常勝西武の礎
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ヤクルト退団後は日本テレビ、夕刊フジの野球解説者として活動。1981年9月、近鉄バファローズからこの年限りで退任する西本幸雄の後任として監督就任の要請を受ける。だが、西本に認めてもらえた喜びの一方であまり縁の無いパシフィック・リーグ、しかも在阪球団に引っ掛かりを覚える。さらに、同じ在阪球団の阪神タイガース球団社長・小津正次郎からも声が掛かる。阪神はヤクルトと同じセ・リーグで、「巨人のライバル」「打倒・巨人」でやってきたこれまでの努力を実現するには格好のチームと考えて前向きに検討したが、契約年数で合意に至らなかった。阪神は伝統的に監督交代劇が起こり、それに終止符を打つために広岡は任期を5年を主張したが、小津が3年を譲らず、折り合いがつかなかった。そして広島時代の監督で、西武ライオンズの監督兼球団管理部長の根本陸夫から「お前しかいない。良い選手はしっかり取ってある。行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んであるぞ」と誘われる。 1981年10月29日、西武ライオンズの監督に就任することが正式に発表された。5年の任期で契約金6000万円・年俸3600万円と、当時の一軍監督としては異例の厚遇だった。広岡の西武入りは根本の仕掛けだけでなく、広岡の反・巨人意識とオーナー・堤義明の「巨人に追い付け追い越せ」の経営哲学が一致した結果だった。監督としては長期的な5年契約だが、広岡は自身にとっても非常に厳しい契約書を作成してもらう。その内容は、 広岡自身の都合により退団する場合、年俸はそこでカット。受領済みの契約金も返還する。 休養中は給料は支払われない。 舌禍に対しては厳罰を処する。 といったもので、監督就任記者会見の席でこれについて聞かれると、「納得したから契約した」と語っていた。監督就任後、ヘッドコーチに森、打撃コーチに佐藤孝夫と、1978年にヤクルトスワローズを率いて日本一になった際のコーチを招聘した。また、契約時には球団代表(当時)の坂井保之に「優勝したら裏方を含めて年俸を上げてほしい」と要望すると、「当然だよ、常識ですよ」という口約束があった。しかし、後に本当に優勝・日本一を達成しても年俸は上がらず、坂井へ「上げるのが当然って言ったじゃないか」というと、「そんなこと契約書に書いてない。君のミスだよ」と返された。広岡は監督就任決定後に聞いた話として、最初は長嶋へ声を掛けたものの即座に断られ、上田に九分九厘決まっていたものが引っ繰り返され、広岡への打診は3番目だったという。 広岡は、西武でもヤクルト時代と同様に厳しい自己管理と守備重視の野球を行う。就任一年目に前期優勝を遂げると、1982年のプレーオフでは後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して、球団19年ぶりのパ・リーグ優勝を果たす。同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で下し、球団24年ぶりの日本一を達成、第一次黄金時代の幕開けを導いた。プレーオフで敗れた日本ハムファイターズの監督・大沢啓二は「『近鉄とロッテさえ注意すりゃあ優勝は間違いねえ』と思ってたんだ。ところが蓋を開けてビックリよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が(監督就任)一年目で優勝なんてなかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたよ」と述べている。 1983年も2位・阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走でリーグ連覇を果たす。同年の日本シリーズの対戦相手は古巣・巨人で、広岡は巨人を倒して日本一に輝くことで自分の野球の正しさを証明しようと取り組んできたため、待ちに待った舞台となる。巨人監督の藤田元司とはかつてのチームメイトで、二人が監督としての対戦は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として第7戦まで日本中の注目を集めた。激闘の結果、4勝3敗で2年連続日本一となり、球界に「西武時代到来」と騒がれた。日本シリーズから数日後、森を伴って、軟化していたとはいえまだ対立状態だった川上を訪ねて優勝を伝えると、「負けりゃ良かったのに。藤田に勝たせてやれば良かったのに」と言われている。 シーズンオフ、日本ハムからトレードで江夏豊が入団した。西武側からの申し入れと、大沢の「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という意向によるものである。