新たな裂け目から停滞へ (1971–1981)
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「ドイツ民主共和国」の記事における「新たな裂け目から停滞へ (1971–1981)」の解説
ウルブリヒトがホーネッカーの工作と「健康上の理由」によりSEDの第一書記と国防評議会議長の職から辞任したあと、彼は1973年8月1日に死去した。ホーネッカーは、すでに1971年6月の党大会で方針転換を決定しており、「国民の物質的・文化的な生活水準をさらに上げること」を党の「主要課題」にした。「経済政策と社会政策の両立」が中心的なスローガンになった。重点が置かれたのは、住宅建設と住宅環境の整備であった。予定では1990年までこの住宅問題は解決されることになっていた。女性の労働参加は、ワークシェアリングや産休期間の延長、保育所や幼稚園の拡充によって促進された。1976年まで最低賃金が400マルク、最低年金が200マルクのまま変わらなかったとはいえ、冷蔵庫やテレビなどの電化製品に代表される家庭向け製品に生産が集中したことで、東ドイツの生活環境は大きく変わり、豊かさへの期待も膨らんでいった。経済と消費の刺激が可能だったのは、西側からの対外債務を増大させたことも大きい。 1971年12月にホーネッカーは文化政策でも一時的に自由化する傾向を見せたが、1970年半ばから徐々に硬直していった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}もし社会主義が確固たる地位を築いているということを前提にするなら、私の考えでは芸術にも文学にもタブーはありえない。もちろん、このことは内容の問題にもスタイルの問題にも当てはまるし、一言でいえば、何が芸術的な傑作かという問題にも当てはまる。 対外関係において、ホーネッカーはウルブリヒトとの権力闘争を繰り広げていた時に主張したように、ソ連との緊密な関係を構築する方針を取り、「社会主義国家共同体のなかに着実と根を下ろすこと」を約束した。ソ連との関係は、1974年の公式見解によれば、「実際、日常生活でソ連との友好関係が現れないような場所はない」ほどに成熟していた。 1970年、西ドイツ首相のヴィリー・ブラントは、エアフルト首脳会談(ドイツ語版)を皮切りに新東方外交政策を打ち出し、東西ドイツの対話をもたらした。東西緊張緩和の背景には東ドイツが外貨を獲得しようとしたことも大きい。トランジット協定(ドイツ語版)は、東ドイツを通過する際の手続き簡略化を保証し、西ベルリンの交通路の状況を改善した。1972年には東西ドイツ基本条約が結ばれ、両国の首都(ボンと東ベルリン)に大使館に相当する(英語版)常駐代表部(ドイツ語版、英語版)(Ständige Vertretungen) を設置することが決まり、両国が平和的に共存するために相互承認が行われた。それに基づき、1973年に両国は国連に加盟した。 1975年、ヘルシンキ宣言署名により、確かに東ドイツ指導部は外交的な評価を受けたが、しかし人権に関する国際的な要求にも対処しなければならなかった。国連や全欧安全保障協力会議加盟国の立場からすれば、東ドイツが出国申請(ドイツ語版)を認めないのは監禁罪にあたるのではないかと非難した市民がいたが、その市民は1976年10月に逮捕され、「国家反逆扇動罪(ドイツ語版)」の判決を受け、一年後に西ドイツへの国外追放となった。西ドイツ政府は、1964年から1989年までのあいだに東ドイツ刑務所にいた3万3753人の政治犯に対して、合計34億マルクの囚人釈放金(ドイツ語版)を支払っていた。歴史家のシュテファン・ヴォレ(ドイツ語版)は、この件に関して、絶対王政時代のヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の傭兵売買(ドイツ語版)と全く同じであると見ている。他方で、囚人になることで国外へ脱出してしまおうという運動も広がるようになり、ホーネッカーはそれを断固として阻止しようとし、SEDの地方議会書記長に、次のような指示を与えた。 最近、西ドイツの報復主義的なグループがいわゆる西ドイツの市民権運動を組織しようと躍起になっている。……これらのグループには断固として反対すべきである。ヘルシンキ宣言や他の言い訳を持ち出して、東ドイツ国籍を解消し、西ドイツへの出国を申請する人すべてを当局は拒否する必要がある。 ホーネッカーは、そのような出国申請者を職場から解雇すること、1977年4月の刑法改正の枠組において違法とすることを命令した。 同様に1976年、ケルンでのコンサートでヴォルフ・ビーアマンは、東ドイツの幹部とその共産主義的な忠誠に対する思い切った批判を行ったことで国外追放処分となった。もっとも、かねてよりビーアマンの市民権剥奪は予定されており、その絶好の機会がたまたま来ただけであった。これによって、ホーネッカーの時代とともに始まった文化政策の開放は終了したことが鮮明になった。SED上層部にとっては予見できなかったことであるが、この市民権剥奪(ドイツ語版)に対しては、もちろん、東ドイツの有名な作家たちの抗議活動も生じ、それは大きな共感を得るものだった。しかし、1976年11月17日に12名の作家たちが抗議文書を作成し、共同署名したが、1978年5月に行われた東ドイツ作家協会(ドイツ語版)の第8回作家会議に出席したのはわずか2名であった。他の作家たちは出席許可を得なかったか、自分から諦めてしまった。 東ドイツ国家の対外的な立場は、1970年代後半には難しいものになった。西ヨーロッパでは、ソ連型の共産主義モデルとは距離を置き、自由と民主主義を擁護したユーロコミュニズムが台頭し、チェコスロバキアではヘルシンキ宣言順守を求めた人権団体憲章77が設立され、1980年代になるとソ連のアフガン侵攻に対する国際的非難が高まり、1980年、ポーランドでは独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。
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