土器発祥の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:36 UTC 版)
1947年から1952年にかけて行われたチェコ(当時はチェコスロバキア)のモラビア地方南部のドルニー・ヴェストニツェ(英語版)の発掘調査では、後期旧石器時代のオーリニャック文化の遺跡から、動物の姿をかたどった素焼きの土製品や女人像などが発見されており、粘土を素焼きにすると硬質で水に溶けない物質が作られることを、既に紀元前2万8000年(約3万年前)の人類の一部は知っていたことが明らかになった。また、2012年、北京大学(中華人民共和国)や米国などの研究チームが「世界最古の土器」が出土したと発表したとの報道がなされた。報道によれば、場所は江西省の洞窟であり、土器は、焦げ跡とみられる炭化物の付着からみて調理のために使用されたものと推定されている。 土器,紅陶杯,興隆窪文化,新石器時代 豬, 陶器,興隆窪文化,新石器時代 三腳杯, 陶器, 滿洲文化, 新石器時代 熊, 黑陶, 興隆窪文化, 新石器時代 三凹陶臉, 新石器時代早期 四耳陶罐,夏家店文化, 新石器時代 大三脚杯,陶器、夏家店文化、新石器時代 紅陶杯,夏家店文化、新石器時代 土器の発明が、いつ、どこで行われたかについての詳細は依然不明であり、それが継続的に行われるようになった年代と地域についても同様であって、今後の資料の増加とデータの蓄積を待つほかないが、少なくとも土器の発明地が一地方に限られず、何か所かに及ぶことは確実である。かつては、最初の土器は中東地域で発生して各地に伝播したという一元説が有力であったが、今日では多元説の方が有力になっている。 小林達雄は、土器の発明地は大きく分けて地球上に少なくとも3か所あったと述べている。一つは、日本列島を含む東アジアの地であり、もう一つはメソポタミアを中心とする西アジア地域、そして、アメリカ大陸である。それぞれの間に直接的な関係は認めがたく、相互に独立して別個に土器の発明がなされたと考えられる。また、上述したドルニー・ヴェストニツェの調査例を重視する見地からは、ヨーロッパでは後期旧石器時代に既に土器も作られていたのではないかとの疑問も提起されている。土器の発明には、焚き火の際に粘土をそのなかに投げ込んだり、粘土面にできた水たまりに焼石を投げ込んだところ、投げ込み過ぎて水が全て蒸発し、粘土が硬化したなどという偶発的な出来事が関与したものと考えられ、その意味では地球上のどこで土器が発明されてもおかしくはないわけである。 西アジア最古の土器は、イラク国境に近いイランのガンジ・ダレ(英語版)出土の土器が放射性炭素年代測定で約1万年前と報告されている。この土器についての研究者の見解は、9000年前ないし8000年前とするものが主流である。西アジアの土器においては、土器出現の過程が詳細に把握されており、大多数の研究者もおよそ9000年前の時期を結論づけていて、この発生年代が今後大きく変動することはないとみられている。アメリカ大陸では、アマゾン川流域において古い年代の土器が確認されているが、遡っても7500年前程度と推定されている。こちらは、もっと古い年代を示す土器が今後現れる可能性がないとはいえないが、ただし、1万年前を超えるような古さには至らないだろうと予想される。 ところが、日本列島を含む東アジアでは1万年前(紀元前8000年)を超えるような土器が多数見つかっている。1970年代には、長崎県佐世保市の福井洞窟出土の土器が1万2000年前から1万年前頃のものといわれ、当時は、日本最古というばかりでなく世界最古の土器といわれた。また、同じ佐世保市で麻生優らが調査した泉福寺洞窟出土の豆粒文土器には1万3000年前〜1万2000年前という年代があてられて世界最古の土器であるとみられた。縄文時代草創期に属する最古級の土器はその後も次々に日本列島各地から見つかっており、神奈川県大和市の上野遺跡では関東ローム層の上部から無文土器が出土して土器の登場がいっそう古くなる可能性が示され、新潟県十日町市の壬遺跡でも無文土器が出土した。 近年では、放射性炭素年代測定に改良が加えられ、従来より誤差が少なく、試料が微量でも測定可能なAMS法が開発され、さらに、その測定年代の誤差を補正して相当な精度に絞り込む較正値が算定可能となった。それによれば、青森県外ヶ浜町に所在する大平山元I遺跡出土の土器は 1万6500年前 - 1万5500年前 という暦年年代較正値を示している。大平山元I遺跡では、後期旧石器時代の長者久保・神子柴石器群と無文土器とが共伴しており、同じような状況は茨城県ひたちなか市の後野遺跡でも確認されている。したがって、大平山元Iと後野の2つの遺跡から出土した土器が現在のところ、日本で最も古い土器とみなされている。