小村の帰国と予備協定の破棄
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「桂・ハリマン協定」の記事における「小村の帰国と予備協定の破棄」の解説
一方、小村寿太郎はポーツマス条約を調印した翌日の9月6日、ニューヨークで肺尖カタルに罹って体調をくずし、その治療に専念していた。健康がある程度回復したとみられた9月27日、アメリカ東海岸を発ち、バンクーバーを経由して日本に帰国した。外務省政務局長の山座円次郎ら日本全権団随員は、条約調印書などを帯有したうえで小村より一足先に帰国した。 日本に帰る船内において小村は「韓満施設綱領」を執筆し、日露戦争とポーツマス条約によって韓国は日本の主権範囲、満洲南部は日本の勢力範囲に帰して日本はアジアに所領をもつ大陸国になったという情勢判断にもとづき、その後の韓国・満洲政策の指針とした。すなわちそれは、南満洲鉄道と長城以南やシベリア鉄道との連絡を図り、日本国内の鉄道標準軌化や関門海峡への架橋といったインフラ整備をこれにリンクさせることによって極東地域の物流ネットワークの中枢を神戸を中心とする関西地域ないし韓国の馬山あたりに移動させるという大がかりな大陸国家構想を含んでいた。 小村寿太郎が、ハリマン協定の存在を知ったのは、小村を乗せたエンプレス・オブ・インディア号が横浜港に入港した10月16日のことであったといわれる。奇しくもそれは、横浜からハリマン一行を乗せたサイベリア号がサンフランシスコに向けて出港したのと入れ違いであった。横浜入港直後、山座円次郎政務局長が小村の船室に鍵をかけ、彼に事の一部始終を説明した。それに対し、小村はこう述べたという。 さうか、こんなことがありはせぬかと思うたから、俺は脚腰も立たぬ此の病躯を提げて帰朝を急いだのだ。コンな事をやられては日露戦争の結果は水泡に帰し、百難を克服して漸く勝ち得た満洲経営の大動脈が、米国に奪はれてしまふ。ヨシ、早速これを叩き潰す。 小村としては、苦労して調印にこぎ着けたポーツマス条約のなかで、日本が獲得した数少ない経済利権のひとつが南満洲鉄道だったのであり、よりによってそれを外国に半分権利を譲ってしまうのは信じがたい愚行だと思われた。小村は外交官生活のかなり初期の段階から満洲の重要性を認識していた。本多熊太郎著『魂の外交』によれば、小村はすでに日清戦争直後から長春に注目していたという。当時はまだ、満洲に鉄道がなく、わずかな商店街があるだけであり、ロシアが進出して以降にわかに注目されるようになるが、小村はそれ以前からこの地が日本にとって重要な場所になると考えていたのである。小村がハリマン提案に反対した理由の一つは、小村が井上馨などと違って満洲での鉄道経営は収益性が高く、日本の国益につながると考えていたためであり、もう一つは、外債募集のため渡米していた金子堅太郎の情報によって、ハリマンのライバルであるモルガン系の企業から多額の融資を受ける目途が立っていたためであった。日本経済の脆弱性を知っていた小村は、こうした事態もある程度予期して、打つべき手を打っていたのである。 具体的には、1905年9月初旬、金子が旧友サミュエル・モンゴメリー・ルーズベルト(英語版)(米大統領セオドア・ルーズベルトの親戚)の訪問を受け、モンゴメリー・ルーズベルトは金子にハリマン訪日の目的を教えた後、南満洲鉄道は日本独自で運営すべきと助言し、「もし貴国政府にして、南満洲鉄道を自ら経営するの決心を有せらるるならば、余は財政的に貴国の政府を援助することができる。余は既に五個のニウヨーク銀行の頭取連と相談しその承諾を得ている。日本政府にして該鉄道を自己の手にて経営せらるるならば、かれ等は同鉄道修理再興のため、喜んで三、四万円の金額を年五分五厘の利息にてお貸しするであろう。しかしこれ等の資本家達はそれに唯一の条件を附している。それは貴国政府がレール、汽鑵車及び車両はアメリカの工場より買入れられんことである」と述べ、借款の条件は「米国で鉄道設備(railroad equipment)を購入する」というハリマンの条件よりも軽いものとした。金子が「大統領ルーズベルトは該案をいかに思考せらるるやを知りたい。貴下は大統領とも相談なされしや」と問うと、モンゴメリー・ルーズベルトは「余は昨日ワシントンに赴き、この件に関し大統領と面会した。かれは該案に賛意を表し十二分の支持を与えんことを約した」と返答した。このような背景があったため、小村は帰国後の閣議で南満洲鉄道に必要な5千万から1億円の資金をハリマンに頼らなくても別の方法で工面できる、という発言が可能になったのである。 小村は帰国直後の3日間各所をまわり、ハリマン提案には断固反対であり、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったと反省を求めつつ、その撤回を説得して歩いた。形式論からすれば、ポーツマス講和条約の規定によって南満洲鉄道の日本への譲渡は清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、桂・ハリマン協定は不適切であるということを強調した。すなわち、清国の承認を得て確実に日本のものとならない以上、その権利を半分譲るなどということはできかねるという論理を小村は持ち出したのである。 小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した。小村の報告により、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会(英語版)から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことが判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れたのである。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマン一行の乗った船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配した。サンフランシスコ総領事の上野季三郎は、サイベリア号に乗り込み、覚書中止(suspend)のメッセージをハリマンに手渡した。ハリマンは次いで、桂首相代理として仲介役添田寿一からの覚書取消の婉曲な申し込みを記した長電に接した。 小村はアメリカから帰国してわずか2週間後の11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ。日本側全権は小村寿太郎と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨(中国語版)、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ。小村・内田の実質的な交渉相手は袁世凱であった。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年の露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、元来、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった。したがって交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった。小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権の条項の遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人と清国人以外は関与できないこととなった。また、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍)。 1906年1月、日本政府はハリマンに仮協定の破棄を正式に通知した。一方のハリマンは、この協定破棄を不服として、在米特使の高橋是清を通して撤回を要求している。ハリマンは高橋に対し、「いまから十年のうちに日本は、米国との共同経営をしなかったことを悔いる時が来るであろう」と語ったといわれる。
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