型式学の提唱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 15:44 UTC 版)
この方法は、19世紀中葉にイギリスの生物学者チャールズ・ダーウィン(1809年-1882年)が唱えた進化論から強い影響を受けて生まれた。英国考古学の先がけとなったジョン・エヴァンス(1823年-1908年) やen陸軍大将(1827年–1900年)は、人類の文化もまた動物や植物の種と同様、進化を遂げていると考え、遺物の形態的進化の図式を考えた。 遺物の時間的な先後関係や相対年代判定のための方法としての型式学的研究法は、スウェーデンの考古学者オスカル・モンテリウスとその同僚ハンス・ヒルデブラント(スウェーデン語版)によって、1870年代に相次いで発表された。 それにしても、人はものを作るときに進化の法則におかれ、その法則に支配されるがままになっていることは、驚くべきことである。思うがままの形を作ることができないほど人間の自由は制限されているのだろうか。 モンテリウスはこのように述べて、人間は、何の制約もなく、勝手気ままにモノを作りだすことは不可能であり、その作品は製作者のおかれている技術的・社会的諸条件から何らかの制約を受け、一定の発展の法則(遺伝・変異・選択)にしたがって変化するという認識を示した。 1863年にストックホルムのスウェーデン国立歴史博物館に職を得たモンテリウスは、ヨーロッパ各地の博物館の収集品を見てまわるうち、遺物の形態差や装飾の違い、そしてまた、それらが生物が進化するように時系列に沿って変化していることに気づいた。いわば、人工物がまるで生物の種のように進化していることを「発見」したのである。そして、ヨーロッパの考古学界が、従来重大な関心をはらってきた人類学の領域、あるいは旧石器時代に対してよりも、新石器時代以降に関心を向けつつあったとき、言い換えれば、その関心が進化論的な図式よりも各国の国民史に移ろうとしたときに、遺物の形態進化に目を向け、考古学における型式学的研究法の採用を方向づけたのである。 モンテリウスは、産業革命を経て技術革新の著しい19世紀後半のヨーロッパにあっても、上述の諸条件からの制約が確認できるとして、鉄道客車の形態の例をあげている。1825年に開業した、蒸気機関による世界最初の公共鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で用いられた客車は、屋根には荷物台が、車両の前後には御者と従者の乗る台があり、中央側面にドアがついて、窓は車体の輪郭とパラレルな曲線をもつなど、鉄道客車に先行する駅馬車のスタイルにきわめてよく似た形態をもっていた(【図A】参照)。蒸気機関車は従来の輸送機関に比較してはるかに高速で大量の移動が可能なため、きわめて早い段階において、1つの台車のうえに複数の個室をのせた客車が登場するが、それでも、その初期においては、客車胴部がふくらむ傾向がみられ、屋根の上に貨物台が残るなど前代の馬車鉄道の諸要素を引きついでいる。つまり、鉄道車両といった近代産業の産物でさえ、意外にも過去の規制が強くはたらいていることが認められるのである(【図B】参照)。モンテリウスは、いわば進化論における生物の痕跡器官に相当するものが、技術史においても確認できるとして、技術が未開発で選択の範囲の少なかった時代にあってはいっそう前代からの影響が強くのこったであろうと考え、年代変化の系統的把握の可能性を唱えたのだった。 モンテリウスは、系統的な変化の法則を、考古資料の入念な観察を通じて具体的なかたちで示し、遺物を年代順あるいは発展順に並べる方法を完成した。すなわち、北ヨーロッパの青銅器文化における留め針の事例をはじめとして、ヨーロッパからオリエントにおける各種の遺物について、その形態・装飾・製作技術などを比較検討し、その変化をたどることによって、多くの遺物の系譜を明らかにしていった。 たとえば留め針は、本来はまったく用途の異なる針金具と弓形金具とを組み合わせたものとして青銅器時代に出現した。それが新しく留め針としての役割をあたえられると、その用途に即したかたちで形態変化が生じていくと考えられる。つまり、その用途・役割にとって直接必要でない要素(痕跡)は徐々に消失していき、継続して使用されるうち、ただ単に「留める」という用途から「見せる」という用途の発生により装飾化が進むなどの形態変化が生じたと考えられるのである。モンテリウスは、こうして北欧の留め針編年を4期に分けた。また、このようにして明らかにしていった遺物の系譜を、「型式の組列(セーリエ)」と称した。ただし、モンテリウスにとって、この型式の組列の編成は、あくまでも仮説の提示作業だったのであり、彼は同時に、それを別の方法で検証する必要があるとも述べている。 モンテリウスはまた、遺物の形態変化ばかりではなく、各段階において決まった遺物の組み合わせがあるとし、これを「一括遺物」(「まったく同時に埋められたとみなすべき状況で発見されたひとまとまりの遺物」)と称した。そして、型式の組列という作業仮説の検証にとって重視すべきなのは「一括遺物」の検討、すなわち、そこにある2つ以上の遺物がどのように共存しているかの検討だと唱えた。たとえば斧A~Eと、剣A~Fについて、その出土状況を調べ、共伴関係を検討した結果、以下のような「型式の組列」が編まれたとする。 (a) 斧 A B C D E 剣 A B C D E (b) 斧 - A - B C D 剣 A B C D E F (c) 斧 - B A E D C 剣 A B C D E F 「型式の組列」が(a)であったり、(b)であったりした場合は、「組列」相互に平行関係が認められることから、これらの型式の組列は正しいことになるが、(c)のような逆転した共存関係が認められる場合には、型式の組列の正しさは検証されないこととなり、再検討に付される必要がある。 「型式の組列」のもうひとつの検証方法としてモンテリウスが掲げたのは、地質学を応用した、遺跡におけるの層位の確認である(層位学的研究法)。遺跡における上下の層の時間的な堆積の順序(層序)を明瞭に認識し、型式の組列が層位的な上下の順序で確認されれば、その仮説の正しさが検証されたことになる。 モンテリウスは、このように、「型式の組列」を、 型式の痕跡器官の確認 一括遺物の検討 遺跡における層位の確認 という3方法で検証することによって、各地域のそれぞれの考古資料の時間的順序に秩序をあたえ、相対年代(相対編年)の確立をはかった。そして、実際にこの手法を厳密に適用することによって、デンマークのクリスチャン・トムセン(1788年-1865年)。の三時代区分法(石器時代・青銅器時代・鉄器時代)におけるような大きな時間幅ではなく、より細かな時間単位に遺物を区分できることに思いいたった。彼は、1880年代には、精力的な遺物観察と出土状況に関する厳格な検討によって、ヨーロッパの青銅器時代を6期に、続いて新石器時代を4期に、鉄器時代を10期にそれぞれ細分している。 モンテリウスの研究方法は「モンテリウス考古学」と称され、考古学研究に科学的基礎を与える画期的なものとなった。これによって、現代につながる考古学独自の方法論的基礎が確立し、そのいっぽうで初めて文献史学との方法論的区分が可能となり、独立した学問領域をもつことができるようになった。「モンテリウス考古学」の影響は時代と地域をこえて、きわめて大きく、1903年には、その方法がモンテリウス自身によって、『オリエントとヨーロッパにおける古代文明期』の第1巻「研究法」としてまとめられた。同書は1932年、浜田耕作の翻訳によって『考古学研究法』として紹介され、以後、型式学的研究法が体系的に導入されて日本考古学研究の基礎的方法論のひとつとなった。弥生土器や縄文土器の編年研究は、そのもっとも顕著な成果として知られるが、特に後者においては層位学的研究法が多く援用されている。山内清男によって体系が整備された縄文土器の「型式」編年は、世界の先史土器研究における、きわめて精緻な一例といえるものである。なお、藤本強は、モンテリウスの型式学は、次代の伝播主義的傾向のひとつの原点になったことを指摘しており、その意味では、進化論に着想を得ながら進化論批判の立場を準備する方法論であったといえる。
※この「型式学の提唱」の解説は、「型式学的研究法」の解説の一部です。
「型式学の提唱」を含む「型式学的研究法」の記事については、「型式学的研究法」の概要を参照ください。
- 型式学の提唱のページへのリンク