有松町との合併以前
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1868年(明治元年)8月、尾張藩は行政組織を改編し、南方・東方・北方の三総管所を設置する。このうち知多郡横須賀村に設置されたものを南方総管所とし、桶廻間村も有松村と共にその管轄下に置かれることになる。総管所は行政・軍事に関して広範囲な権限を有していたが、各村の自治にまでは手を付けていない。桶廻間村では庄屋らの支配的地位は旧来のままで、有松村では絞取締会所による村政の運営がそのまま続いている。 しかし、1871年8月29日(明治4年7月14日)に廃藩置県が行われ、ここに名古屋藩が消滅すると同時に名古屋県が誕生する。続いて同年12月26日(旧暦11月15日)には三河国の諸県・諸地域、および尾張国知多郡が統合して額田県が成立、知多郡であった桶廻間村は有松村と共に額田県に移管されることになる。 廃藩置県以前の1871年5月22日(明治4年4月4日)に制定された戸籍法は編成単位として「区」を置くことを規定しており、これが後に大区小区制として結実していくことになるが、大区小区制は国による体系的な法令に基づいた制度ではなく、その具体的な内容も各府県の事情によって異なる様相を見せている。額田県では、翌1872年(明治5年)2月の戸籍法施行時と同時期の『戸長并副戸長規則』においてすでに大小区を設定していることが理解できる。桶廻間村は有松村と共に、額田県下では第1大区1小区に区画されている。 1872年5月15日(明治5年4月9日)、明治政府は旧来各村の支配層であった庄屋・名主・年寄を廃止し、戸長・副戸長・用掛組長などを設置するよう布告を出している。これを受けて額田県は、同様の通達を5月25日(旧暦4月19日)に出している。 名古屋県は1872年5月8日(明治5年4月2日)に「愛知県」に改称した後の同年9月、『愛知県区画章程』において、それまでの区を小区とし、新たに6の大区を設け、正副区戸長の配置と職務を規定する。そして同年12月27日(旧暦11月27日)に額田県が愛知県に編入され、翌年の1873年1月に知多郡を第7大区に指定、これにより桶廻間村は有松村と共に愛知県第7大区1小区に属することになる。 廃藩置県に始まる一連の行政改革は、幕藩体制の地域支配制度から中央集権的な地方制度への大きな転換であり、地域社会の実態を根本的に変革させることになる。とりわけ大区小区制は、村方三役や自発的組織によって長年培われた村の旧慣や自立性を無視した中央の強権的な改革として見られることが多い。事実、上からの押しつけに対する群村からの反発やサボタージュは頻繁に起こり、府県は大区小区制の趣旨を貫徹させるためにさまざまな調整策を講じながらも人民のコントロールに苦慮することになる。愛知県では、1876年(明治9年)頃に至ると、県令安場保和の強力なリーダーシップの元で、1873年(明治6年)以来混迷をきわめ遅々として進まなかった地租改正事業が本格的に軌道に乗り始める。地押丈量(土地の検査と測量)の円滑な進捗を目的とした飛地の解消、町村界の確定、村落の合併・分郷が数多く行われ、また同様の目的から同年8月21日にはこれまでの大区小区制が廃止されて新たに18の区が設けられたが、このとき、木之山村(このやまむら、現大府市)・伊右衛門新田村・又右衛門新田村(またえもんしんでんむら、同)・八ツ屋新田村(やつやしんでんむら、同)・追分新田村・追分村(おいわけむら、同)・長草村(ながくさむら、同)、桶廻間村の8村が合併して共和村が成立、桶廻間村は共和村の一部になる。この共和村への合併に際して、桶廻間村は強力な反対を示したものの愛知県に押し切られてしまったといわれる。反対の理由としては他の旧7村からは遠隔地で交通の便が悪いから、そしてかねてより人情の折り合いが悪かったからとされ、合併後には果たしてその懸念どおりになり、5年後の1881年(明治14年)に共和村から離脱、単独の桶狭間村として再び存続することになる。 1878年(明治11年)7月22日、地方三新法のひとつである郡区町村編制法が施行され、それまでの区制が撤廃され、郡・町・村が法令上の行政単位として認められることになる。1888年(明治21年)4月25日に市制および町村制が公布されたことを受け(翌1889年(明治22年)4月1日施行)、桶狭間村も法人格を持つ行政村にいったんは移行する。しかし、この法律の適用を受ける実力の無い町村は整理されることになり、桶狭間村も財政規模の小ささから単独で立村が困難であると判断した愛知県の介入を受け、再び共和村との合併問題が浮上して大いに「紛糾」する。桶狭間村は今回もやはり共和村との合併に反対の意向を再三示しており、「歴史的に名を知られる本村が一大字に転落するのは忍びがたいこと」、「地価33,180円余り・公民権者60名余りを有する本村は単独で存続するに差し支えないこと」、「先の合併では多数選出された共和村議員が数にものをいわせて横暴となり、自村に利益誘導をはかるばかりで距離が遠く交通が不便な本村を顧みなかったという現実があり、一度破綻した間柄であることから再び合併しても将来的に融和は望めないこと」などを理由として、愛知県庁には初め共和村との合併反対・単独立村を請願する。