植物資源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:18 UTC 版)
北海道から九州にかけての縄文時代の遺跡からは、コメ・オオムギなどの穀物や畑跡が確認されており、穀物の原始的な栽培や堅果類の半栽培がおこなわれていたことはほぼ確実である。早期から中期に原始的な畑作が伝わった際には、南回りと北回りの異なるルートがあったと考えられている。 以下に能城 & 佐々木 (2014, pp. 41–42) による下宅部遺跡(東京都)に類する東日本の集落における森林・植物資源の管理・利用の描写を要約する。 集落の周辺には食料源であるクリや漆液を齎すウルシの林があり、その外側には二次林・一次林があった。それらの林においては木材のほか、落ち葉・落ち枝・蔓・種実・地下茎・シダ・ササなども採取・利用された。集落周辺や二次林の中の開けた場所では、マメの類やアサが栽培された。川沿いの一次林では、トチノキやクルミを採取し、水域の施設では種実や木・繊維製品を水に浸けて加工した。近隣で手に入らない食料・素材を遠方の一次林から調達することもあった。 クリ林の人為的な形成は、前・中期の集落周辺で確認されている。東日本においては、クリ材が選択的に利用されており、このことからもクリ林が継続的に管理・利用されていたことが伺える。下宅部遺跡などにおいては後期以降、構造物に占めるクリの割合が低下するが、これは耐用年数が短くても構わない小型の構造物においては間に合わせの木材も組み合わせて使うなど、構造物の目的に応じて樹種を使い分けていたためと考えられる。クリが選択的に用いられていた理由は、打製石斧での伐採に適していたことなどによると考えられる。クリと同様アク抜きを必要としないオニグルミに加え、中期以降にはアク抜きを必要とするコナラやトチノキの種実も利用されるようになる。とくに後・晩期には、ヤチダモ・ハンノキ主体の低地林が形成にともない、水辺近くに集落が形成され、水場にアク抜きなどをおこなう加工施設を構築するようになった(水場遺構)。ウルシは早期前後に中国大陸より移入され、縄文時代をつうじて資源管理がおこなわれ、漆液を採取し漆器の製作に利用したほか、木材としても利用していたと考えられる。西日本における種実などの利用については2014年現在断片的にしか判明していないが、クリ・ウルシの代わりにイチイガシを中心に据えた森林の管理・利用がおこなわれていた可能性が高い。 アサは草創期から出土例があり、最も早いものとしては、鳥浜貝塚における縄類が挙げられ、縄文前期には果実を煮沸していたことが示されている。中国原産のシソ・エゴマは、早期から晩期にかけて継続的に確認されており、とくにエゴマについては栽培されていた可能性が高い。エゴマは非食用油としても用いられるが、長沢宏昌は食用として利用されていたと推測している。ササゲ属アズキ亜属やダイズといったマメ類は、中期中葉以降に栽培されていた可能性が高く、後期には大型化したマメが東北から九州にかけて拡散している。その他、ヒョウタン・ゴボウ・シロザ・アブラナ・キリ・@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ウリ[要出典]などの外来植物も確認されており栽培されていたと考えられる。 イネ・オオムギ・コムギといったイネ科植物については、晩期終末までに伝来していたことはほぼ確実であり、後期に畑作物の一つとして伝来していた可能性もある。後述するように、稲作は中期以前に遡るとする見解もあるが評価は分かれており、伝来期の古代米が水稲・陸稲・水陸未分化稲のいずれであったか、農法・立地が焼畑・常畑・水田・湿地のいずれであったかについても、議論の決着はついていない。イネは単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ・ダイズなども混作されており[要出典]、畑作・稲作と並行して堅果類も弥生時代に至るまで継続して利用されていた。 北部九州の後・晩期遺跡の遺物では、焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている[出典無効]。福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析[出典無効]、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも同じく後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。
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