小村の帰国と予備協定の破棄とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 小村の帰国と予備協定の破棄の意味・解説 

小村の帰国と予備協定の破棄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:38 UTC 版)

桂・ハリマン協定」の記事における「小村の帰国と予備協定の破棄」の解説

一方小村寿太郎ポーツマス条約調印した翌日9月6日ニューヨークで肺尖カタル罹って体調をくずし、その治療専念していた。健康がある程度回復したとみられた9月27日アメリカ東海岸発ちバンクーバー経由して日本に帰国した。外務省政務局長山座円次郎日本全権随員は、条約調印書などを帯有したうえで小村より一足先に帰国した日本帰る船内において小村は「韓満施設綱領」を執筆し日露戦争ポーツマス条約によって韓国日本主権範囲満洲南部日本勢力範囲帰して日本アジア所領をもつ大陸国になったという情勢判断もとづきその後韓国満洲政策指針とした。すなわちそれは、南満洲鉄道長城以南シベリア鉄道との連絡図り日本国内鉄道標準軌化関門海峡への架橋といったインフラ整備をこれにリンクさせることによって極東地域物流ネットワーク中枢神戸中心とする関西地域ないし韓国馬山あたりに移動させるという大がかり大陸国家構想含んでいた。 小村寿太郎が、ハリマン協定存在知ったのは、小村乗せたエンプレス・オブ・インディア号が横浜港入港した10月16日のことであったといわれる奇しくもそれは、横浜からハリマン一行乗せたサイベリア号がサンフランシスコ向けて出港したのと入れ違いであった横浜入港直後山座円次郎政務局長小村船室に鍵をかけ、彼に事の一部始終説明した。それに対し小村はこう述べたという。 さうか、こんなことがありはせぬかと思うたから、俺は脚腰も立たぬ此の病躯提げて帰朝急いだのだ。コンな事をやられて日露戦争結果水泡に帰し、百難を克服して漸く勝ち得た満洲経営大動脈が、米国に奪はれてしまふ。ヨシ、早速これを叩き潰す小村としては、苦労して調印にこぎ着けポーツマス条約のなかで、日本獲得した数少ない経済利権のひとつが南満洲鉄道だったのであり、よりによってそれを外国半分権利譲ってしまうのは信じがたい愚行だと思われた。小村外交官生活のかなり初期段階から満洲重要性認識していた。本多熊太郎著『魂の外交によれば小村はすでに日清戦争直後から長春注目していたという。当時はまだ、満洲鉄道がなく、わずかな商店街があるだけであり、ロシア進出して以降にわかに注目されるうになるが、小村それ以前からこの地が日本にとって重要な場所になると考えていたのである小村ハリマン提案反対した理由一つは、小村井上馨などと違って満洲での鉄道経営収益性高く日本国益につながると考えていたためであり、もう一つは、外債募集のため渡米していた金子堅太郎情報によって、ハリマンライバルであるモルガン系の企業から多額融資を受ける目途立っていたためであった日本経済脆弱性知っていた小村は、こうした事態ある程度予期して、打つべき手を打っていたのである具体的には、1905年9月初旬金子旧友サミュエル・モンゴメリー・ルーズベルト(英語版)(米大統領セオドア・ルーズベルト親戚)の訪問を受け、モンゴメリー・ルーズベルト金子ハリマン訪日の目的教えた後、南満洲鉄道日本独自運営すべきと助言し、「もし貴国政府にして、南満洲鉄道を自ら経営する決心を有せらるるならば、余は財政的に貴国政府援助することができる。余は既に五個のニウヨーク銀行頭取連と相談しその承諾得ている。日本政府にして該鉄道自己の手にて経営せらるるならば、かれ等は同鉄道修理再興のため、喜んで三、四万円金額を年五分五厘利息にてお貸しするであろう。しかしこれ等資本家達はそれに唯一の条件を附している。それは貴国政府レール、汽鑵車及び車両アメリカ工場より買入れられんことである」と述べ借款条件は「米国鉄道設備railroad equipment)を購入する」というハリマン条件よりも軽いものとした。金子が「大統領ルーズベルトは該案をいかに思考せらるるやを知りたい貴下大統領とも相談なされしや」と問うと、モンゴメリー・ルーズベルトは「余は昨日ワシントンに赴き、この件に関し大統領面会した。かれは該案に賛意表し十二分支持与えんことを約した」と返答したこのような背景があったため、小村帰国後の閣議南満洲鉄道必要な5千万から1億円の資金ハリマンに頼らなくても別の方法工面できる、という発言可能になったのである小村帰国直後3日各所をまわり、ハリマン提案には断固反対であり、元老たちがこれを受けたのは軽率であった反省求めつつ、その撤回説得して歩いた形式論からすればポーツマス講和条約規定によって南満洲鉄道日本への譲渡清国同意前提とするものであり、その点からしても、桂・ハリマン協定不適切であるということ強調した。すなわち、清国承認得て確実に日本のものとならない以上、その権利半分譲るなどということはできかねるという論理小村持ち出したのである小村見解らも納得し10月23日閣議において破棄決定した小村報告により、ハリマン=クーン・ローブ連合ライバルであるモルガン商会英語版)から、より有利な条件外資導入することができ、アメリカ資本満洲から排除しよう考えていたわけではなかったことが判明し伊藤井上らの元老大蔵省日銀など財務関係者破棄を受け容れたのである正式な契約書を交わす前であったころから日本政府アメリカ合衆国日本領事館打電しハリマン一行乗った船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄メッセージ手交するよう手配したサンフランシスコ総領事の上野季三郎は、サイベリア号に乗り込み覚書中止suspend)のメッセージハリマン手渡したハリマン次いで首相代理として仲介添田寿一からの覚書取消婉曲な申し込み記した長電接した小村アメリカから帰国してわずか2週間後の11月6日ポーツマス条約決定事項承認させるため清国向かい11月17日からは北京会議臨んだ日本全権小村寿太郎駐清公使内田康哉清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻首席全権とし、外務尚書の瞿禨(中国語版)、直隷総督袁世凱全権となって交渉臨んだ小村内田実質的な交渉相手袁世凱であった清国日露開戦直後内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年露清密約李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟結ばれていたにもかかわらず中立声明していたため、元来ポーツマスなされた清の頭越しロシア利権日本への譲渡認める気は全然なかった。したがって交渉ポーツマス会議以上に難航し満洲善後条約北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権条項遵守盛り込むよう図りその結果南満洲鉄道には日本人清国人以外は関与できないこととなったまた、ロシアから譲渡され鉄道沿線日本守備隊を置く権利清国認めさせた(のちの関東軍)。 1906年1月日本政府ハリマンに仮協定破棄正式に通知した一方ハリマンは、この協定破棄不服として、在米特使高橋是清通して撤回要求している。ハリマン高橋対し、「いまから十年のうちに日本は、米国との共同経営をしなかったことを悔いる時が来るであろう」と語ったといわれる

※この「小村の帰国と予備協定の破棄」の解説は、「桂・ハリマン協定」の解説の一部です。
「小村の帰国と予備協定の破棄」を含む「桂・ハリマン協定」の記事については、「桂・ハリマン協定」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小村の帰国と予備協定の破棄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小村の帰国と予備協定の破棄」の関連用語

1
6% |||||

小村の帰国と予備協定の破棄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小村の帰国と予備協定の破棄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桂・ハリマン協定 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS