常勝チーム復活へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:07 UTC 版)
この強力なメンバーによりチームは劇的に強化され、スクーデリア・フェラーリは1997年から毎シーズンタイトル争いに絡むようになり、1999年から2004年までコンストラクターズタイトルを6連覇、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズタイトルを5連覇し、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを5年間保持し続けた。 チーム内ではシューマッハの絶対ナンバー1体制を敷き、勝利のためには時に非情な采配を採った。2002年オーストリアGPではルーベンス・バリチェロに勝利を譲らせるチームオーダーを命じた。 レースでの活躍以外でも、トッドは辣腕ぶりを発揮していた。セールスマンとしてフェラーリ・ロードカーの売り上げにも貢献し、各種イベントやパーティーで顧客に直接契約を持ちかける姿が見られた。特に受注が芳しくなかった612スカリエッティを拡販した。トッドはモンテゼーモロとともにスクーデリア・フェラーリの復活の立役者であり、チームの成績だけでなくフェラーリ本社の業績も上がり、エンツォ・フェラーリ死後において初めて黄金時代を享受することとなった。 モンテゼーモロが2004年にフェラーリを傘下に治めているフィアットの会長に就任し、フェラーリ本社の会長も兼務していたが、モンテゼーモロの兼務による負担削減とトッドの既述の実績も評価され、2006年にフェラーリ本社のCEOに就任した。それ以前はFIA会長マックス・モズレーの引退に関連し、トッドがFIAの役員選挙に立候補するのではないかと噂されていたことがあり、当のモズレー自身「トッドなら会長としても申し分ないだろう」という趣旨のコメントを発していた。 一方でこの頃から、モンテゼーモロの承認を得ずに契約をすることが多々あり、両者の不仲説が囁かれていた。その一例として、2007年10月16日にフェリペ・マッサの2008年末までの契約を、2010年末まで2年間延長することを発表したことがあげられる。この背景にマッサのマネージャーがトッドの息子であるニコラス・トッドであるため、トッド自身をチームに残留させるか、マッサを契約延長させるか交換条件を提示した。さらにモンテゼーモロがフェルナンド・アロンソとの契約を構想していたが、「トッドはアロンソとは不仲であるから、上記の事由に加えて契約させないための方法であった」と報道された。 2008年3月18日に、フェラーリ本社のCEOとスクーデリア・フェラーリ代表を退いた。その後はFIA・WMSC(世界モータースポーツ評議会)におけるフェラーリの代表を務め、GTカーレース、スポーツ・マネージメントを担っていたが、2009年3月にフェラーリにおける全ての役職を退いた。
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