有松町との合併以前とは? わかりやすく解説

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有松町との合併以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:42 UTC 版)

桶狭間の歴史」の記事における「有松町との合併以前」の解説

1868年明治元年8月尾張藩行政組織改編し、南方東方北方の三総管所を設置するこのうち知多郡横須賀村設置されたものを南方総管所とし、廻間有松村と共にその管轄下に置かれることになる。総管所は行政・軍事に関して広範囲権限有していたが、各自治にまでは手を付けていない。廻間では庄屋らの支配的地位旧来のままで、有松村では絞取締会所による村政の運営そのまま続いている。 しかし、1871年8月29日明治4年7月14日)に廃藩置県が行われ、ここに名古屋藩消滅する同時に名古屋県誕生する続いて同年12月26日旧暦11月15日)には三河国諸県諸地域、および尾張国知多郡統合して額田県成立知多郡であった廻間有松村と共に額田県移管されることになる。 廃藩置県以前1871年5月22日明治4年4月4日)に制定され戸籍法編成単位として「区」を置くことを規定しており、これが後に大区小区制として結実していくことになるが、大区小区制は国による体系的な法令基づいた制度ではなく、その具体的な内容も各府県事情によって異な様相見せている。額田県では、翌1872年明治5年2月戸籍法施行時同時期の『戸長副戸長規則』においてすでに大小区を設定していることが理解できる廻間有松村と共に額田県下では第1大区1小区区画されている。 1872年5月15日明治5年4月9日)、明治政府旧来支配層であった庄屋名主年寄廃止し戸長副戸長・用掛組長などを設置するよう布告出している。これを受けて額田県は、同様の通達5月25日旧暦4月19日)に出している。 名古屋県1872年5月8日明治5年4月2日)に「愛知県」に改称した後の同年9月、『愛知県区画章程』において、それまでの区を小区とし、新たに6の大区設け正副戸長配置職務規定する。そして同年12月27日旧暦11月27日)に額田県愛知県編入され翌年1873年1月知多郡を第7大区指定、これにより廻間有松村と共に愛知県第7大区1小区属することになる。 廃藩置県に始まる一連の行政改革は、幕藩体制地域支配制度から中央集権的な地方制度への大きな転換であり、地域社会実態根本的に変革させることになる。とりわけ大区小区制は、村方三役自発的組織によって長年培われた旧慣自立性無視した中央の強権的改革として見られることが多い。事実、上からの押しつけ対する群からの反発サボタージュ頻繁に起こり府県大区小区制趣旨貫徹させるためにさまざまな調整策を講じながらも人民コントロール苦慮することになる。愛知県では、1876年明治9年)頃に至ると、県令安場保和強力なリーダーシップの元で、1873年明治6年以来混迷をきわめ遅々として進まなかった地租改正事業本格的に軌道に乗り始める。地押丈量土地検査測量)の円滑な進捗目的とした飛地解消町村界の確定村落合併分郷数多く行われ、また同様の目的から同年8月21日にはこれまでの大区小区制廃止され新たに18の区が設けられたが、このとき、木之山村(このやまむら、現大府市)・伊右衛門新田村又右衛門新田村(またえもんしんでんむら、同)・八ツ屋新田村(やつやしんでんむら、同)・追分新田村追分村おいわけむら、同)・長草村(ながくさむら、同)、廻間の8合併して共和村成立廻間共和村一部になる。この共和村への合併に際して廻間強力な反対示したものの愛知県押し切られてしまったといわれる反対理由としては他の旧7からは遠隔地交通の便が悪いから、そしてかねてより人情折り合い悪かったからとされ、合併後には果たしてその懸念どおりになり、5年後1881年明治14年)に共和村から離脱単独桶狭間として再び存続することになる。 1878年明治11年7月22日地方三新法のひとつである郡区町村編制法施行されそれまで区制撤廃され郡・町法令上の行政単位として認められることになる。1888年明治21年4月25日市制および町村制公布されたことを受け(翌1889年明治22年4月1日施行)、桶狭間法人格を持つ行政村にいったんは移行する。しかし、この法律適用を受ける実力の無い町村整理されることになり、桶狭間財政規模小ささから単独立村が困難であると判断した愛知県介入を受け、再び共和村との合併問題浮上して大いに「紛糾」する。