘おこなった義朝勢は50人以上の死者出し重傷者も80人を超えるという有様だった。同時に為朝は兄を射殺そうとすれば可能であったのに、不孝となることを思ってためらうという、優しさ見せている。このような為朝の造形は冨倉徳次郎によって智・勇・仁の三徳兼ねそなえた理想的な武人の姿であると言われている。なお、為朝配下28騎であるのには、『史記項羽本紀影響であろう田中芳樹述べている。 一方史料では為朝記述ほとんどない『愚管抄』で「小男とされるのは、父為義言葉であるから謙遜としても、具体的な活躍の場面は残されていない。ただし、『兵範記保元元年8月27日記事では為朝捕縛した平家貞特別に恩賞あずかっており、為朝崇徳院味方した武士のなかでも特別な存在であったみなされていた可能性は高い。 また、『吾妻鏡』建久2年1191年8月1日記事には、保元の乱参加した大庭景義為朝を「吾朝無双弓矢達者」と評している。ただし大庭景義は「然れども弓箭寸法案ずるに、その涯分に過ぎるか」とし、また鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか」「この故実を存ぜざれば、忽ち命を失うべきか。勇士はただ騎馬達すべき事なり。壮士等耳の底に留むべし。老翁の説嘲哢すること莫れ」と武者騎射戦の心得述べている。『吾妻鏡』編年鎌倉時代中期以降とされることからも、この話は「騎射戦の心得」の伝授力点があり、事実断定出来ないが、しかし物語のような武勇譚が生まれ下地実際にあったのかもしれない。 なお、物語では伊豆大島流された後、鬼の子孫をしたがえた等、荒唐無稽といっていい話載せているが、流罪後の為朝については、わずかに『尊卑分脈』伊豆討たれたことが記されるのみである。

※この「為朝の造形」の解説は、「保元物語」の解説の一部です。
「為朝の造形」を含む「保元物語」の記事については、「保元物語」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「為朝の造形」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「為朝の造形」の関連用語

為朝の造形のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



為朝の造形のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの保元物語 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS