大隈重信と諸外国との交渉
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「高輪談判」の記事における「大隈重信と諸外国との交渉」の解説
大量の贋貨(政府発行の悪貨を含む)の流通は物価を不安定化させ経済にも悪影響を与えた。特に一般の商人や民衆には金銀貨の真贋を見分けることは難しく、外国商人の中にも贋貨を入手して損害を受ける者も出た。 これに不満を抱いたのがイギリス公使であったハリー・パークスである。パークスは薩摩藩・長州藩を支援して明治政府の成立に協力していた経緯があるだけに、政府が極秘で改税約書に違反した悪貨を鋳造していることに気づいていたが、これを放置しておくことは日本と貿易を行うイギリス商人の利益に反することであると考えていた。従って、内乱が終結した後には直ちに明治政府が通貨改革を行うことを望んでいた。 明治2年1月7日、パークスの呼びかけでフランス・アメリカ・イタリア・ドイツの各国公使が相次いで新政府に対して「新政府(明治政府)が改税約書に違反した通貨を鋳造しているという噂があるために通貨の相場が暴落して商人たちが損害を受けている」として贋貨一掃のための措置を採る事を要求した。明治政府は突然の要求に驚いたが取りあえず外国官副知事の小松清廉(帯刀・薩摩藩家老)に対応をさせようとした。ところが、その小松が病に倒れてしまった(翌年36歳で急死)ために、病床の小松が代役として推挙したのが肥前藩出身の大隈重信であった。 大隈は直ちに外国官副知事兼参与に任じられ、更に会計官(後の大蔵省)への出向(1月12日)が命じられたのである。だが、明治天皇の東京行幸を目前に控えて大隈は直ちに京都からパークスのいる横浜に動くことは出来ず、大隈は外国官知事伊達宗城(前宇和島藩主)らと協議の結果2月5日に内外に向けて近いうちに新貨幣を発行することを発表し、パークスには神奈川県知事を兼務していた外国官判事寺島宗則が宥めるように指示している。だが、これがパークスを怒らせて1月22日と2月21日に改めて政府に事情説明を求める書簡を送っている。そこで2月30日に伊達の名において各国公使に対して政府は現在の通貨(公式にはそれが改税約書違反の悪貨とは認めなかった)を今後は鋳造せずに新貨幣の準備が整うまでは太政官札で対応していくこと、太政官以外の組織・個人はたとえ諸侯であっても貨幣を鋳造するものは処罰の対象となることを通知したのである。だが、実際には当時(版籍奉還以前)の明治政府は諸藩に対して命令を下す権限を持っておらず(従って明治政府の命令である太政官布告ではなく、要請に近い太政官達が出されていた)、特に薩摩・土佐両藩は「戦勝国」の立場を利用してその後も贋貨を鋳造続けたのである。また、会計官では不換紙幣としての太政官札の企画を推進してきた副知事の由利公正が従来の財政問題を巡る路線対立に加えて、外交問題から太政官札の位置付け変更に踏み込んだ通貨改革の流れに発展してきたことに対する不満から辞意を表明していた。更にこうした一連の遣り取りが内外に伝わると2月28日には横浜居留地の商人たちが会合を開いて明治政府に贋貨によって生じた損害賠償を求める事を決議し、更に一部の商人が今後の回収に期待して暴落した贋貨を買い占めるなど様々な思惑が動き出し始めていた。 3月18日に東京に入った大隈は各国公使と会談する一方で、贋貨整理案の策定を急いだ。その結果、太政官の許可を得次第、3月30日(末日)をもって「新通貨の発行決定・金札(太政官札)を正貨同様の通用(等価化)・金札相場の廃止」という第1弾の新方針を布告する準備が整うまでに至った。ところが、布告前日の29日になって太政官より反対論が出されて布告は中止されて、正式決定を前提として大阪に布告文を送付している途中であった飛脚が東京に呼び戻されることとなった。反対の中心人物は明治政府の実力者大久保利通であった。この日、大久保が岩倉具視に対して送った書簡に「町人という者は浅墓なものなので、少しお上がハキハキと申し付ければ、如何様にも従うものである。