公園の歴史
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7世紀頃 - 亀鶴古墳群が作られたと推測されている。 1364年 - 細川頼之が八幡池(現在の宮池)を大改修する。八幡池の南限は現在のさくら並木の堤塘であったとされる。 明治はじめ頃 - 競馬場になっていたとされている。 1913年(大正2年) - 香川新報社(現在の四国新聞社)主催「讃岐十景」入選。 1921年(大正10年) - 「長尾町立公園」へ指定。「公園保勝会」結成。 1927年(昭和2年) - 国立公園調査委員であった田村林学博士と猪瀬技師が公園を視察。「名園たる資格あり」と推賞された。 1929年(昭和4年)4月7日 - 衆議院議員小西和(瀬戸内海論著者)が公園入口に「櫻ノ碑」を建てる。 1931年(昭和6年) - 香川県治水山林会より「森林植物見本林」として指定された。 1932年(昭和7年) - 長尾町と公園保勝会が香川県立公園指定の請願運動を開始。満州事変や日中戦争により運動は中止された。 1947年(昭和22年)1月 - 「荒廃した名園を復興させる議」が起こる。公園保勝会が県立公園指定へ請願する必要上で「長尾観光協会」と改称の上再発足し、指定運動を展開した。結果、香川県土木部山下・中村両技師の下調査が実施された。 1947年(昭和22年)3月 - 実地調査に香川県藤田土木部長・黒瀬観光課長・松井監理課長・村尾渉外部主事・江口観光会社専務・中村技師ほか一行が来園。調査結果県議会に上程することになり、各議員の実地調査を受けることとなる。 1947年(昭和22年)11月 - 香川県議会篠原土木委員長ほか一行20名が実地調査に来園。しかし県議会の審議は進展しなかった。この年、香川県主催の「新讃岐十景」の選考があり、再度入選した。 1949年(昭和24年)4月 - 桜の開花期を迎えるに当たり関係者が来園。 1949年(昭和24年)5月24日 - 香川県議会において満場一致で香川県立公園に指定されることに決定。 1949年(昭和24年)6月1日 - 香川県立公園に指定。 1954年(昭和29年)4月19日 - 第1回花火大会が長尾町商工会主催で開催され、以降毎年開催された。 1959年(昭和34年)4月15日 - 第6会花火大会が開催されたが、翌年よりやむなく中止された。 1960年(昭和35年)5月 - 長尾町の補助により長尾町商工会が中心となり、桜など数百本を補植。 1967年(昭和42年)3月 - 中堤南側護岸工事と桜の植え替えを実施。亀島一帯を客土して休憩亭を設置。 1967年(昭和42年)11月28日 - 香川県議会観光事業促進特別委員会一行10名が来園調査。 1969年(昭和44年)3月 - 中堤北側護岸工事と桜の植え替えを実施。 1979年(昭和54年) - 新堤改良工事を実施。 1980年(昭和55年) - 南側池の一部を埋め駐車場を設置。 1980年(昭和55年) - 花鎮祭(はなしずめのまつり)が行われる。以後毎年4月上旬に行われている。 1995年(平成7年)3月 - 新堤改良工事竣工。亀鶴橋架設。 2014年(平成24年) - 宮池のさくら橋より東から北方面に延びる遊歩道の整備工事が行われている(写真参照)。これにより、池を一周できるようになる予定。
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公園の歴史
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砂丘及び周辺地域は、1932年ナショナル・モニュメントに指定された。2000年11月22日、アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは、究極の国立公園としてのステイタスを狙って「2000年グレートサンドデューンズ国立公園と保護地域法(Great Sand Dunes National Park and Preserve Act of 2000)に署名した。ザ・ネイチャー・コンサーヴァンシー(Nature Conservancy)の協力により、連邦政府はバッカ牧場の97,000エーカーを購入し、公園の面積を実際に3倍にした。この購入には、以前は公園の北と西側に接していた牧場の地域を含み、また、14,000フィートを超える高山、キット・カーソン山(Kit Carson Mountain) (14,165)、チャレンジャー・ポイント(Challenger Point) (14,080)と南への排水路を含む。購入された土地は3つの地区に分けられ、サングレ・ド・クリスト山脈地区はリオ・グランデ国有林(Rio Grande National Forest)に移され、西側の地区は、野生動物の地域として切り分け、野生のバイソンの群れを受け入れ、東側の地区はリオ・グランデ国有林から移管され一定の狩猟が認められる予定である。
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公園の歴史
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1980年12月2日に設立されたこの公園は、アラスカ半島に位置し、コディアック島(Kodiak Island)の真向かい、公園の本部は近くのキングサーモン、アンカレッジの南西の空路約290マイルに位置している。元々は、1918年9月24日、ノバルプタの1912年の大噴火によって形成された特異な地形を守るため、国定公園に指定された。この噴火の火砕流により、広さ100 平方キロメートル (40平方マイル)、深さ100から700フィートにも及ぶ、「1万本の煙の谷」(Valley of Ten Thousand Smokes)が生まれた。この名の由来は、谷のいたるところから噴出物の余熱による蒸気が吹き上がっていたことにちなむ。
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公園の歴史
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マナス国立公園は、1928年10月1日に指定された面積 360 km2 の鳥獣保護区が端緒であり、1973年にはマナストラ保護区(Manas Tiger reserve)が設定された。鳥獣保護区以前には、マナス森林保護区(Manas Reserved Forest)と北カムラップ森林保護区(North Kamrup Reserved Forest)が設定されていたが、Cooch Behar royal family と Gauripurのラジャの狩猟用の保護区だったこともあった。 1951年と1955年に面積が増え、391 km2 になった。1985年12月にユネスコの世界遺産リストに登録され、1990年にはカヒタマ森林保護区(Kahitama R.F.)、コキラバリ森林保護区(Kokilabari R.F.)、パンバリ森林保護区(Panbari R.F.)が加えられて、マナス国立公園となった。しかし、1992年にユネスコは、密漁の横行やテロ活動を理由に「危機にさらされている世界遺産」リストに加えた。2008年2月25日には、面積が 950 km2 に増加した。 2011年、危機遺産登録から除外された。遺産に深刻な被害を与えていた民族紛争が解決し、その状態から回復しているためである。
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