日本列島においては、土器の初現は氷河期の最中、農耕の起源とは無関係であることが明らかになっており、従来の農耕・牧畜に基礎づけられる「新石器革命」については、地域ごとによって異なった様相を呈することが示唆されている。なお、北海道地方では、帯広市の大正3遺跡出土の爪形文土器が現状では最も古く、1万4000年前 - 1万3000年前 の年代値が得られている。 近年、ロシア極東地域や中国でも、日本の初期土器群に匹敵する古さを示す土器が続々と発見されている。ロシア極東部の沿海州地方では、アムール川下流域に位置するガーシャ遺跡、ゴンチヤールカ1遺跡、フーミー遺跡などでオシポフカ文化に共伴して出土した土器群が1万年以上前のものと考えられ、アムール中流域ではノヴォペトロフカ遺跡と支流のゼヤ川・セレムジャ川流域に位置するグロマトゥーハ遺跡、ウスチ・ウリマー遺跡で約1万2000年前という年代があたえられており、とりわけ、ガーシャ遺跡やグロマトゥーハ遺跡出土の土器のなかには1万3000年以上前にさかのぼると考えられるものも出土している。極東地域出土の初期の土器群は平底を呈したものが多く、また、石棒など「第二の道具」を伴う遺跡もあって定着性の高い居住形態が考えられる。この地域では、オシポフカ文化の後は、コンドン文化、マルィシェボ文化、ボズネセノフカ文化へと推移する。 一方、シベリア東部では、細石刃石器群を出土するウスチ・カレンガ遺跡、ウスチ・キャフタ遺跡、スツジェンノイエ1遺跡などで初期の土器が出土しており、尖底土器が多く、いずれも沿海州の各遺跡とは型式が異なっている。この中ではウスチ・キャフタ遺跡出土の土器が古く、1万2000年前〜1万1000年前の年代が想定されている。これらの地での土器もまた煮炊き具であったと考えられるが、しかし、それは当地の植生や気候を考慮すると、必ずしも日本列島のように植物資源の利用拡大ということには結びつかなかったと考えられる。寒冷地に住む人びとにとって長らく、高カロリーで保存のきく魚油や獣脂が何よりも食糧として重要であったことをふまえると、魚介の調理といった用途ばかりではなく、それよりもむしろ、魚油・獣脂の抽出のためにこそ用いられたのではないかという仮説がロシアでも日本でも提唱されている。大貫静夫によれば、シベリアの土器の使用者は漂泊する食料採集民、極東・沿海州の土器の使用者は定着的な食料採集民の性格が濃厚であるという。 中国にあっては、東北部吉林省の後套木嘎遺跡出土の 約1万2800年前 -1万1200年前の土器が、北部で河北省徐水県の南荘頭遺跡や北京市の転年遺跡から約1万年前の土器が出土しているほか、南部で江西省万年県の仙人洞・仙人洞東・仙人洞西・吊頭環の各遺跡から約1万5000年前、1万6000年前、あるいはそれ以上古い年代を示す土器が出土している。ただし、これらの遺跡出土土器については年代測定法の詳細が不明なものも多くみられる。また、湖南省道県の玉蟾岩遺跡、広西チワン族自治区柳州市の大龍潭鯉魚嘴遺跡、同自治区桂林市の甑皮岩遺跡(中国語版)などでも古い年代を示す土器が出土しており、これらはAMS法やβ線法により年代測定がなされている。とりわけ桂林市の廟岩洞穴遺跡(中国語版)から出土した土器はAMS法で測定された結果、1万5000年以上前の年代が呈示されている。中国南部の出現期土器は、縄文を施した丸底土器が特徴的で、大貫静夫によれば、その担い手は農耕民的な性格を有する(大貫の見解は、土器出現の機能的な理由にも差違があったことが含意されており、東アジアの3地域、すなわち中国、シベリア、沿海州の各地域がそれぞれ別個の理由で土器を出現させたことを示唆している)。また、土器出現期には、前段階から継続する洞穴遺跡以外に貝塚が多数出現するといった変化が生じており、稲作開始の可能性が指摘される遺跡もある。ここでもやはり、日本列島とはやや異なる様相を呈しながらも、生活革命と呼びうるような大変化が生じているのである。 とはいえ、日本以外では出現期土器群の出土資料そのものがまだ少なく、考古資料としては断片的であり、考古学的な編年体系が十分に確立していない点に大きな問題があり、個々の遺物の年代測定の結果も決して鵜呑みにはできないこともまた指摘されている。いずれにしても、人類における土器利用の始まりと最初の定着は東アジアにおいてであり、日本列島以外にも中国南部やロシア沿海州地域にも起源地が想定できるところから、土器発生論そのものもまた、新しい局面を迎えていることは確かである。
※この「土器発祥の地」の解説は、「土器」の解説の一部です。
「土器発祥の地」を含む「土器」の記事については、「土器」の概要を参照ください。
- 土器発祥の地のページへのリンク