新たな自信と支持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:11 UTC 版)
「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「新たな自信と支持」の解説
1889年1月にチャイコフスキーがサンクトペテルブルクで聴いた、彼の作品と新ロシア楽派の楽曲で構成されたプログラムによる2つの演奏会が大きな転機となった。彼はベリャーエフ・サークルの一部メンバーと良好な人間関係を維持しており、おそらく敬意も持っていたであろうが、自分が彼らの一員であると認められたことがなかったということに気付いたのである。今やこれらの演奏会の演目を分け合うようになり、彼はもはや自分が仲間外れでないとということに思い至る。彼はフォン・メックにこう綴った。思うにキュイは「私にとって個人的にひどく忌々しいが(中略)このことは私がバラキレフ、リムスキー=コルサコフ、リャードフ、グラズノフといったその楽派を代表する人物たちを敬い、愛する妨げには少しもなりませんでしたし、彼らに並ぶ形でコンサートという場に出られたことを嬉しく思う気持ちは少しも変わりませんでした。」この告白には、チャイコフスキーが心底快く自らの音楽を愛国的作曲家たちの楽曲と同時に聴かせようという意思が表れている。 この意見を述べたチャイコフスキーからは自分の音楽に対する言外の自信と、彼らの楽曲のどの作品ともうまく渡り合えるという気付きが見て取れる。どのような作品が出来てきたとしても彼に恐れることはなかったのである。また、彼は自らの意見を自分のうちだけに留めておかなかった。彼は世の中から広く自らの音楽上の敵と看做されていたグラズノフ、リャードフ、リムスキー=コルサコフの音楽に対する奮闘を公然と援助したのである。1892年11月に刊行された週刊新聞「サンクトペテルブルクの生活」(Peterburgskaia zhizn')の紙上インタビューで彼は次のように語っている。 ロシアの音楽界に広まっている見方によれば、私はある存命のロシア作曲家と対立する派閥の仲間であるという。私が愛し他の誰よりも評価している作曲家 - リムスキー=コルサコフである。(中略)一言で言うならば、音楽的な独自性は異なっていながらも、我々はひとつの道を追求しているようではないかということ、そして私は、私の側としては、そうした同じ道を目指す仲間を持てたことを誇りに思っているということだ。(中略)リャードフとグラズノフも私に敵対する者として挙げられているが、私は彼らの才能を心から愛し尊重している。 この新たに見出された自信とともに、チャイコフスキーとベリャーエフ・サークルの接触は回数を増していった。リムスキー=コルサコフは次のように記している。「1891年の冬春、チャイコフスキーがサンクトペテルブルクに来てかなり長い滞在となったが、その時が彼とベリャーエフ・サークル、とりわけグラズノフ、リャードフそして私とのより親密な付き合いの始まりであった。続く数年、チャイコフスキーは非常に頻繁に訪問してくるようになった。」
※この「新たな自信と支持」の解説は、「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の解説の一部です。
「新たな自信と支持」を含む「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事については、「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の概要を参照ください。
- 新たな自信と支持のページへのリンク