しか容易に許可が下りる気配も無く、次善の策として北接する有松村との連合組合を画策するようになり、1889年(明治22年)10月には有松村と共同で町村制116条に基づく「連合組合設定」を出願する。 桶廻間村が農業を中心とする山村であったのに対して、有松村は旧東海道沿いにあって絞業で発展した街村であったが、出自を同じくし、かつては両村で氏神を共有し、慶事弔祭などの社交上のつきあいを非常に密接になし、有松村の絞業には多くの桶廻間村民が下請けとして従事し、耕地の少なかった有松村は桶廻間村の農作物に多くを依存していたという間柄でもある。連合組合設定の理由として両者は、こうした歴史上・民俗上・経済上の結びつきを示したほかに、交通の便が良いこと、ただし合併にまで至って共に大字に転落することは忍びがたいことであるからそれぞれ村として独立しながら緩やかに連合するのが望ましいこと、などとしている。しかし共和村に押し切られる形で1892年(明治25年)9月13日に桶狭間村は共和村と合併、共和村大字桶狭間としてなる。桶狭間村はあくまで単独での立村を望んでいたが、愛知県が懸念したごとく財政が極度に逼迫するようになり、民間から公債寄付や無尽講による融通を受けたり、他村から借り入れるなどして、何とかやり繰りするありさまであったという。この頃有松村は1891年(明治24年)に開いた臨時村会で桶狭間村との合併が有益であることに満場一致で賛成するなど、しきりにラブコールを送るようになっており、名を捨てて実をとることを迫られた桶狭間村も単独立村を断念し、有松村との合併を模索するようになり、やがて共和村も分村に賛成、1893年(明治26年)5月には有松町・共和村・大字桶狭間の三者連名で町村組替願書を愛知県庁に提出、愛知県の同意にこぎ着け、11月に知多郡長より合併許可の通達を受ける。ここに有松と桶狭間の合併がかない、以降70年以上にわたり二人三脚で寄り添うようになるのである。 農村としての桶廻間村では、江戸時代にその性格が顕著になっていたように、耕地の面積に比して農家が多い状況が明治時代に入ってからも続いている。1884年(明治17年)度の資料では民有地のうち69パーセントが田畑となっており、残った原野も地味の悪い山林などであったりしたことから、新たな農地の開墾はすでに行き詰まっていたという。他方で、1873年(明治6年)7月28日には地租改正法および地租改正条例が制定(地租改正)、地券の発行に際して桶廻間村では全地積の40パーセント以上が官有地とされ、そのうち山林部分は禁裏御料が80パーセント以上を占めるようになる。江戸時代には定納山として村の共有地であった山林で、純農村であった桶廻間村の村民にとってはここでの山稼ぎも生計を構成する重要な一要素であったが、禁裏御料に編入されてからは立ち入りも禁止され、生計の一部が奪われると共に、禁裏御料の存在が耕地拡大を阻害する主要因ともなっていたことで、村民の生活への打撃はより深刻なものになってゆく。 その後1921年(大正10年)に払い下げが実現するまでの半世紀間、禁裏御料の開放は桶狭間村・大字桶狭間住民の悲願であり続けている。まず1886年(明治19年)に部分林が設立されるなどの取り組みが行われたが、あくまで農地の開墾を望んでいた住民の間では山田豊次郎らの熱心な運動が続き、やがて借用と開墾が認められたを受け、1897年(明治30年)1月からは官民有地の併せて120町(約119ヘクタール)余の開墾がスタートする。部分林設定の期限が切れた1900年(明治33年)には禁裏御料拝借権の入札が行われて多くの農民が土地を手にし、開墾のペースに拍車がかかった結果、明治時代末頃までにはほぼ完成の域に達する。そしてその10年後に払い下げが実現したことで、桶狭間の土地が名実共に桶狭間住民のものとなるのである。 なお、最初に共和村と合併していた頃、セト山には共和村長草小学校分教場ができている(位置)。1886年(明治19年)4月に小学校令が公布され、かつまた独立村になろうとする機運が渦巻いていた当時にあって、村独自の小学校を設立したいという要望も強く、1892年(明治25年)2月には知多郡長宛てに私立小学校設立願が提出されている。そして「私立桶狭間小学校」が、修業年限4年の尋常小学校として設立される。教科は「修身」・「読書」・「作文」・「書写」・「算術」・「体操」の6つを数え、教員数は1名、児童数は50名、校舎は分教場を借りたものを利用することになる。翌1893年(明治26年)、共和村大字桶狭間は有松町と合併して有松町大字桶狭間となり、私立桶狭間小学校も「有松町立有松尋常小学校桶狭間分校」に衣替している。
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