型式変更と投石工法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 07:42 UTC 版)
ダム建設地点が決定し、続いて型式の選定が行われた。石淵ダムは北上川上流改修計画の立案当時は重力式コンクリートダムとして計画されていたが、戦後の特殊な事情によって型式の変更を余儀なくされ、結果的に日本では最初となるロックフィルダムの施工となった。重力式コンクリートダムとして建設する場合、石淵ダムの規模で必要となるセメントの量はダム本体だけで約3万7500トンと推計されていた。だが太平洋戦争の影響で1946年当時の日本国内におけるセメント生産量は計画当時(1940年)の約605万トンに対して、6分の1弱に当たる約93万トンにまで減衰しており、その用途も進駐軍用あるいは戦災復興用の資材として優先利用されていたためダム建設に回せるだけの余裕がなかった。また運搬に掛かる輸送費用もダム本体のセメント使用量との費用対効果で比べてコストが極めて割高となり、非経済的である上に国鉄(当時)東北本線水沢駅からダム工事現場までの24キロメートル区間をトラックでピストン輸送することも、ガソリンや車両数の確保の点で困難であった。 一方ロックフィルダムの場合は日本では当時全く施工例がなかったものの、ダム付近の地質が風化に乏しい良質な石英安山岩で、かつ発破により大量の岩石が採取可能で工事現場からも至近距離に位置することからセメント量と輸送コストの節減が期待された。さらにダムを支える基礎地盤は石英粗面岩であり重力式では基礎処理に多大な時間と費用が掛かる反面、ロックフィルダムであれば十分な強度であるため基礎処理も簡易に済む。以上の観点からロックフィルダムが採用され、1946年より日本初のロックフィルダム施工が開始された。 ダムの施工においては、投石工法(投石射水工法)と呼ばれる工法が用いられた。まずダムサイト直上流部にある猿岩がロックフィルダム堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛り立てる工法である。当初は運搬に用いる蓄電車の稼働が満足ではなく、作業も不慣れであり盛り立て作業の進捗は満足ではなかったが、油圧ショベルや運搬用7トンディーゼルの導入により工程は次第に順調な推移を見せた。1950年5月12日より開始された盛り立て作業は昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行われ完成するまでの間約37万トンの岩石が投石によって積み上げられた。原石採取のための発破作業は1949年(昭和24年)6月13日から1952年(昭和27年)9月22日まで計12回実施され、使用された火薬の総量は約98トンに及んだ。そのうち1950年に実施された50トンの火薬を用いた砕石爆破の際には、日本国内の地震関係機関が共同で爆破地震動の観測を実施している。盛り立てが終わるころに投石用の橋が撤去され、上流面で水を遮るコンクリート壁の舗装や積み上げ岩石の整理作業が実施され、取水塔・排水塔・洪水吐きなどの設備も順次完成して1953年6月9日にダム本体は完成した。 ダムは着工から完成まで8年の歳月を要し、総事業費13億3600万円(当時)を投じた。戦後の混乱期の事業であったことから資材や建設機械の不足、さらには労働力の不足に絶えず悩まされた。先述した『遍歴』の著者・吉井弥七は石淵ダム建設に従事したが、11月には早くもダム工事現場は時雨に見舞われ、真冬には一晩で1メートル以上の積雪となることもあったという。また従事する労務者の安全管理という概念に乏しい時代で、頭部保護の保安帽を着用する労務者はなく作業着すら統一されていなかった。さらには労働力不足を補うため服役囚が工事に従事する状況であったと吉井は自著で述べている。厳しい環境の中で労務者はどぶろくを飲んだりして英気を養ったが、酒のつまみに死んだウサギを調理して食べた職員が野兎病に罹患するなどのハプニングもあった。こうした厳しい労務環境の中で延べ181万人の労務者が建設に従事し、ダムは完成する。
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