しかし、江夏獲得のために中継ぎ投手の木村広・柴田保光を放出、小林誠二も古巣・広島へトレードとなり、中継ぎ投手3名が一度に退団したが、このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本やフロントに対して反感を抱くようになる。また、江夏自身も一匹狼の性格であり、選手管理で有名だった広岡との間で衝突が起こることが予想されていた。 1984年は主力の田淵幸一・山崎裕之・大田卓司がケガによる離脱や不振のため、好調の阪急に押されてペナントレースから早々と脱落してしまう。そこで広岡は5月20日から方針転換し、若手選手を多数起用して新旧交代を見据える采配を行った。伊東勤が正捕手となったのをはじめ、起用する選手の大半を若手選手に切り替えて「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位で終えたことで会心のシーズンだったと語っている。シーズン終了後、ヘッドコーチの森が退団し、黒田正宏が選手兼任バッテリーコーチに就任することとなった。一方で田淵・山崎が現役引退を決意、江夏は8月に二軍落ちすると再昇格することなく西武を自由契約となった。江夏は広岡について「オレの生活権を奪った男」と語っているが、江夏があまりにもチームメイトに馴染めない、結果を残せないこともあって対応に苦慮した。江夏は11月12日、球団に対し退団を申し入れて了承され、現役を引退した。江夏の要望で任意引退ではなく、自由契約となった。江夏は西武退団後の1985年頃に「最近、広岡さんの話をすると虫唾が走る。あの人は将の器じゃない。他人に責任を擦り付けて自分は責任を取らない。森さん、佐藤さん(1983年限りで阪神へ移籍)と広岡さんを支えた人は西武を去り、ロクさんもよく二軍で残ったもんだ。ブチ(田淵)みたいに他人の悪口を言わないのが広岡さんの悪口を言った。納得いかない監督はチビ1と今度の監督(広岡)」と語っている。 1985年は、前年に中日から二軍総合コーチとして加入していた黒江透修を一軍総合コーチに回し、宮田征典を一軍投手コーチ、長池徳士を一軍打撃コーチ、土井正博を二軍打撃コーチに招聘するなどコーチ陣を一新。背番号を80から91に変更する。田淵の引退により、広岡は長距離砲の外国人選手を渇望する。筆頭としてドン・ベイラー(カリフォルニア・エンゼルス)の獲得を進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエース・郭泰源を獲得した。1985年は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手の台頭により、従来の寄せ集め選手中心から生え抜き選手中心のチームへ姿を変え、独走状態でリーグ優勝を果たした。広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化して病気療養し、一軍総合コーチの黒江透修が監督代行を務め、優勝決定試合では不在だった。同年の日本シリーズでは、現役時代のライバル・吉田率いる阪神に2勝4敗で敗れ、日本一を逃した。 シーズン終了後、広岡は監督権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙にフロント批判を繰り返したことを根本が問題視すると、同年11月8日に広岡は辞任を申し出た。広岡が根本に「辞めてあげましょうか」と言うと、根本は嬉しそうに「おお、辞めてくれるか」と答えた。5年契約を1年残し、優勝監督の突然の辞任という衝撃的なものだったが、広岡自身は「相当いい仕事しているのにクビになった」と話している。辞任記者会見では、「痛風が出て終盤の大事な試合で指揮が取れなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と、球団が書いたシナリオ通りに辞任の理由を健康上の問題としたが、「4年間で三度のリーグ優勝、二度の日本一と出来過ぎとも言える成績を残した自分をどうして追い出しにかかったか、今でもわからない」と話しているが、一部では広岡の選手に対する厳し過ぎる指導、言いたい放題、勝っても思ったより伸びない観客動員、フロントとの確執を挙げている。正捕手の伊東は同日、温泉治療で群馬県の上牧温泉病院へ向かっている途中で広岡の辞任を知り、「サービスエリアでビールを買って小宴会みたいになった。私のあの厳しさから解放されると思うとホッとした」と当時を振り返っている。 広岡の後任には長嶋、古葉竹織、田淵らが候補として挙がったが、同年12月5日に前年限りで退団していた森が監督として復帰し、後に黄金時代と呼ばれる。 西武退団後はNHKの野球解説者に就任した。
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