公園の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:48 UTC 版)
公園の北半分は自然を残した樹林で、石棺の露出した前方後円墳の明戸古墳、国府台合戦の伝説を伝える夜泣き石(公園に隣接する總寧寺から移設)、北原白秋の旧居紫烟草舎(江戸川区から移築)等が残っている。 公園の南半分は西洋式庭園で、桜が多く、近年はバラの育成にも力を入れている。また、江戸川に近い斜面林の中に、弘法大師(空海)発見と伝えられる湧き水の羅漢の井が残っている。また、園内には市内最高標高地点も存在する。 自然が残されているため、春秋は小学校や幼稚園の遠足の地として親しまれている。 近くの江戸川堤、矢切の渡しと結んで散策コースとして歩かれることが多い。さらに、市川市では、京成線国府台駅・江戸川堤・里見公園・国府台緑地・じゅん菜池緑地・小塚山緑地・堀之内貝塚公園・北総線北国分駅をつなぐ道を、散策路「市川水と緑の回廊」として整備している。
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公園の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:18 UTC 版)
敷地面積はおよそ7万平方メートル。公園中心の高みには亀山上皇像が建ち、その周囲には県花のウメや県木のツツジなどの樹木や流水を配した日本風公園として市民県民の憩いの場所となる。住所は大半は博多区東公園になるが、一部は博多区千代や東区馬出となる。 かつて千代の松原の一部であったのを、1873年(明治6年)の太政官布告に基づいて1876年に公園地とした。福岡県内最初の県立公園である。それより前の1868年(明治元年)には旧福岡藩主黒田長知によって招魂社が妙見・馬出の地に創建されている。当初は東松原公園の名称であったが、1900年(明治33年)に東公園と改めるとともに県の管理となった。 その後、公園周辺の開発により白砂青松の景観は失われるが、代わって1910年(明治43年)川上音二郎によって洋風劇場の博多座(現在の博多座はこの名を踏襲したもの)が建てられた。また1933年(昭和8年)には福岡市動物園が開園したが、これは太平洋戦争の戦局悪化により1944年(昭和19年)に閉園、戦後の動物園再建では南公園へ移転した。 1981年(昭和56年)には公園北側に県庁舎が移転。運動施設は移転。
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公園の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:45 UTC 版)
全体が丘陵地で展望広場からは博多湾が一望できる。園内は自生のマツ・シイ・カシが茂り、またサクラ・ツツジが植栽された風致公園である。サクラは約3000本あり、日本さくら名所100選に選定される。 古くから荒津山ないし荒戸山と呼ばれていた。江戸時代になり、福岡藩によって東照宮が建立されたが、明治になって廃祀されしばらくは荒れるに任されていた。1873年(明治6年)の太政官布告に基づいて1881年(明治14年)に公園地「荒津山公園」とされた。1885年(明治18年)には園地を広げてサクラやカエデを植栽。1900年(明治33年)に西公園と改めるとともに県の管理となった。 太平洋戦争前までは平野国臣・加藤司書・吉岡友愛の3体のブロンズ像があったものの福岡大空襲で破壊され、平野国臣像のみが戦後に再建された。 かつては海岸であった公園北側は、荒津地区として1970年(昭和45年)に埋め立て竣工し、128基の貯油施設を有する石油中継基地として博多港の重要な役割の1つを担う。北側にはまた福岡都市高速が走っている。
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