為朝の造形
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『保元物語』の主人公といってもいい源為朝であるが、物語と史料において造形には大きな隔たりがある。物語における為朝は、保元の乱における記述だけに話をしぼっても、まさしく一騎当千の勇者であり、その強弓で馬ごと鎧武者を打ち抜き、わずか28騎の手勢のみで、清盛率いる600余騎、義朝率いる250余騎を退けるという活躍を見せている。とくに長時間戦闘をおこなった義朝勢は50人以上の死者を出し、重傷者も80人を超えるという有様だった。同時に、為朝は兄を射殺そうとすれば可能であったのに、不孝となることを思ってためらうという、優しさも見せている。このような為朝の造形は冨倉徳次郎によって智・勇・仁の三徳を兼ねそなえた理想的な武人の姿であると言われている。なお、為朝の配下が28騎であるのには、『史記』項羽本紀の影響であろうと田中芳樹が述べている。 一方、史料では為朝の記述はほとんどない。『愚管抄』で「小男」とされるのは、父為義の言葉であるから謙遜としても、具体的な活躍の場面は残されていない。ただし、『兵範記』保元元年8月27日の記事では為朝を捕縛した平家貞が特別に恩賞にあずかっており、為朝が崇徳院に味方した武士のなかでも特別な存在であったとみなされていた可能性は高い。 また、『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1日の記事には、保元の乱に参加した大庭景義が為朝を「吾朝無双の弓矢の達者」と評している。ただし大庭景義は「然れども弓箭の寸法を案ずるに、その涯分に過ぎるか」とし、また「鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか」「この故実を存ぜざれば、忽ち命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。壮士等耳の底に留むべし。老翁の説嘲哢すること莫れ」と武者の騎射戦の心得を述べている。『吾妻鏡』の編年が鎌倉時代中期以降とされることからも、この話は「騎射戦の心得」の伝授に力点があり、事実と断定は出来ないが、しかし物語のような武勇譚が生まれる下地は実際にあったのかもしれない。 なお、物語では伊豆大島に流された後、鬼の子孫をしたがえた等、荒唐無稽といっていい話を載せているが、流罪後の為朝については、わずかに『尊卑分脈』に伊豆で討たれたことが記されるのみである。
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