(要旨)」とあるように、商人は「お上」の命に唯々諾々と従う存在であるのだから、政治的基盤が未だ脆弱で「お上」としての権威を十分に持っているとは言えない明治政府が慌てて貨幣改革を行うことによって、万が一命令が行き渡らずに「お上」(=明治政府)に対する「万民の信」の無さと無力ぶりを内外に示すことになっては政権の崩壊につながると考え、通貨改革を不要不急のことと捉えていた。更に大久保は当時はまだ表にする事は避けていたものの、贋貨整理の過程で自分の出身である薩摩藩が秘かに贋貨を作っていた事実が内外に明らかになった時の反響を危惧していたのである。 この状況に大隈は落胆し、30日に現職在任のままで兼務していた会計官副知事(由利の後任)を辞任することも考えるようになる。この危機を救ったのは病気静養中で東京にいなかった木戸孝允であった。木戸はこの事情を知って、4月17日付で吉井友実に託して大久保に送った手紙において、貨幣の流通の現状は「全身不随」であり、このような状況を放置しては大政一新(明治維新)はままならないこと、そして遠回しながら薩摩藩が自ら贋貨製造の事実を明らかにしなければ、維新における薩摩藩の名声は地に落ちることになると説いた。続いて2日後には岩倉具視にも別に書簡を送り、通貨改革を行なわなければ却って「万民の信」を失い、外国からは不正の汚名を着せられることになる。として、大久保に対する説得と大隈への助力を求めたのである。ここにおいて大久保も事の重大さを認識して、吉井や鹿児島滞在中の西郷隆盛ら薩摩藩出身者と相談した上で大久保個人による形式で薩摩藩への建白書を提出して「皇国(日本)の安危興亡」を救うために「御国(薩摩藩)」が身を犠牲にすることで「天下に大義を唱える」ことが可能となることを論じて、直ちに贋貨鋳造を取りやめて事実を明らかにすることで、薩摩藩が他藩に対して優位に立てると主張したのである。また、先に中止させた大隈による通貨改革の布告への反対を撤回したため、改めて4月29日をもって交付されることとなったのである。 以後、大隈(4月17日会計官副知事専任、7月6日大蔵省発足により大蔵大輔に移行)を主導として通貨改革に関する様々な布告が出されることとなる。以下はその主なものである。 4月29日-新通貨の発行決定・金札(太政官札)を正貨同様の通用(等価化)・金札相場の廃止。 5月2日-金札・正貨の交換を禁じ(等価であるため)、「太政官札」の呼称を禁じる(太政官以外に通貨発行機関が存在するとの誤解を与えるため)。 5月28日-金札の発行量を現状の3,250万両に留めて増刷を停止する。両替商・その他商人は贋金による取引を一切禁じる(贋金が鋳造・流通している事実を内外に正式に公表する)。明治5年までに新通貨を発行して金札との交換を行うまでの間、金札の流通を妨げてはならない(金札が新通貨発行までの正貨の代替となるため)。 6月6日(太政官達)-三都府(東京・京都・大阪)にある金札を回収して各府藩県に対して禄高1万石あたり2,500両分を6・7月の2回に分けて交付するので、それに相当する正貨を所定期間までに会計官に納付すること(この場合の「正貨」には贋金が混じっている事を黙認している)。6月17日-版籍奉還 さて、この2月30日の新政府からの通告以後、一旦は相場が安定してきたために明治政府の方針を見守ることにしていたパークスは、大隈の予想以上の急激な方針とその後の独自調査で予想以上に莫大な量が流通していることが判明した諸藩による贋貨が版籍奉還後に「新政府とは無関係である」と切り捨てられる事を憂慮していた。特にイギリスは幕末以来薩摩藩と多額の取引を行っており、その際に支払われた贋金が無効と言う事になれば、イギリスの商人や企業が打撃を受け、日本の貿易は大混乱に陥る事を警戒したのである。そこでパークスは他の4国公使と協議して、7月6日に明治政府に対して覚書を送付して、政府が大隈の方針を貫徹出来るのか、そして諸藩が発行した贋貨について政府がどうするのかを確認するための協議を政府側と持つことを希望することを通知したのである。
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