常勝西武の礎とは? わかりやすく解説

常勝西武の礎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)

広岡達朗」の記事における「常勝西武の礎」の解説

ヤクルト退団後は日本テレビ夕刊フジ野球解説者として活動1981年9月近鉄バファローズからこの年限り退任する西本幸雄後任として監督就任要請を受ける。だが、西本認めてもらえた喜び一方であまり縁の無いパシフィック・リーグ、しかも在阪球団引っ掛かり覚える。さらに、同じ在阪球団阪神タイガース球団社長小津正次郎からも声が掛かる阪神ヤクルトと同じセ・リーグで、「巨人ライバル」「打倒巨人」でやってきたこれまでの努力実現するには格好チーム考えて前向きに検討したが、契約年数合意に至らなかった。阪神伝統的に監督交代劇起こり、それに終止符を打つために広岡任期5年主張したが、小津3年を譲らず、折り合いがつかなかった。そして広島時代監督で、西武ライオンズ監督球団管理部長の根本陸夫から「お前しかいない良い選手はしっかり取ってある。行儀作法お辞儀角度までしっかり仕込んであるぞ」と誘われる1981年10月29日西武ライオンズ監督就任することが正式に発表された。5年任期契約金6000万円年俸3600万円と、当時一軍監督としては異例厚遇だった。広岡西武入り根本仕掛けだけでなく、広岡の反・巨人意識オーナー堤義明の「巨人追い付け追い越せ」の経営哲学一致した結果だった。監督としては長期的な5年契約だが、広岡自身にとっても非常に厳し契約書作成してもらう。その内容は、 広岡自身都合により退団する場合年俸はそこでカット受領済み契約金返還する休養中給料支払われない舌禍に対して厳罰処する。 といったもので、監督就任記者会見の席でこれについて聞かれると、「納得したから契約した」と語っていた。監督就任後ヘッドコーチ打撃コーチ佐藤孝夫と、1978年ヤクルトスワローズ率いて日本一になった際のコーチ招聘した。また、契約時には球団代表当時)の坂井保之に「優勝した裏方含めて年俸上げてほしい」と要望すると、「当然だよ、常識ですよ」という口約束があった。しかし、後に本当に優勝日本一達成して年俸上がらず坂井へ「上げるのが当然って言ったじゃないかというと、「そんなこと契約書書いてない。君のミスだよ」と返された。広岡監督就任決定後に聞いた話として、最初長嶋声を掛けたものの即座に断られ上田九分九厘決まっていたもの引っ繰り返され広岡への打診3番目だったという。 広岡は、西武でもヤクルト時代同様に厳し自己管理守備重視野球を行う。就任一年目前期優勝遂げると、1982年プレーオフでは後期優勝果たした日本ハムファイターズ下して球団19年ぶりのパ・リーグ優勝を果たす。同年日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で下し球団24年ぶりの日本一達成第一次黄金時代幕開け導いたプレーオフ敗れた日本ハムファイターズ監督大沢啓二は「『近鉄ロッテさえ注意すりゃあ優勝間違いねえ』と思ってたんだ。ところが蓋を開けてビックリよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が(監督就任一年目優勝なんてなかなか出来もんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたよ」と述べている。 1983年2位阪急ブレーブス17ゲーム差付け独走リーグ連覇を果たす。同年日本シリーズ対戦相手古巣巨人で、広岡巨人倒して日本一に輝くことで自分野球正しさ証明しよう取り組んできたため、待ちに待った舞台となる。巨人監督藤田元司とはかつてのチームメイトで、二人監督としての対戦は「球界盟主の座を賭けた戦い」として第7戦まで日本中の注目集めた激闘結果、4勝3敗で2年連続日本一となり、球界に「西武時代到来」と騒がれた。日本シリーズから数日後伴って軟化していたとはいえまだ対立状態だった川上訪ねて優勝伝えると、「負けりゃ良かったのに。藤田に勝たせてやれば良かったのに」と言われている。 シーズンオフ日本ハムからトレード江夏豊入団した西武側から申し入れと、大沢の「広岡の下でやった方が江夏ためになる」という意向よるものである。しかし、江夏獲得のために中継ぎ投手木村広柴田保光放出小林誠二古巣広島トレードとなり、中継ぎ投手3名が一度退団したが、このトレード広岡意向反しており、次第広岡根本フロントに対して反感を抱くようになるまた、江夏自身一匹狼性格であり、選手管理有名だった広岡との間で衝突が起こることが予想されていた。 1984年主力田淵幸一山崎裕之大田卓司ケガによる離脱不振のため、好調阪急押されペナントレースから早々脱落してしまう。そこで広岡5月20日から方針転換し、若手選手多数起用して新旧交代見据える采配行った伊東勤が正捕手となったのをはじめ、起用する選手大半若手選手切り替えて育てながら勝つ」という命題挑み3位終えたことで会心シーズンだったと語っている。シーズン終了後ヘッドコーチ退団し黒田正宏選手兼任バッテリーコーチ就任することとなった一方で田淵山崎現役引退決意江夏8月二軍落ちすると再昇格することなく西武自由契約となった江夏広岡について「オレ生活権奪った男」と語っているが、江夏あまりにもチームメイト馴染めない、結果残せないこともあって対応に苦慮した江夏11月12日球団対し退団申し入れて了承され、現役引退した江夏要望任意引退ではなく自由契約となった江夏西武退団後の1985年頃に「最近広岡さんの話をすると虫唾が走るあの人は将の器じゃない他人に責任擦り付けて自分責任取らない森さん佐藤さん1983年限り阪神移籍)と広岡さんを支えた人は西武去りロクさんもよく二軍残ったもんだ。ブチ田淵)みたいに他人悪口言わないのが広岡さんの悪口言った納得いかない監督チビ1と今度監督広岡)」と語っている。 1985年は、前年中日から二軍総合コーチとして加入していた黒江透修一軍総合コーチ回し宮田征典一軍投手コーチ長池徳士一軍打撃コーチ土井正博二軍打撃コーチ招聘するなどコーチ陣一新背番号80から91変更する田淵引退により、広岡長距離砲外国人選手渇望する筆頭としてドン・ベイラーカリフォルニア・エンゼルス)の獲得進言したが、球団打者ではなく台湾球界エース郭泰源獲得した1985年秋山幸二辻発彦工藤公康渡辺久信などの若手選手台頭により、従来寄せ集め選手中心から生え抜き選手中心チームへ姿を変え独走状態でリーグ優勝果たした広岡シーズン終盤持病痛風悪化して病気療養し、一軍総合コーチ黒江透修監督代行務め優勝決定試合では不在だった。同年日本シリーズでは、現役時代ライバル吉田率い阪神に2勝4敗で敗れ日本一逃したシーズン終了後広岡監督権限強化するようにフロント要望したが聞き入れられず、夕刊紙フロント批判繰り返したことを根本問題視すると、同年11月8日広岡辞任申し出た広岡根本に「辞めてあげましょうかと言うと根本嬉しそうに「おお、辞めてくれるか」と答えた5年契約1年残し優勝監督突然の辞任という衝撃的なのだったが、広岡自身は「相当いい仕事しているのにクビになった」と話している。辞任記者会見では、「痛風出て終盤大事な試合指揮取れなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と、球団書いたシナリオ通り辞任理由健康上の問題としたが、「4年間で三度リーグ優勝二度日本一出来過ぎとも言える成績残した自分をどうして追い出しかかったか、今でもわからない」と話しているが、一部では広岡選手対す厳し過ぎる指導言いたい放題勝って思ったより伸びない観客動員フロントとの確執挙げている。正捕手伊東同日温泉治療群馬県の上温泉病院向かっている途中で広岡辞任知り、「サービスエリアビール買って小宴会みたいになった。私のあの厳しさから解放されると思うとホッとした」と当時振り返っている。 広岡後任には長嶋古葉竹織田淵らが候補として挙がったが、同年12月5日前年限り退団していた監督として復帰し、後に黄金時代呼ばれる西武退団後はNHK野球解説者就任した

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