桶狭間今回もやはり共和村との合併反対意向再三示しており、「歴史的に名を知られる本村一大字に転落するのは忍びがたいこと」、「地価33,180円余り公民権60余り有する本村単独存続する差し支えないこと」、「先の合併では多数選出され共和村議員が数にものをいわせて横暴となり、自利益誘導をはかるばかりで距離が遠く交通不便な本村顧みなかったという現実があり、一度破綻した間柄であることから再び合併して将来的融和望めないこと」などを理由として、愛知県庁には初め共和村との合併反対単独立村請願する。しか容易に許可下りる気配無く次善の策として北接す有松村との連合組合画策するようになり、1889年明治22年10月には有松村共同町村制116条に基づく「連合組合設定」を出願する廻間農業中心とする山村であったに対して有松村旧東海道沿いにあって絞業で発展した街村であったが、出自同じくし、かつては氏神共有し慶事弔祭などの社交上のつきあいを非常に密接になし、有松村の絞業には多く廻間村民下請けとして従事し耕地少なかった有松村廻間農作物多く依存していたという間柄でもある。連合組合設定理由として両者は、こうした歴史上民俗上・経済上の結びつき示したほかに、交通の便良いこと、ただし合併にまで至って共に大字転落することは忍びがたいことであるからそれぞれとして独立しながら緩やかに連合するのが望ましいこと、などとしている。しかし共和村押し切られる形で1892年明治25年9月13日桶狭間共和村合併共和村大字桶狭間としてなる。桶狭間はあくまで単独での立村望んでいたが、愛知県懸念したごとく財政極度に逼迫するようになり、民間から公債寄付無尽講による融通受けたり他村から借り入れるなどして、何とかやり繰りするありさまであったという。この頃有松村1891年明治24年)に開いた臨時村会桶狭間との合併有益であることに満場一致賛成するなど、しきりにラブコールを送るようになっており、名を捨てて実をとることを迫られ桶狭間単独立村断念し有松村との合併模索するようになり、やがて共和村分村賛成1893年明治26年5月には有松町共和村大字桶狭間三者連名町村組替願書愛知県庁提出愛知県同意にこぎ着け11月知多郡長より合併許可通達を受ける。ここに有松桶狭間合併がかない、以降70年以上にわたり二人三脚寄り添ううになるのである農村としての廻間では、江戸時代にその性格顕著になっていたように耕地面積比して農家が多い状況明治時代入ってからも続いている。1884年明治17年)度の資料では民有地のうち69パーセント田畑となっており、残った原野も地味の悪い山などであったりしたことから、新たな農地の開墾はすでに行き詰まっていたという。他方で、1873年明治6年7月28日には地租改正法および地租改正条例制定地租改正)、地券発行に際して廻間では全地積40パーセント以上が官有地とされ、そのうち山林部分禁裏御料80パーセント以上を占めるようになる江戸時代には定納山として共有地であった山林で、純農村であった廻間村民にとってはここでの山稼ぎ生計構成する重要な要素であったが、禁裏御料編入されてからは立ち入り禁止され生計一部奪われると共に禁裏御料存在耕地拡大阻害する要因ともなっていたことで、村民の生活への打撃はより深刻なものになってゆく。 その後1921年大正10年)に払い下げ実現するまでの半世紀間、禁裏御料開放桶狭間大字桶狭間住民悲願であり続けている。まず1886年明治19年)に部分林設立されるなどの取り組みが行われたが、あくまで農地の開墾望んでいた住民の間では山田豊次郎らの熱心な運動続き、やがて借用開墾認められたを受け、1897年明治30年1月からは官民有地併せて120町(約119ヘクタール)余の開墾スタートする部分林設定期限切れた1900年明治33年)には禁裏御料拝借入札が行われて多く農民土地を手にし、開墾ペース拍車かかった結果明治時代末頃までにはほぼ完成の域に達する。そしてその10年後に払い下げ実現したことで、桶狭間土地名実共に桶狭間住民のものとなるのである。 なお、最初に共和村合併していた頃、セト山には共和村小学校分教場ができている(位置)。1886年明治19年4月小学校令公布されかつまた独立になろうとする機運渦巻いていた当時にあって独自の小学校設立したいという要望強く1892年明治25年2月には知多郡宛て私立小学校設立願が提出されている。そして「私立桶狭間小学校」が、修業年限4年尋常小学校として設立される教科は「修身」・「読書」・「作文」・「書写」・「算術」・「体操」の6つ数え教員数は1名、児童数50名、校舎分教場借りたものを利用することになる。翌1893年明治26年)、共和村大字桶狭間有松町合併して有松町大字桶狭間となり、私立桶狭間小学校も「有松町有松尋常小学校桶狭間分校」に衣替している。

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